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時折、吉井さんは急に感情的になることがあった。とは言っても暴れるだとか暴力的になることは決してない。
彫刻刀で深く掘った傷跡が生々しい。
縫い跡がしっかりと残る傷跡を指差しては「僕が何したって言うんだ!!」と叫んだと思うとベッドに横になって泣いていた。
全くもってどう接して良いのかわからなかった私はただボーッと吉井さんを抱きしめて過ごした。
キューティクルが剥がれたパサパサとした髪の毛はいつも吉井さんの言葉と共に胸元にチクチクと刺さった。
「さすがに病院で両親に会った時は罪悪感でいっぱいだった。だから生きなきゃいけないと思った」
泣きながら話す吉井さんの傷は手首ではなく首にある。
吉井さんはきっと本気だっだ。
精神を病んでしまった人は、人前では信じられないぐらいのコミュニケーション能力とサービス精神を持つ人が多く、一見わからないも人も多い。
自律神経のスイッチが入れ替わった時に一気に症状が雪崩れ込んでしまう印象があった。
それはきっと誰も知らない場所で。
だから吉井さんが私の前で感情的になったり泣いたりするのはありがたい事だと思っていた。
かつて感情を出さない人がいた。
以前この街で在籍していた店で、私に抱きしめられながら寝たふりを続けていた人を思い出していた。
彼はただ何も語らず私のくだらない話に耳を傾けるだけで、自分の感情は何ひとつ話してはくれなかった。
居心地は悪かったけど肌触りの良い空間だった。
彼でさえ唯一ごまかすことができなかったもの悲しい香りは、彼にとっては死活問題であったのだろう。
私がその香りに気付いていたことを彼は知っていたと思う。
それ以上のことは何も求めてはこなかった。
滑らかで光沢のある真っ白なワイシャツのボタンに手を掛けると必ずそっと手を握られ、そのままなんとなく2人で仰向けになり天井を見上げた。
そんな時は、高い天井は成功者の証だったはずなのにバカなヤツめと嫌味いっぱいに握り返してやった。
そんな嫌味より脈々と伝わるものは他にもあったはずだが、それでも脱いでくれたら助かるのにと何度思ったことか。
それなのに、この人が言い訳できない行為に加担してはいけない。
性を売り物にしているはずなのになぜかそう思うようになっていった。
でもそれで良かったのか最後までわからないままだった。
目の前の人達の性欲を満たすことの方がどんなに手っ取り早くて簡単なことか。
吉井さんを抱きしめながら射精願望以上の向こう側を未だ探せない私は、あの頃と何も変わっていないんだと知った。
雑多さに限りのない性の向こう側の難しさに相変わらずのぶち当たりだった。
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