長雨、古傷、殺人事件

3/8
前へ
/8ページ
次へ
 その沈黙を破ったのは二人のどちらでもなく、子爵の袖を留めていたカフスボタンが、木の床を転がっていく音だった。  銀細工(シルバー)のそれには、涙ほどの大きさの宝石が埋まっている。一目見るだけで高価、とわかるものだ。  痩せた男は反射的に立ち上がろうとしたが、子爵がボタンに気づいていないようなので、右手のコップを口に近づけ酒を含んだ。いや、含んだふりをした。  片時、様子をうかがったが、やはり子爵の意識に落とし物のことは浮かび上がっていない。痩せた男は抜け目なく、そう見極めた。 「それにしても、寒いな」    痩せた男は、しびれを切らし席を立った。ストーブに新しい薪(二つ目の椅子)を投げ込んで、来た場所へ帰り、今度は本当に酒を口に含んだ。再び席に着いた時には、すでにポケットの中の銀細工(シルバー)を、泥に汚れた指で撫でまわしていた。  そんな男のことを横目で見ていたフレッカー子爵が、  「お前、今、奇怪(おかし)なことをしたな」  と、唐突に、そう言った。  寸刻、痩せた男は静止した水面のように動きを止めた。  だけでなく、言った子爵も目を見開き、動きを止めている。不用意な一言を後悔している。そんな風にも見えないことはない。  痩せた男は、子爵の不審な様子にも気づくことはなく、すぐに気を取り直して動き出した。反対に子爵は未だ、波間に漂う難破船のように、自らの行き先を決めあぐねている。 「あぁ、違うんだ。違うんだよ。酔ってたんで忘れたのさ。もちろん、ちゃんと返そうと思っていた。言うまでもないよ。ただ、ストーブの火のことで頭が一杯でさ。こんな寒さだろう」    痩せた男は、その霧の向こうに醜悪な獣を隠しながら、子爵に近づいた。 「違う。そうじゃない」  痩せた男の意識には、左ポケットのボタンと、右手に隠し持った酒瓶のことが、今にも零れ落ちそうな程なみなみと注がれている。他の事がそこに入る余地はない。 「そうじゃない。お前のは……」  一層激しくなった雨音が子爵の言葉を打ち消さなくても、痩せた男の耳に、それは届かない。 「ほら、返すよ。あんたの落とし物だろう」  ――雷鳴。  それは雷鳴ではなく、が、痩せた男の頭に叩きつけられた音だった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加