2人が本棚に入れています
本棚に追加
彼を愛した彼女の話
その人に初めて会ったのは、私がまだ高校生だった頃の話だ。
家から徒歩10分の距離の大きな川原。
月明かりに照らされた川面のそのすぐそばの大きな石の上に、その人は座っていた。
ゆるくウエーブした短い髪に、黒っぽいジャケットにパンツ。
辺りはすっかり闇に包まれているのに、白く輝く月に照らされた彼の姿は驚くほど鮮明に見えた。
彼との出会いはあまり歓迎すべきものではなかった。
せっかく一人になれると思って来たのに、先客の存在は邪魔でしかなかったからだ。
仕方なく、引き返そうとそっと踵を返すと
「こんばんは」
気配に気づいたのであろう彼に話しかけられた。
「あ……」
「ごめん、邪魔だったかな? もう帰るから、君はここにいて」
まん丸の月をバックに微笑む彼は、ゾッとするほど美しかった。
「いえ、その……私も別に用事というわけではなかったので、気にしないでください」
「そう? 君は悲しそうな顔をしているね。 僕でよければ話を聞くよ」
冷静に考えれば、その言葉は怪しすぎた。
でも、うんと優しくて甘い彼の声が、私を惹きつけて離さなかった。
まるで天使か何かのように見えたのだ。
結局、気が付けば私は彼と河原に並んで身の上話をしていた。
両親と弟が車の事故で亡くなったこと。私は受験勉強のために友人の家に泊まっていて難を逃れたこと。
泣こうと思ってここに来たのに、涙が少しも出ないこと。
彼は川面を見つめたまま黙っていた。
「ここで身投げでもしようとしてた?」
「…………」
随分遠慮がない物言いだと思った。
でも、私の気持ちを聴こうと黙って隣にいてくれる彼に、私は根負けした。
「独りぼっちは耐えられないの。先週までみんなで笑ってたのに。受験が終わったら家族で温泉旅行に行こうって言ってたのに。今はもういないなんて、どうしても信じられない」
「仲のいい家族だったんだね」
「うん……でも、弟とはケンカしたまま別れちゃった。私が悪かったから、向こうで会えたら謝りたいな」
「君を必要としてる人がまだここにはたくさんいるんじゃないのか?」
彼のその言葉に、私は色んな人の顔を思い浮かべた。
親戚に友達、彼氏。泣いてくれたたくさんの人達。私は必要とされているのだろうか?
「……あなたはこんなところで何をしているの? この町の人じゃないでしょ? 」
彼は目を伏せて笑った。
「うん。僕も一人で寂しさを癒しにきた……のかな」
「悲しいことがあったの?」
「うーん、悲しいとは少し違うかな。寂しいんだ。一緒に歩いていきたかった女性がいたけど、決別を選んだ。彼女の新しい門出を祝福したいと思ってるけど、今の僕にはちょっと難しい」
「好きだったのね」
「うん、そうだね。彼女のことが好きだった。でも、今日君に会えてよかった。僕の報われなかった気持ちを一緒に弔ってもらった気分だ」
「私も」
私は今、世界中で一番不幸だ。
私を愛して守ってくれる家族もなく、たった一人でここに立っている。
でも今この瞬間は、孤独ではなかった。
ただぽつりぽつりと会話をしただけだけれど、彼は私の痛みをいくらか持っていってくれた。
「帰ろう。夜の川辺は冷える」
彼は立ち上がった。長い足がすっと伸びる。
「ありがとう。いつまでここにいるの?」
「もうここは離れる。でも、多分また会えるよ。僕は煌夜。君の名前は?」
「小夜。ありがとう煌夜。さよなら」
「あぁ、小夜。さようなら」
煌夜はまた会えると言っていたけれど、結局あれから5年が経った今も、彼とは再会できていない。
高校卒業と同時に故郷の町も捨てたから、よっぽどの偶然がない限り、もう彼に会うことはないだろう。
私は時々彼を思い出す。
いつもではないけど、必ずふとしたタイミングで思い出す。
そして、恋しいと思っている自分に気付くのだ。
あの月夜の川原でどうしようもなく彼に惹きつけられた時の気持ちをまだ覚えている。
私は両親が残してくれた蓄えと保険金で何とか大学を卒業し、今は都内の小さな機械メーカーで経理の仕事をしている。
少ない給料だけど、何とか一人暮らしができている。
外食なんて滅多にできないし洋服もセール品しか買わない。
故郷を遠く離れ、親戚とも友人とも連絡を絶ち、18歳までの私を誰も知らない土地で一人ひっそりと生きている。
私はこの暮らしが気に入っていた。
明るかった小夜はもういない。私は今、生まれ変わって別人を生きている。
そういうことにしておけば、もうあの時の小夜の悲しみと苦しみを思い出さなくてもいい。
誰にも心を乱されずに静かに暮らせば、楽しいこともそれほどない代わりに、二度とあんな地獄で溺れることもない。
「え? ご両親に?」
「うん、親が会わせろってうるさくてさ。それに、もう俺もいい歳だし、言い頃なんじゃないかと思ってさ」
私の狭いアパートで、信也は缶ビール片手に言う。
私には一応彼氏がいた。信也という、30歳のサラリーマン。
だいぶ年上だけど、それくらい大人な方が付き合いもさっぱりしていていいかと思ったのだ。実際、高校時代の彼とはその後2年付き合ったけれど、同い年は幼かった。
「いつ行こうか? まぁ緊張しなくても、まだ具体的な式の日取りとか聞かれるわけじゃないからさ。でも、それもそろそろ考えていこうぜ。俺も忙しいから、結婚の計画は早めに立てたいわけよ」
私はさっきから一言も発していないのに、よくもまぁペラペラとしゃべるものだ。こんなプロポーズの仕方があるだろうか。それに、私に断られると微塵も思っていないところに腹が立つ。
私は一応信也の彼女だが、別に彼を愛しているわけではない。
無理やり誘われた合コンで熱烈にアプローチしてきたのは信也だ。
その時の彼を正直うっとおしいとすら思ったが、ちょうど一人でいるのが寂しいと思う時期だった。だから付き合った。それだけだ。
それなのにこの男は――。
「待って、信也。急にそんなこと言われても、私まだ23だし、結婚なんて考えてなかったよ」
「え? 何が心配? 仕事ならもちろん続けていいぞ。今の時代、共働きで協力し合っていかないとな。小夜が弁当を作ってくれれば、俺の小遣いは月3万でいいし」
私はゾッとした。
私の稼ぎを、なぜこの人と暮らすために使わなければならないのか。
なぜ毎日の食事の世話を、当然のように要求されるのか。
支配される。
このままでは私の一人の静かな世界が壊される。
私がやっと築き上げたものが、信也に壊される――。
「お前の家族のことも話したけど、母さん、自分の娘のように可愛がるって言ってたぞ。結婚っていいだろ? 新しく家族ができるんだぞ」
話したこともない赤の他人が家族になるなんて、恐怖でしかない。
やめて、私をコントロールしないで。
でも、私はノーが言えない。
こんなに心は拒否しているのに、嫌だの一言がいつも言えないのだ。
助けて。私が脅かされる。
結婚なんてすれば、いつか過去の小夜が暴き出される。もう二度と思い出したくないのに。
助けて、助けて、煌夜!
「おい、小夜!」
気が付けば、私はアパートを飛び出していた。
最初のコメントを投稿しよう!