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「善治郎さん、遅くなりすみませんでした」
黒地に白斑点の牛が「モォゥ」と鳴くと、善次郎の亡き妻、ウシがおっとりと牛車から降りてきて、ぺこりとお辞儀をした。善治郎が結婚祝いに送った龍郷柄の大島紬を着ている。告別式で見送ったとき、善治郎が棺桶に入れた紬だった。善治郎は言葉に詰まり、ただただウシを見つめていた。アキラやフミ、研究員たちもあんぐりと口を開けている。
「善治郎さん、説明は後ほどいたします。階段の方々がひるんでいるこの隙に、まずはこの状況をなんとかしましょうね」
ウシが右手を空中に挙げて何かを探し、「ああ、ありました。ありました」と言うと、蛇口をひねるような仕草をした。
「さあ、アキラさんとフミさん、ツルギくんたちを外に出してあげてください。もう感染の心配はありません。大丈夫ですから」
ウシがそう言うと、天井が薄い雲のような煙で覆われ、霧が舞い降りてきた。
「な、何をしたんですか、ウシさん」
アキラが尋ねると、ウシは「これは天界の消毒液なんですよ。ふふふ。しばらくすれば、あの方たちも癒えるでしょう」
ウシが指さした階段の方に目を向けると、アキラたちに猛然と襲いかかろうとしていた感染者の群れがおとなしくなっていた。そのうち「どこだ、ここは」「何してるんだ、俺は」などとぶつぶつ言いながら、三々五々その場を立ち去り、そして誰もいなくなった。
「た、助かったのかい、私たちは?」
もじゃもじゃ頭が全身から滴を垂らしながら確認するように言った。
「はい。閻魔様に内緒で消毒液を使わせていただいたので、見つかったら叱られますねえ」
ウシがにっこりとほほえんだ。
「やったー!」
アキラとフミは研究員に隔離病棟の鍵を借り、病室のドアを次々と解錠して回った。
「フミさん!」
ドアが解き放たれ、フミが顔を覗かせると、ツルギやルカが驚いて叫んだ。スグルやマモル、カケル、子どもたちも駆け寄ってきた。
「もう外に出ても大丈夫よ。霧を全身に浴びてね。ありがたいお薬みたいなんだ」
「よくわかたないけど、わかった!シャワーを浴びればいいんだね!」。ツヨシはそう言うと、真っ裸になって廊下に飛び出した。
「ツヨシ、服は脱がなくていいの!」。ルカが慌てて服を着せようとすると、ツヨシが廊下を逃げ回り、恒例の追いかけっこが始まった。みんながどっと笑った。久しぶりの笑顔だった。
「ウシ、私を迎えに来てくれたのだろう?どうして私のところにもっと早く来てくれなかったんだい?」
しびれを切らせた善治郎がやや不機嫌に問い詰めると、ウシは困った様子で釈明した。
「そう言われるのがつらくて、なかなかお会いする決心がつきませんでした。本当にごめんなさい。でもね、善治郎さん、あなたにはまだまだやることがあります。あちらの世界に連れて行くことはできません」
「私は精いっぱいやったよ。もう戦うのは疲れたんだ。君のそばにいさせてほしい」
善治郎とウシがああだこうだとかみ合わないやり取りを続けていると、天井の霧が厚みを増して雲のようになり、雨が降りだした。全員、びしょ濡れだった。
「ウシさん、もう消毒は十分ではないでしょうか」。濡れ鼠になったアキラがやんわりウシに訴えた。
「あら、あら、すみません。ちょっと蛇口をひねりすぎちゃったみたいだわ。ちょっと待ってね」。ウシは慌てて空中を探り、蛇口を閉めるような仕草をしたが、突然、「あらっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「ウシ、どうしたんだい?」
善治郎が心配そうに尋ねると、ウシの手には古びた木製の蛇口が握られていた。
「取れてしまいました・・・」
「えっ?」
その場にいた全員が事態を飲み込めぬ間に、廊下の雲はどんどん膨らんで屋外へと流れ出して空を覆い尽くしていった。いまや社屋内の豪雨は屋外にも広がり、雨粒の音で会話の内容が聞き取れないほどだった。
ウシは懸命に大声を張り上げた。「みなさん、屋上に避難してください!このままじゃおぼれてしまいます」
「おぼれる?いったい天界の消毒液はどれくらいあるんだい、ウシ?」
善治郎が負けじと大声で問い返すと、ウシは「どうでしょう。うーん。地球1個分くらいでしょうか・・・」と答えた。
「えっー、地球1個分!?」。ウシ以外の全員が凍り付いてしまった。
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