恋は一日にして成らず

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恋は一日にして成らず

 母は女の子が欲しかったらしい。  二人の兄は、僕とは対照的なスポーツマンで、水泳とバスケで大学まで行けるような人たちだ。  僕はスポーツよりも本が好きで、友達に女の子が多かったせいも有り、よく塗り絵やお絵かき、お飯事とかで遊ぶことが多かった。  習い事も、スポーツよりもピアノを選んだ。  僕はそうやって育ってきた。  兄二人とは違う僕を、母は娘のような感覚で育てたと、高校生の頃に言った。  その告白は、別に不快では無かった。  今時、男でも洗顔の後にスキンケアをする事はおかしくない事だし、日焼け止めは当たり前のようになっている。  母と、美容情報を交換することは会話の一つで、母の日には僕が兄弟の代表としてプレゼントを選んでいる。  それは、大体、話題の美容液や美容グッズだったりで、母の好みを外したことは無い。  既婚者の兄たちも、僕の助けが無ければ、今でも一人で女心と奮闘しているだろう。  奥さんになる彼女へのプレゼントの相談に、どれだけ乗ったか分からない。  男だって綺麗でいたいって思う。  ニキビや、日焼けで肌が荒れたら、気分も下がる。    そんな僕の前の席に、日に日に荒れていく先輩女子がいるなんて、耐えられない。  服部光希さん。  見た目はそんなに悪くないのに、仕事に全精力を注ぎ過ぎているのか、髪の毛は艶を無くして、肌にはメイクでは隠しきれないニキビやクマが。  ネイルも、もう諦めたのかスッピンだ。  でも、仕事は凄くできて、イケメン、バツイチ、エリートの渡辺課長からは全幅の信頼を得ている。  しかも、どうやら、先輩。  課長の事が好きなようだ。  女子社員の多くは渡辺課長に憧れているが、先輩もしっかりその仲間入りをしている。  でも残念。  課長は本社の特別プロジェクトに参加が決まり、ここから離れることになったのです。  先輩。  どうするんですか?  このまま、課長を見送るんですか?  まぁ、それはいいや。  とりあえず、荒れ果てた姿を何とかして下さい。  「服部さん。最近美容院行きました?何だか髪の毛、元気無いですよ。」  書類を渡すついでを装い、先輩の痛みきった髪の毛に触れる。  見た目以上に重傷だ。  水分も無くなって、パサパサ。  毛先は痛んで、手触りが最悪。  「千葉君、それ、セクハラです。」  服部さんは画面から一瞬だけ目を離して、僕が持っている書類を抜き取る。   「そうなんですか?すいません。」  痛んだ髪の毛が可哀想で、居ても経ってもいられない。  「僕、いいシャンプー知ってますよ。」  そう言うとスマホを開いて、画面を見せた。  「このシャンプー、一回使っただけで、違いが分かるんで是非使ってみてください、。」  今、一押しの、ダメージ救世主ヘアケア商品を、速攻、先輩のスマホに送る。  これで、まずは髪の毛を救ってあげて下さい。  「ありがと。」  僕の願いが届いてない事が分かる、何の感情も無いお礼。  そして、スマホを開かずに、書類に目を落とす先輩。  ここで引いては、髪の毛は救われない。  「でも、『美は一日にして成らず』です。根気よく使って下さいね。」  書類を読む先輩の耳に届くように、声のトーンを上げて言う。  しかし、僕の気遣いもむなしく、「はい、はい」と受け流された。  大体の女子は聞いてくれるのに。  「千葉。」  先輩の後ろで肩を落とす僕を、課長が呼んだ。    翌週、直ぐに先輩に変化が現れた。  伸びきって艶のなくなった髪を切って、綺麗に整えてきた。  長さはそんなに変わらないけど、ちゃんと美容院に行ったようだ。  それに、すっぴんだった爪も、目立たないけど、ちゃんとネイルがしてあった。  僕の言葉が、ちゃんと届いたんだ。  受け流されてると思ってたけど、先輩はちゃんと聞いてくれてたんだね。  そう思ったら、嬉しくて毎日先輩を観察するようになった。    相変わらず、仕事は全力投球で、僕もつい頼ってしまうほど。  でも、仕事の合間に課長を見る目は、完全な乙女。  「恋は、一番の美容液なのよ。」  何時か母が言った言葉を思い出した。  あぁ、そうか。  確かに、一番の美容液だね。  先輩の心を動かしたのは、僕の言葉ではなくて、課長への思いか。  なぜか、がっがりする自分がいた。  「千葉君。この書類、間違ってるよ。」  沈んだ気持ちで黙々と入力作業をしている僕の席に、先輩が書類を持ってやって来た。  いつかと逆で、僕の斜め後に立って、書類を見せる。  「ここの数字と、ここの数字、合ってないし。こっちの方は、辞世の挨拶が冬になってる。今は初夏。」  簡単な間違いを指摘されて、バツが悪い僕は、先輩の顔も見ずに謝った。  「すみません。すぐに直します。」  「こんな間違い、珍しいね。何かあった?」  珍しいのは先輩の方で、そんな風に声を掛けてくれることはほとんど無かったのに。  いつも、僕には興味なさそうに返事するだけ。  その言葉で、間近にある先輩の顔を見た。  あちこちに出来ていたニキビは少なくなっていて、肌が明るくなったようだ。それに、この香りは、僕が進めたシャンプーの香り。  「いえ。課長の送別会の準備に手間取っちゃってて。  すみません。」  言い訳は、とっさに出たのに何だか後味が悪かった。  「そう。  私が手伝えることがあったら言って。」  そう言う先輩の顔は穏やかだった。  「いえ、大丈夫です。」  僕の強がりが、先輩にバレませんように。  そう思いながら、パソコンの画面を見た。    課長の送別会当日。  僕は進行役で乾杯まで済ませると、後は御歓談タイム。  その方が、課長と多くの人が話せるだろう。  僕は目的のテーブルへ、ジンライムの入ったグラスを持って行く。  「何飲んでるんですか?」  サラダをつついている服部先輩に声を掛けたけど、僕の声は届いていないようだ。  まぁ、いい。  今日の先輩を観察する。  サラダとモヒートを交互に流し込んでいる先輩に、ビールグラスを持った課長がやって来て声を掛けた。  「服部。最近、感じが変わったな。」  課長の意外な言葉に、胸がざわついた。  「そうですか?」  本当は嬉しくて、満面の笑顔を見せたいんだろうけど、先輩はクールに装う。  「何か、肩の力が抜けたって言うか、余裕が出てきたって言うか…。」  ヤバい。  その先の言葉は…。  期待に胸を膨らませて、課長を見つめる先輩は、キラキラと輝きだした。  「俺がいなくなるから、喜んでるんだろ。」  悪戯っぽく笑う課長からは、予想外の言葉。  きっと、がっかりしているだろうに、課長と同じように悪戯っぽく笑いながら、言葉を返す先輩。  「分かっちゃいます?出来る課長に付いて行くのに毎日必死だったんで、課長がいなくなるのかと思うと、ちょっと肩の荷が下りまして。」  本意ではない言葉を口にする先輩の姿を、複雑な気持ちで見る。  今日は。  いつもより、丁寧に化粧をして。  いつもより、少し明るい服を着て。  いつもより、笑顔でいるのに。  課長には、先輩の変化が分からなのか?  「俺がいなくなっても、服部なら大丈夫だ。お前の仕事ぶりは、頼もしいからな。千葉をしっかり育ててやってくれよ。」  課長は、僕を見て言った。  僕は、無神経な課長に少しでも立てつきたくて、嫌味を込めて言い返した。  「服部さんに教育されると、僕、課長にすぐに追いついちゃいますよ。」  先輩の隣に並び、課長を真っ直ぐ見る。  「そうなる事を期待してるよ。」  大人な課長が僕の肩を軽く、ポンポンと叩くと、隣のテーブルに挨拶に行った。  悔しい気持ちで隣の先輩を見ると、課長の後姿に見とれている。  先輩が欲しい言葉をくれなかった課長なのに。  僕の存在なんて気づいてなかったのに。  少しは僕の事も見てよ。  だから、覗き込むように先輩に話かけた。  「服部さん。最近、綺麗になりましたね。」  ようやく僕の顔を見てくれた。  それだけで笑顔になる。  「最近、肌の調子も良だそうだし、今日の目元のカラーと服が合っていてキレイいですね。それに、今日の服部さんは笑顔が可愛い。」  今日、僕が一番言いたかった言葉。  「髪も、ツヤツヤで、いい香り。僕のおすすめ、使ってくれてるんですね。」  思わず、肩にかかる髪を手に取った。  本当は綺麗になった肌に触れたいんだけど。  いつもなら直ぐに「セクハラ。」って言われるのに。  何も言わずに固まっている先輩に声を掛けた。  「服部さん?」  僕の呼びかけで、我に返ると、先輩は手に持っていたモヒートを一気に飲み干した。  「えっ、大丈夫ですか?」  結構な量を一気って。  先輩の飲みっぷりに驚いて、声を掛ける。  「だから、それはセクハラです。」  大分遅れて、いつもの言葉。  もう、遅いですよ。  「セクハラって、不快に思わなければセーフですよね?」  「まぁ、そうかも。」  「服部さんが僕のこと、不快に思わないようになればいいんですよ。」  勝手に口から言葉が出る。  真面目な顔して、何を言ってるんだ僕は。  「どうゆう事?」  先輩も、不思議そうな顔をする。  「だから、課長に対する気持ちと同じになってもらえるように努力するってことです。嫌、課長を越える存在になりたいってことですよ。」  何故か苛立ってそう言うと、今度は僕が一気に自分のグラスを空にした。そして、空の先輩のグラスも持ってカウンターに行った。  自分の言葉に動揺している姿を隠すように、その場を離れた。  「ジンライムとモヒート。」  バーテンダーにそう言うと、自分の言葉を思い返した。    課長を越える存在になりたい。    つまり、それは、先輩のことが好きって事?  だよな。    こんな風に恋が始まったのは初めてで、自分の言動を思い出したら笑えて来た。  まるで、小学生みたいだ。  25歳にもなって、嫉妬、むき出しの恋をするなんて。  可笑しくて、一人笑っているとドリンクをもってきたバーテンダーが声を掛けた。  「楽しそうですね。」  「そう見えますか。」  「ええ。」  「そう言えば、モヒートのカクテル言葉って…。」  「心の渇きを癒して。  だったと思いますよ。」  「ありがとう。」  そう言って、二つのグラスを持って、テーブルへ向かった。  先輩にピッタリなカクテルだね。  これからは一緒に、心もお肌も潤していきましょう。        
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