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雨音の中に、笑い声が混じる。
嬉しくて、楽しくて堪らない子供の声だ。
幼子のようだったそれは、ふいに変声期前の少年の声音へと姿を変え、私に囁く。
『代償は〈喪失〉だよ』
その瞬間、胸の奥に痛みを感じた。
分かったのだ。失われるのは私の命なのだと。
(ちょっとちょっとちょっと。ちょっとさあ。代償が大きすぎるんじゃないの?ほんのちょこっと時間を巻き戻しただけでしょうが。髪の毛一本くらいにまけときなさいよ)
心の声に、もちろん子供は答えない。
(冗談じゃないわよ…)
目の前の景色がゆっくりと回り始める。私は拳を握り、ふらつく足に力を入れる。
(先週買ったスカート、まだ一回しか履いてないんだから。冷蔵庫に限定のチーズケーキも残ってるし。そうそう、今日から始まる新番組だってチェックしなきゃ…)
必死の抵抗にも関わらず、私の身体はぐらりと傾く。
まるで、あの日に見た父の姿のように。
(と、いう事は、やっぱり私は死ぬのか)
右半身に強い衝撃を感じた。すぐ鼻先に見慣れた床がある。
(…泣くのかな、あいつ。泣くだろうな。絶対泣く)
立ち上がろうにも、腕の力は失われている。
(寒い…)
指先が震えているのは体温の低下のためか。それとも、死の恐怖を突き付けられたせいだろうか。
「は、反転反転反転っ!」
「無理だ。二度は出来ない」
耳元で聞き慣れた声が騒いでいる。
私は、はっと、失いかけていた意識を取り戻す。
(ああそうか…)
僅かに頭を動かす。私と同じ高校の制服を着た彼らが、揃って私を覗き込んでいた。4人とも酷い顔だ。
(そんな顔、させるつもりはなかったんだけどな)
彼らに向け、せめてもの笑顔を作ろうとした時だ。見慣れた顔の後ろに『アレ』の姿が見えた。『アレ』はゆっくりとこちらに近付いていた。血の滴るナイフを振り上げて。
「やめろっ」
異変に気付いた彼らの一人が『アレ』を突き飛ばす。ナイフは床を転がり、『アレ』は取り押さえられる。だけど『アレ』はにたりと笑い、彼らの手を跳ね除ける。止まらないのだ。全てを血に染めるまでは。鼻の奥に、先ほどの匂いがまだ残っている。
(まずい)
もう、時間の反転は不可能だ。
(なんとかしなきゃ)
焦る心とは裏腹に、私の意識は急速に霞んでいく。滲む視界の端に、半分開いた窓が映る。
(ごめん…)
息苦しさに喘ぎ、閉じていく意識の底で足掻き、私は吐息のような叫びを漏らす。
『…反転!』
その瞬間、世界は青に染まる。
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