長雨、古傷、殺人事件

1/8
前へ
/8ページ
次へ
 ――長雨がふる街で、とあるバーから飛び出した男が、服が泥に汚れるのにも構わず跪き、「神よ、ありがとう」と言った。その体に着いた血が、雨によって洗い清められても、その男の罪は消えることはない。――  話はその、数十分前にさかのぼる。  バーで、男が一人、酒を飲んでいた。  身なりがいい。だが、その装いは、この街に住む他の住人と同じように、傘も役に立たないほどの横殴りの雨で、ぐっしょりと濡らされていた。  男は、この街でFlecker(フレッカー)子爵として知られていた。    カウンターに一人腰かけ、琥珀色の液体を胃に無理やり、流し込んでいた。ずいぶんと長い時間、飲んでいるようで、目の焦点が定まっていないのが見て取れる。  こんな風に長雨が続くとき、フレッカー子爵がこうしてバーで飲んでいる姿を見つけるのは難しくない。その理由まで知っているものを見つけるのは難しかったが。  ストーブで、椅子が燃えていた。あまりの寒さに子爵が焚き付けにしたものだ。ストーブの熱は、バー全体を温めるほどではなかったが、子爵はそれで満足するほかなかった。初夏のこと、薪は用意されておらず、バーのすべての椅子を主人に無断で燃やすわけにもいかなかった。  その時、ドアベルが鳴った。雨音と共に入ってきた男の身なりは、子爵とは比べ物にならなかったが、濡れ方は同じくらいにひどい。  男は渡り鳥の季節労働者で、仕事を求めてあちこちの街をふらついていた。この街に来たのも一再ではない。 「主人(マスター)はどうした?」  痩せた体に似合わぬ野太い声で、子爵にそう聞いた。 「長雨でな。喘息が悪化したと、言っていた」  それを聞いた痩せた男は、遠慮なくカウンターの向こう側に入り、酒瓶とグラスを物色した。狩り(ハンティング)の結果に満足した痩せた男は、カウンターのこちら側に座り、飲み始めた。  ひどくなったり弱くなったりする、雨音が奏でる音楽のみが、この場の語り手だったが、やがて、どちらともなく   「こんな日には古傷が痛む」と、言った。   「そうだな」と、言わなかった方が返した。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加