見えすぎちゃって困る

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 カラスの大群に奇襲攻撃を受けた感染者は泡を吹きながら逃げ惑った。モニター室から見る高田製薬の正面玄関前は、腹をすかせた鋼色の鳥の群れがうまそうな青い巨大カニを貪り食っているように見えるが、もちろんそうではない。新型コロナウイルスの新種であるメタルとクラブがそれぞれの宿主を操り、生き残りを賭けて殺し合いを演じているのだ。  「よし!形勢逆転。メタルが圧倒している。いまのうちに有刺鉄線を張り巡らせて守備を固めましょう!」。もじゃもじゃ頭の研究員が驚喜しながら叫ぶと、アキラが「いや、喜ぶのはまだ早いです。上空を見てください!」と窓外を指さした。  「あの青い雲は、いったい…」。高田善治郎が思わず腰を浮かした。東の上空に積乱雲のような巨大な青い塊が見えた。高田製薬に近づいてくる。目を凝らすと、それは鳥の群れだった。大半は都内でよく見かけるスズメやハト、ムクドリだが、カラスもけっこういる。カニを食べて感染したとみられた。  「メタルとクラブの感染力は互角。クラブに襲われて再感染したカラスがいても不思議ではないが、あの数は尋常じゃない。メタルの数的優位はなくなったか」。モニター室は再び失意のどん底に突き落とされた。  アキラたちの会話はトランシーバーを通じてフミや秘書の黒崎にも聞こえた。グリーンベレーで鍛えた黒崎も上空を近づいてくる鳥の大群がクラブに感染していると聞き、敗北を覚悟した。  「来るぞ!」  青いカニの群れは高田製薬の正面玄関前で急降下し、地上で仲間を襲っているカラスを目がけて突進した。「ギョエー! ギャッ!」。数十倍に上る圧倒的な集団攻撃の前に、メタルに感染したカラスは断末魔の鳴き声を上げ、一瞬で蹴散らされた。  クラブに感染した鳥の群れは負傷して身動きできなくなった敵を一匹残らず殺戮すると、今度は高田製薬の本社に狙いを定めて舞い上がり、窓という窓に体当たりを仕掛けてきた。「バシン、バシン」。ガラスがきしむ音が社屋に鳴り響いている。東京駅や京橋駅、有楽町駅からは武器を持った新たな感染者の集団も近づいてきていた。  「クラブの狙いはメタルの抹殺だとはっきりした。ヒッチコックの映画が我が身に起こるとは…」。善次郎は声を張り上げた。  「みんな聞いてください。ここには鳥獣類に使う麻酔薬のたぐいはないのでしょうか。仮にも日本最大の製薬会社です。あらゆる可能性を探ってください。時間がありません!」  高田善治郎の指示で研究員が一斉に散らばり、効果がありそうな薬品類をかき集め、各所にちらばっているハンターや警備員に配った。  「フミさん、これ使ってください。窓を破って侵入してきたらプシューって吹き掛けてください」  研究員から殺虫剤を手渡され、フミは心が折れそうになった。「相手は鳥とカニよ。これ、効くのかなあ」と尋ねると、研究員は「わかりません。すみません」と答えた。警備員の足ががたがた震えている。「ドンッ、ドンッ、ドンッ」。隔離病棟の窓ガラスには無数の鳥が入れ代わり立ち代わり執拗に体当たりをしていた。もはやここまでか。  フミは頭の中がチリチリとした。どうするの。どうしたらツルギくんたちを守れるの。何かないかな。なにも思いつかないよ。でも無駄死にはしない!  フミはふぅと深呼吸するとトランシーバーを握りしめ、アキラに話しかけた。  「アキラ、聞こえる?『人生50年、滅せぬもののあるべきか』だね。私はここでツルギくんたちを守るよ。約束したんだ。守るって」  モニター室でアキラは唖然とした。何を言っているんだ、フミは。織田信長を気取っているときかよ。いまは人生100年時代だっていうのに。隔離病棟では扉の背後でツルギたちも言葉を失っていた。  「フミ、落ち着いて!いま応援に行くから!」。アキラは手が震え、ほとんど怒鳴り声になっていた。  「そうだよ、フミさん。戦うなら俺たちもいっしょに戦う。ここから出してくれ!」。ツルギやルカもドアを叩きながら叫んだ。  「アキラ、聞いて。私ね、この子たちに信じられる大人もいるって知ってほしいんだよ。大人に大事にされた記憶をあげたいんだ。一生懸命守るけどさ、最後はこの子たちもやられるかもしれない。でもね、せめて愛された記憶のひとつでも持って逝ってほしいんだ。私、思ったんだよ、私が大人として最後にこの子たちのためにしてあげられることはもうこれしかないって」  アキラは走りだしていた。ばかだ、フミは大馬鹿だ。1人では逝かせない。ぜったいに。鳥の体当たりは続き、あちこちのガラス窓にヒビが入っている。結界が破れるのは近い。間に合ってくれ。アキラは全速力で走った。  アキラがフミのいる隔離病院に向かっているとは知らずに、フミはトランシーバーに向かって話し続けていた。  「ねえ、アキラ。私もね、子どものころ大人って嫌いだった。嘘つくし、お金のことばかり考えているし、見栄っ張りだし。そんな大人にはならないぞって考えてたんだけど、いつのまにかつまならい大人になっていたよ。この子たちに会って思い出した。あのころの気持ちを。アキラ、ごめんね。勝手なことばかりして。アキラはさ、ちょっと残念な生き物っぽかったけど、大好きだった。来世でもお嫁さんになってあげるから安心して」  「それからツルギくん、みんなも、最後まで諦めちゃだめよ。なんか矛盾したこと言ってるよね、ごめん。けど、諦めないことって結構、大事だからね。何かをなす人ってね、諦めない人よ。これは善次郎さんに教わった」  「やばい、フミさんは本気だ。マモル!このドアの鍵を開けてくれ。感染リスクなんて言ってる場合じゃない。俺は誰かを犠牲にしてまで生きていたくない!」。ツルギはもうパニックだった。マモルが七つ道具で必死に鍵をこじ開けようとすると、フミが一喝した。  「ツルギくん、だめよ!あなたは家族を守るって言ったでしょ!あれは嘘なの?これはね、大人の問題なの。新型ウイルスはね、私たち大人が切り捨ててきた弱い者が誰かを教えてくれた。見て見ぬふりをしてきた不都合な真実を突きつけられたわけ。あなたたちを守らなければ、私たち、あなたたちを2度捨てることになるのよ。そんな世の中はもう終わりにしなきゃね」  モニター室では善治郎、もじゃもじゃ頭の研究員や同僚たちが神妙な面持ちでフミの話を聞いていた。  「それから善治郎さん、みなさん、本当にお世話になりました。短い期間でしたけど、すごく充実していました。生きてるって実感がありました。最後に生意気言ってすみませんが、みなさんはみなさんの成すべき事をしてください。幸運を祈っています」  フミが電源を切る間際、トランシーバーからガラス窓のひび割れる音が聞こえた。心配をかけまいと電源を切ったのだろう。善治郎はパイプ椅子の脚を一本抜き取り、手に取ると、研究員に向かって言った。  「フミさんにまた一本取られました。今回は決定的な一本でした。私はどうやらみんなが笑って暮らせる世界を創り損ねたようです。みなさん、こんなことに巻き込んでしまい本当にすみませんでした。みなさんを守ることができず、経営者として失格です。こんなもので戦えるかわかりませんが、私はフミさんに加勢します。女子どもを見捨てたとあっては、亡き妻に顔向けができません。フミさんがおっしゃったように、みなさんはそれぞれの成すべき事をしてください」  善治郎はそう言うと、ドアに向かって歩きだした。  「老人1人で行かせませんよ。死ぬと決まったわけじゃない」  もじゃもじゃ頭が「孫の手」を持って続いた。他の研究員たちも定規やキーボード、脚立など思い思いの武器を手に隔離病棟に向かった。  「あなたがた、そんなもので戦えるのですか」。善治郎は笑った。  「名誉会長を守るくらいできますよ」。研究員も笑った。  善治郎たちが隔離病棟に到着すると、既に戦闘が始まっていた。アキラが殺虫剤を撒き、フミがモップで鳥やカニをたたき落としている。警備員もほうきやスコップを振り回し、カニをたたきつぶしていた。フミは的確に敵を倒している。前世ではほんとうに戦国武将だったのかもしれないな、と善治郎は思った。フミの防護服は既にぼろぼろだった。  「フミさん、加勢します」  「善治郎さん!」  「おりゃー!」  もじゃもじゃ頭が「孫の手」でスズメをたたき落とした。他の研究員は割れた窓ガラスから次々と入ってくる敵を狙って打ち倒した。善治郎には剣の心得があるらしく、攻撃に無駄がない。寄せ集めにしては善戦していた。  「これは奇跡が起こるかもしれないね、アキラ!」  「だといいんだどねぇ。フミ、向こうの階段を見て」  「げっ!」  隔離病棟は低層棟だ。階段から金属バットや竹刀を持った感染者がぞろぞろと上がってきた。玄関に配置した百戦錬磨の大勢のハンターたちが倒されるほどだ。きっと想像を絶する数だろう。先頭集団はもう50メートル先まで迫っている。青いカニの群れだ。胃がきりきり痛む。もうカニは金輪際食べられないな、とアキラは思った。  善次郎たちも感染者の集団が近づいてくるのに気付いた。「南無三」。追い詰められた善治郎が天を仰ぐと、にわかに天井が透けて輝き、見慣れない物体が音もなく舞い降りてきた。  「ジャージー牛、いやホルスタインかな?」。研究員たちも口を開けて天井を見上げ、それが豪華絢爛な装飾品で飾られた金色の牛車だと気付いた。
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