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その沈黙を破ったのは二人のどちらでもなく、子爵の袖を留めていたカフスボタンが、木の床を転がっていく音だった。
銀細工のそれには、涙ほどの大きさの宝石が埋まっている。一目見るだけで高価、とわかるものだ。
痩せた男は反射的に立ち上がろうとしたが、子爵がボタンに気づいていないようなので、右手のコップを口に近づけ酒を含んだ。いや、含んだふりをした。
片時、様子をうかがったが、やはり子爵の意識に落とし物のことは浮かび上がっていない。痩せた男は抜け目なく、そう見極めた。
「それにしても、寒いな」
痩せた男は、しびれを切らし席を立った。ストーブに新しい薪を投げ込んで、来た場所へ帰り、今度は本当に酒を口に含んだ。再び席に着いた時には、すでにポケットの中の銀細工を、泥に汚れた指で撫でまわしていた。
そんな男のことを横目で見ていたフレッカー子爵が、
「お前、今、奇怪なことをしたな」
と、唐突に、そう言った。
寸刻、痩せた男は静止した水面のように動きを止めた。
だけでなく、言った子爵も目を見開き、動きを止めている。不用意な一言を後悔している。そんな風にも見えないことはない。
痩せた男は、子爵の不審な様子にも気づくことはなく、すぐに気を取り直して動き出した。反対に子爵は未だ、波間に漂う難破船のように、自らの行き先を決めあぐねている。
「あぁ、違うんだ。違うんだよ。酔ってたんで忘れたのさ。もちろん、ちゃんと返そうと思っていた。言うまでもないよ。ただ、ストーブの火のことで頭が一杯でさ。こんな寒さだろう」
痩せた男は、その霧の向こうに醜悪な獣を隠しながら、子爵に近づいた。
「違う。そうじゃない」
痩せた男の意識には、左ポケットのボタンと、右手に隠し持った酒瓶のことが、今にも零れ落ちそうな程なみなみと注がれている。他の事がそこに入る余地はない。
「そうじゃない。お前のその仕草は……」
一層激しくなった雨音が子爵の言葉を打ち消さなくても、痩せた男の耳に、それは届かない。
「ほら、返すよ。あんたの落とし物だろう」
――雷鳴。
それは雷鳴ではなく、子爵が飲み干した酒瓶が、痩せた男の頭に叩きつけられた音だった。
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