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子爵は、ちょうど額と頭の境目をジグザグに走っている古傷を、普段は髪型を工夫して隠していた。だが、今日は頭から垂れてくる水滴を嫌って、髪をかき上げている。
「あんたの傷はそれか?俺のは、これだよ。昔、女に刺された傷でね」
フレッカー子爵の古傷を指さした男は、シャツをまくり上げ、自分の古傷を見せた。それは小指の先ほどの小さいものだったが、古傷とは、たとえどんなモノであれ、ある種の男たちには自慢の材料になる。
痩せた男にとっても、胸の横にある古傷は、その類のもののようだった。
「あんたの傷は、どうしたんだい」
「……」
フレッカー子爵は、痩せた男の古傷をしげしげと眺めて、答えなかった。
「なぁ、あんた。あんたの傷はどうしたんだ?」
再び問われ、子爵は我に返り、
「転んでな。ちょうど、こんな長雨の日だった」
と、答えた。
それきり、二人は沈黙した。
痩せた男がブーツを脱ぐと、そこからコップ一杯ほどの水がこぼれた。その下の靴下も、脱いで絞ると、同じことが起こった。
「あぁ、この足の指かい?生まれつき、でさ」
子爵の視線に気づいた男が、聞かれもしないのに話し始める。それを皮切りに男は自分の過去について、多分に脚色しながら、話し始めた。
もともとおしゃべりなのに加え、この長雨が、その性向に火をつけたようだ。雨の日は、人を寂しがり屋にさせる。
男の愚痴とも、苦労話ともつかない、自分の足の指についての話はなかなか尽きなかった。
「それで、なんでこんな雨の日に街をうろつく」
「それは、お互い様じゃないか」
「私は、用事があったんだ。それに、こういう雨が続く日は必ず、ここで飲んでいる」
その用事に関係があるのか、フレッカー子爵はカウンターの上の茶封筒に手を置いた。痩せた男は茶封筒には触れず、再び、自分の話を始めた。
「そうかい。俺は、質屋を数軒回ったんだがね。全部、ダメだったよ。
交渉決裂ってやつさ」
「こんな雨の日にか?」
「こんな雨の日でも、金はいる。あんたにはわからんだろうがね」
痩せた男は、フンっと鼻を鳴らした。それきりまた、雨音以外に、喋りたいという寂しがり屋の欲望を、満たしているものはいなくなった。
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