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十夜さんとの関係が変わったのは、今から数年前。そのアパートに引っ越ししてから五年近くが経とうとしていた。
その日は雨が降っていた。
一階に住むお婆さんが亡くなった。私もよくしてもらっていたから、夜、お線香をあげに十夜さんとその部屋にあがらせてもらったの。お線香のあの独特な匂いに混じって親しい香りが鼻を掠めた。
十夜さんの、花の香りだった。
ちょっと。どんだけ嗅覚がいいとか言わないでよ。確かに彼の匂いは好きだったよ。でも、そうじゃないの!
その花の香りは、亡くなったお婆さんの棺に敷き詰められていたの。もう冷たく硬くなってしまったお婆さんの体を、真っ白な花たちは箱の中で飾っていた。そこからふわりと漂う香りは、毎朝十夜さんとすれ違う時に香るものとおんなじもの。
お婆さんの部屋から出て、二人で階段を上がっていた時だった。
「十花ちゃんは? 」
カンカン音がする階段の途中で私は十夜さんに声をかけた。彼は振り向かないで、一言こう言った。
「……今は、いない」
私は何も聞かないで階段を上がっていった。
階段を上がりきって、すぐに部屋の扉に着いた。じゃあ、って言って互いに隣の扉に手をかけようとした時、十夜さんから信じられない言葉が飛び出した。
「寄っていくか? 」
驚いた私は、何も言わずに彼の方を見た。彼はこっちを見てはいなかったけど。
「いいんですか? 」
私は彼に答えた。
その時の彼が何を思っていたのかわからない。
でもね。
私はこう思っていたんだ。
きっと、知らないことがあるんだ。
ってね。
いい機会だったんじゃないかな。私は彼のことを知らなかったし、彼も私のことを知らなかった。
ただの、隣人だったんだ。
その夜、私たちはたくさんのことを話した。変な想像しないでよ? 本当に、たくさんのこと。
私は私のことを。今までのこと、今思うこと、桜ヶ原のこと、これからのこと。
彼は彼のことを。今までのこと、仕事のこと。十花ちゃんのこと。それと、今思うこと。
みんな、聞いて。
私、好きな人ができたの。
その人はね。花屋に勤めているの。
花が大好きな、優しくて不器用な人。
十夜さんが勤めている花屋さんは病院の近くにある。それに、墓地と火葬場も近くにある、変わった場所にあるんだって。丁度、その三つを結んだ三角形の中心に花屋があるんだって。だから、よくそういう用途の花の注文が入るんだって。配達になると、頻繁に病院だけ、火葬場だけに通うことになるから担当が決まってた方がいいだろうっていうことで、十夜さんは火葬場への配達が担当になったらしい。
誰も進んで担当になろうとしなかった火葬場への配達。なんで引き受けたんですか? 私は彼に聞いた。彼は苦笑しながらこう言った。
「俺、霊感があるんだ」
たまに、そういうのが見えるんだよ。
十夜さんは続けた。
病院だと死ぬ間際の苦しい顔でこっちを見てくるんだ。墓地だと異様に数が多い。火葬場だとさ。最期の別れをしている親族に対して色んな表情をしている人の霊が見えるんだ。
泣いてたり、笑ってたり、困っていたり、それこそ様々。
そんなとこに花を持っていくとさ。大体みんな、穏やかな表情になるんだ。花ってさ、すごいよな。死んだ人まで癒してくれる。
私は黙って聞いていた。
十夜さんから香る花たちは献花でよく使われる花たちだって、その時に気づいたんだ。
亡くなったお婆さんの棺に敷き詰められていた白い花たち。バラ、カーネーション、キク、ユリ、どれも十夜さんから香ったことのある花たちだった。
そして、今もどこかの部屋からか香りが漂っていた。近くに、花がある。
十夜さんは言った。
「俺、花が好きなんだ」
まっすぐに、私を見て言った。
私の好きになった彼はね。花が好きなんだ。
それは五花なのか、十花なのか、それとも、両方なのか。はっきりと彼は言わなかったけれど。
この日の夜、花は落ちた。
恋という、夜に落ちていった。
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