きょうは晴れ

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 さらさらと何かが擦れ合うような軽やかな音は、自分にとっては耳馴染みのないものだった。瞼を開くことさえ億劫になってしまう寝起きの頭では、それが何かまでは分からない。胸を突いてくる違和感から逃げるように仰向けの姿勢を転がせば、どうしてだかうつ伏せになれないままに止まってしまった。  なに。  疑問の声は、酷く掠れていた。喉が痛いわけでも、元々ハスキーな声色をしているわけでもない。ただひたすらに空気を丸めて集められただけの掠れ具合は、きっと寝る前に泣き過ぎてしまったせいだろう。  昨日は、色んな事があった、と勝手に思っている。七年働いた会社からクビを通告され、退職金は出ないと脅され、五年付き合っていた恋人からは「さようなら。」とたった一言メールが送られてきた。  一度に沸き起こったことに対して脳は正しく処理することを早々に諦めてしまう。飲みに行きますか、と気遣わし気に誘ってきた同僚の言葉に応えることさえも出来なかった。  同僚の存在があるのも昨日で最後だったのに、その僅かな機会は自分のたった一言で消え去ってしまう。これでは別れを告げてきた恋人と同じではないかと、自重気味に笑ったところで咎めるものは誰もいない。  せっかく声をかけてくれたのに申し訳ないことをしてしまったと後悔の気持ちはあったけれど、それ以上に同僚はきっと自分を憐れんでいたのだろうと、逃げ出したい気持ちになった。理由もなく仕事を奪われた自分に同情して、可哀想だと思われていた。口惜しいのか辛いのか、何も思えなくて、ただ足は近所のスーパーへと向かう。ここは、お酒の種類が多いのだ。  厄日なんてものが本当にあるのかと、今まで信じていなかったどこぞの神仏に捧げる気持ちで買い込んだお酒は、日本酒から始まって安い発泡酒やちょっと値の張るワイン、どこにでもありそうな缶のカクテルと、レジに向かった時にはいっそ一人では飲み切れないような量になっていた。  いい、いいんだ、これで。明日は平日ど真ん中の水曜日ではあったけれど、自分はもう早く起きる必要もない。夕方まで寝ていたところで、遅刻することも怒られることもないのだ。  両手にお酒とつまみを抱えて帰宅すれば、ワンルームのシンプルな部屋は雑然としていた。恋人が持ち込んでいたものは全てなくなり、ポストには合鍵として渡していたものがファンシーなうさぎのキーホルダーを垂らしたままに入れ込まれていた。  別れるとは、こういうことなのか。一方的に告げられたことに対して怒りもあったが、それ以上に去っていく背中を追いかけられなかったやるせなさや、この部屋にはもうたった一人しか残されていないのだという焦りと淋しさが、じりじりと責めるように足元から這い上がってくる。  家を出る前までは確かにあった他人の温もりがなくなってしまった部屋は、自分の気に入っていた場所ではなくなった気がした。ここはもう、帰る場所ではなくなったのだ。  淋しさと、やるせなさと、虚しさと。自棄になるよりも先に襲ってきた感情の波はどこまでも高く盛り上がっていて、靴を脱ぐために俯いてしまえば涙がぼとぼとと沁みを作っていく。  もういっそ、ここで何もかもが終わってしまえばいいのに。  そこから先の記憶は曖昧だった。ジャケットを脱ぐことさえ煩わしくて、ベルトを緩める暇もなく発泡酒のプルタブに爪を引っ掛けた。ティッシュケースがぽつんと放置されただけの座卓の上にお酒とつまみをこれでもかと勢いよく広げて、空きっ腹に容赦なく流し込んでいった。発泡酒がなくなればワインを開け、日本酒を舐めるようにまた発泡酒に戻っていった。  涙は隙間なく零れていって、甘いはずの白ワインが塩辛く染まっていく。それでも飲まずにいられないのは、中途半端な酔いから逃げたいからだ。ほろ酔い気分で終わってしまえば、そこには理性が追い付いてしまう。それじゃあただ、哀しさと淋しさを抱えて眠るしかなくなるじゃないか。酔いきってしまえば何を考えることも、思い出すこともしないままで眠ってしまえる。だから、だから。  と、散々に飲んで泣いた結果が、これだ。ジャケットを着込んだまま座卓とベッドの隙間に埋もれ込むように意識を手放していて、これじゃあ寝返りさえ打てないのも頷ける。昨日の惨状を思い出したところで引っ付いた瞼が剥がれることはなく、何度か咳払いをしてみても喉の掠れはなくならない。  皺くちゃになっているだろうジャケットを脱いで、背中を伝う汗が気持ち悪いからさっさとお風呂に入ろう。いや、その前に水を飲んでおかないと。掠れたままの喉では喋ることさえ難しい。脱水症状で倒れてしまってももう、救急車を呼んでくれる人はいないのだ。  起きて、水を飲んで、お風呂に入って、それから。  ベッドに体を擦りつけるような半端な体勢のまま、どうしたって動けなかった。腕に、足に、力が入らない。二日酔いに繋がるような気分の悪さは感じないのに、爪先から忍び込んでくる怠さは無視出来そうになかった。  喉が渇いた、水を飲まなくちゃいけない。だけれど、もういいか、という気になってくる。今日も明日もお休みで、先々のお金の心配は確かにあるけれど、それ以外は晴れて自由の身になってしまったのだ。  起き上がろうと立てた腕は重力を失った林檎と同じように、勢いを増やして落ちていく。水分が足りていないのは相変わらずだったが、ひと眠りすれば起き上がれるようにもなるだろう。  お腹に力を入れてなんとか仰向けの体勢へと戻す。閉め切った部屋はアルコールの匂いで満たされてしまってはいたけれど、それでも寝苦しさは解消された。指先に留まった怠さも寝てしまえば幾分楽になるだろう。  あと少し、あと少しで楽になれる。こめかみを伝って落ちていく涙は熱いのか冷たいのか、判断出来そうになかった。  さらさら、さらさら。  まるで存在を主張するように、耳馴染みのない音が響いてきた。意識がふと浮かび上がってきたときに飛び込んできた音と同じではあったけれど、いくらか正常に戻った思考回路でもそれが何を示す音なのかは分からなかった。  随分柔らかく響くそれは、何かが擦れる音にも、何かが落ちてくる音にも聞こえる。さらさら、という擬音語はどういったものに使われるのだろうか。十何年も前に習っていた国語の授業を思い出そうとして、そう言えば真面目に受けたことなどなかったではないかと思い当たる。登校しても授業の半分は眠っていて、テストは一夜漬けのみでなんとかしてしまうような、なんともまあ不真面目な生徒だったのだ。  さらさら、は、やっぱり擦れる音だろうか。だけれど、この部屋で息をしているのは自分だけだ。愛玩動物は飼いたくても飼えないし、高性能の家電は扱える自信がなくて購入には至っていない。  この部屋から絞り出されている音ではないとして、だったら擦れるものなんて外にはないだろう。さらさらと落ちるものが何か検討も付かなくて、それが妙に気になった。  神仏を唱える趣味も、非科学的なものを信じて熱望する思考も持ち合わせてはいなかったが、これは確かめなければいけないと思ってしまった。きっとそれは自分に巻き起こった有り触れた不運のせいでしかなくて、どんでん返しの結末なんかは期待していない。それでも、晴れて自由のこの体を、どうにかしてみたくなった。  カーテンを閉めた覚えはないのに、瞼を透かす光は弱々しかった。  一つ、二つ。途方もない怠さに体中が支配され尽くしていたのに、たった五つを数え終わったところで瞼が開いた。網膜を焼いてくる強さはなく、しんみりとした切ない色が浮かんでいた。  天気が、悪いのだろう。今が何時頃なのか上手く掴めなかったが、早朝でも深夜でもないことは分かる。アルコールに浸かった息を吐けば、どことなく白に染められている気がした。自分の体温が高いのか、気温が下がっているのか、それさえも判別が付かなかった。  よっ、と腹筋に力を込めれば、難なく起き上がれてしまう。さっきまではあれだけ腕にも、足にも力が入らなかったのに、不思議なものだ。  ぼんやりと起き上がったままの姿勢でぐるりと見渡せば、記憶に残っていたより数倍も荒れた景色だった。ワインや日本酒の瓶が倒れてカーペットにはシミを作り、机の上には食べられないまま油の塊に成れ果てた餃子が放置されていた。  もう一度熱を加えてみれば食べられるだろうか。匂いを嗅いでみたり、近くに寄って眺めて見たり、傷み具合を確認しようとしたところで分かるわけがない。もったいないけれど、これは後で処分してしまおう。  レースカーテンだけで隔たれた先で何が起こっているのか、自分はそれを確かめるために起きたのだ。時間は未だ分からないまま、それでもゆっくりと足を曲げて立ち上がる。思っていたよりも酔いは残っていないらしく、ふらつくことも気持ち悪さを覚えることもなかった。  それでも、そこら中に転がる重たい瓶やひしゃげた缶を避けなければいけないのは苦労した。壁伝いにひょこひょこと大袈裟なまでに足を上げて玄関まで辿り着くと、うさぎのキーホルダーがぼんやりと浮かび上がっていた。窓からの明かりはここまで届かず、だからと言ってこいつは自分で歩むことが出来ない。一晩中こんなところで、アルコールの香りを浴び続けていたのだ。  ごめんね。  音になっていたのか、自分でも分からなかった。確かに唇は動いていたはずなのに、微かに聞こえたのは空気の振動だけだった。  一点を見つめるしかない柔らかく小さな存在を、自分は捨てることも大切に持ち直すことも出来ないだろうな。想像というよりも確信に近い感覚に、これが別れた恋人への感傷でなければいいと思った。  鍵を掛けることもしていなかったドアノブは簡単に回って、力を込めるまでもなくゆっくりと開いていく。どこに行っても見かけるような安っぽい二階建てのアパートは玄関から出てしまうとそれだけで外の世界へと連れ立ってくれる。一歩飛び出した途端にばたりと扉は閉じられてしまって、代わりのように頬を一筋の風が撫でた。  あ。  声に出すまでもなく、目の前に広がるのは雨粒の欠片だった。  さらさらと擦れるような、落ちるような音の原因は何のことはない、ただの気象現象だった。霧雨のように細く短く降り続く雨粒は重なり合うように降り積もり、しっとりと辺りを濡らしていく。  前の道路を見て見れば、傘を差している人もいれば、頭も肩も濡らしながら小走りに移動している人もいる。硬い革靴は泥を跳ね返していたけれど、そこまで配慮されていないのか、ただ単純に気にしていないのか。  圧し潰すかのように詰め込まれたワンルームの中は息苦しいまでに薄暗く染め上げていたくせに、一つ扉を開けてしまえばそこら中の色が濃くはっきりと主張していた。  足早に通り過ぎていく女性のロングスカートは、太陽に伸びる向日葵と同じように黄金色に輝いていた。  お母さんと手を繋ぐ少年が身に纏ったカエルの雨合羽は、強く深く緑色を湛えた生命力を醸し出していた。  二人組の女子学生がそれぞれに持つ赤と青の傘は、発表会で飾られた自信に満ちる美術作品だった。  人が手にしているものだけじゃない。正面に立つ大き目の一軒家は壁の白さが一層際立っていて、電柱を塗り潰す灰色はそのものが光の柱となっていた。  何に導かれるでもなく、ふらふらと体を支えて階段を降りていく。ぐしゃりと、コンクリートから植え込みへと踏み出しただけで平べったいサンダルは土を滲ませる。  昨日までの自分であったなら、これだけで機嫌が悪くなっていた。底のしっかりとした革靴は少しの汚れも堅実に残してしまう。洗うのは面倒ではあるけれど、サイドが汚れた程度で買い直すのはもっと面倒だ。溜息を溢していたような土の滲みは、今日の自分にとっては小さな発見のように思えた。  水分を吸って重くなった土はなかなか剥がれてはくれないけれど、植え込みに並んでいる紫陽花の群はこの茶色い存在から力を分け与えられているのだ。  ぐちゃり、ぐじゅりとサンダルが汚れることも、前に突き出した親指が泥に沈むのもほったらかして紫陽花へと手を伸ばす。さらさらと揺れ落ちる雨露に浸った花びらはどれもこれも色を濃くしていて、なんだ、と思った。  綺麗じゃないか。  雨なんて面倒なだけだった。安くはないスーツも革靴も水分で汚れてしまうし、少しでも濡れないようにと購入した大きい傘は重たくて移動には向いていなかった。電車の中は湿気で増した匂いが異臭となり、遅延なんて当たり前に繰り返されていく。  雨にもくもりにもあまりいい思い出はなくて、何も感じないように、何も思わないようにしていた結果が、ただの霧雨の音を忘れてしまう結果を招いていた。  こんなにも、綺麗であったのに。花を綺麗だと思うのは、きっと初めてだ。通り過ぎていく誰かの洋服を気にしたのも、手を繋がれた小さな子どもの表情を見たのも、電柱の存在を意識したのも、全部初めてだった。 「なにしてるの?」  さらさらと流れつく雨粒に心地よささえ覚えていれば、さっきお母さんに手を繋がれていた少年が紫陽花越しに覗き込んできた。小学校に上がる前だろうか、小さな足を包み込む長靴は霧雨にしてはしっとりと濡れている。  真ん丸い目をころころと転がしながら見上げてくる少年に、自分はどう映っているのだろうか。皺だらけのスーツに、きっと頭は寝癖だらけだろう。マシな大人の姿ではないけれど、数歩後ろで眺めているお母さんは穏やかに笑っていたから、そこまでひどくはなかったのだろう。 「お花が、綺麗だったんだ」  夢の中にいるような心地で答えれば、すんなりと言葉が零れてきた。語尾は掠れてはいたけれど、それでも拾った言葉は確かな音となる。あれだけ乾いていた喉は雨のせいかしっとりと濡れていた。 「これねぇ、あじさいってゆうんだよ!」 「物知りだね」  へへっ、と頬を赤らめて笑う少年はきれいだねぇと言葉を続けた。ころころと転がる目玉と同じくらい真ん丸い指先で雨粒を弾いては花びらに鼻をくっつける。この少年にとって、鼻先が濡れてしまうことなんて気にもしないのだろう。  いーにおい。そう言ってまた笑う少年の真似をするように、自分も少し屈んで鼻先を紫とも青ともとれる花びらに引っ付ける。ふわふわと漂ってくる湿気の匂いにも負けない甘い、あまい香りは、きっとこの花びらを生かす命の源だ。 「うん、いーにおい」  少年と同じように鼻先を濡らして笑う。自分の頬も、少年のように赤く染まっているのだろうか。そうだといい、そうであってほしいと思った。  お母さんに手を引かれて帰っていく少年はまたね、と手を振ってくれた。また少年を真似するように手を振り返し、寒さに揺れる両肩を抑えるように手を添えた。そろそろ部屋に戻って、水を飲んで、お風呂に入ろう。  今日から晴れて自由の身になった自分は、何でも出来る。とりあえず体を温めたら部屋を片付けて、それから、そうだ。料理でもしてみよう。油で固まった餃子を美味しいものに蘇らせる方法なんて、ネットで調べれば出てくるだろう。  昨日までは煩わしいと、迷惑だと思っていた雨の中が、少しだけ好きに傾いた。それだけで厄日とさえ思っていた昨日に感謝出来る気がする。  よし。一つ気合いを入れて、玄関で置き去りにされていたうさぎのキーホルダーを抱き起こす。これは、自分の鍵に付けてやろう。  玄関扉が閉まる前に見えた先で、雨はまだやまずに色を増やしていた。
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