見えすぎちゃって困る

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 「地球1個分の雨が降ったら、全ての陸地が沈むってことだよね?屋上に避難して意味あんの?」  「な、ないと、お、思う・・・」  マモルとスグルの会話はみんなに筒抜けだった。内緒話のつもりだったのだろうが、雨の音に負けまいと声を張り上げるものだから、否が応でも耳に入る。水面は既に足元まで迫っている。善治郎はもちろん、アキラやフミも無駄と分かっていたが、みすみす溺れ死ぬわけにはいかない。ウイルスとの戦いに勝ち、せっかく拾った命だ。  「ウシ、なんとかその蛇口を修理することはできないのかい?」  善治郎は前向きな答えを期待したが、ウシはお手上げの様子で、「閻魔様が気づいてくだされば、なんとかなると思うのですけどねえ・・・」と弱々しく答えた。  善治郎たちは低層の隔離病棟を離れ、全員で隣接する高田製薬の本社社屋に移動して屋上に向かっているころ、怒り狂った閻魔大王が三途の川の岸辺で小野篁(おののたかむら)に怒鳴り散らしていた。  「なんとしたことか、これは!罪人が押し寄せてくるではないか!あのばあさんの仕業だな!1人も死なせぬと申したのは嘘であったか。もう我慢できん、即刻呼び戻せ。畜生道では生ぬるい。地獄道に落としてやるわ!」  閻魔大王が口から噴射した火炎をすいっとよけつつ、小野篁が丁重に答えた。  「閻魔様のお怒りはごもっともですが、ウシ殿は、嘘は申しておりませぬ。新型ウイルスではついに1人の死者も出しませなんだ。あの者たちは溺死。天界の消毒液がなぜか向こうの世界にあふれ出しまして、溺れ死んだようでございます」  これを聞いた閻魔大王は仰天した。「な、なに!なぜ、天界の消毒液があふれたのじゃ!消毒液槽を確認せねばならんな。罪人どもが押し寄せぬよう関所を封鎖して天界に行くぞ!篁、急げ!」  閻魔と小野篁は、三途の川から1人も上陸させるなと門番に命じると、水牛にまたがり、天界に向けて走った。餓鬼道と修羅道、人間道、畜生道、地獄道を抜けた一番奥に天界はある。  「蛇口がもげておるではないか!」  だが、不思議なことに消毒液で地面が濡れている様子はない。閻魔が不審に思って蛇口に顔を近づけると、空間が歪み、その向こう側に見たことのない景色が広がっていた。消毒液はその世界に流れ込んでいた。  小野篁は「失礼」と言うと、扇子の枝を蛇口が外れた穴に突っ込んで応急処置を施し、歪んだ空間の向こうの世界をしばし観察して言った。  「あれは東の都のようですな。なるほど、ウシ殿はウイルスに感染した者の治療に消毒液を使われたのでしょう。まことにあっぱれでござる。しかし、これは困ったことになりましたぞ、閻魔様」    小野篁の神妙な表情を見て閻魔大王は不安になり、いらだち始めた。    「な、何が困ったのじゃ」  「天界の消毒液が人間界に漏れて大勢を死なせたことが薬師如来様にでも知れれば、閻魔様と私は管理不行き届きで厳罰を免れますまいなあ。まあ、私はよいですが、閻魔様は大王の世襲制を解かれ、ご子息は苦しい就職活動をすることになるでしょう。いまは不景気ですから、大王のようなよき仕事がみつかりますかどうか・・・」  「何を言う、篁!閻魔大王の職責は世襲と決まっておる。有史以来の決まりじゃ。薬師如来といえども手出しはできぬはずじゃ!」。閻魔大王の顔は怒りと不安でみるみる赤黒くなった。小野篁はもう一押しとみて、畳みかけた。  「しかし、閻魔様。これだけの人間が天界の消毒液で溺死したのですぞ。ほれ、死者の列の最後尾が見えぬほど、遠くに。ああっ、これでは人を救うことが使命の薬師如来様の面目は丸つぶれ。有史以来の伝統を葬り去るなど造作も無いことかと・・・」    「そ、それは困る。わしは100年後には家督を譲るつもりなのじゃ。息子はまだ百人いる。ひとり3千年は大王をやるとして、30万年は世襲を続けてもらわねばならんのじゃ!篁、なんとかせよ!」  小野篁は「しめた」と内心でほくそ笑んだ。「閻魔様、実は私に妙案が・・・。どうでしょう、ここはひとつ、ウシ殿ともども、あの死者どもを全て向こうの世に戻してはいかがでしょうか。槽を修理し、消毒液をつくり直して満タンにしておけば、何事もなかったことになりまするが」    「あのばあさんを無罪放免しろと言うのか!ならん、それだけは許さぬ。あのばあさんは地獄道に落とす。問題ばかりおこしおって、今日という今日は勘弁ならん!即刻、呼び戻せ!」  「しかし、閻魔様、ウシ殿を戻せば、また新たなトラブルを起こしますぞ。地獄道の鬼どもが向こうの世界に迷い込んでもしたら、たいへんな騒ぎになるかと。なにせ拷問が趣味ですからなあ。いやいや、釜ゆでの炎が向こうの世で大火事を起こすかも知れませんな。そうなれば、また三途の川に死者の行列が・・・」  閻魔大王の口元がわなわなと震えた。  「な、なんというおそろしいばあさんだ。わしは3500年生きているが、そのような凶悪な人間はついぞ見たことがない。篁!あのばあさんを懲らしめる良い方法はないのか!」  「ですから、あちらの世にとどめ置くのが最善の策かと存じます。なにせ人間界は水浸し。天界とは比べものにならぬ苦労がございますでしょう。畜生道や地獄道に落とすのは、あちらで四苦八苦するのを見てからでも遅くないかと」  「ええい、わかったわい。篁、わしゃ、口惜しゅうてならん。なんといまいましい」。閻魔は地団駄を踏んでわめきちらしている。小野篁は勝ちを確信し、閻魔の部下をかき集めて消毒液の大量生産と槽の修理を命じた。  「さて、仕上げに一筆したためますかな」。篁は懐から筆を取り出すと、巻物にさらさらと文をしたため、カモメの背中に縛り付けて、ウシの元に飛ばした。
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