2杯目のサイダー、抜けるまで

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ぷしゅ。  空気が逃げる、淡く間抜けな音がした。軽薄な質量が、喉の奥を通っていく。口の中が ピリピリと痛い。一口飲んで、すぐに離した。 「あれ、音愛(おとめ)、お前......なんか、最近綺麗になったな」 「......!っ、そ、そうかな......」 「ああ、俺はそうだと思う」 「あ、ありがと」 「うん」  そりゃ、そうだ。アキくんにニキビの事を言われて、テレビのCMでやっている某医薬 品を買い込んだり、皮膚科に行ったりして直したんだから。三年前のあたしは必死だった。 このベンチで、二人きりで、まだ学校の時間で、楽しくて。アキくんには悪気はない。そ ういう、思った事を素直に言えてしまう子だったから。でも、言われたほうは違う。 こうして、三年間努力して綺麗になったと思うあたしの顔で会えば、アキくんと、今度はちゃんと話せると思ったのに。  それなのに。  なんか、違和感がある。 「つか、音愛ってこんな顔だっけ?なんというか......髪、切ったか?」 「え、あ、うん。ど、どうして分かるの?」 「いやー、まあ、席、近いしな」  そっぽ向いて、甘ったるい炭酸飲料に口をつけるアキくんの顔が赤い。  九月はじめ。文化祭の準備のために買い出しに行かされたあたしたち。顔の赤が気温の せいでない事は、今さっき冷房の効いた店内から出てきてこの店先のベンチに座ったから 分かる。 「......」 「......」  二人、黒と透明な泡が弾けた。  そんなに席、近かったっけ、と思う。 何せ、前にアキくんとこのベンチで文化祭の買い出しついでのおしゃべりをしたのは、あたしの記憶の中では三年前の事だ。席順なんて、受験番号とかレポートの提出期限とか サークルの集金とかに埋もれて消えてしまった。  でも、違和感はそこじゃないと思う。  あっ、と上擦る声は、どこか緊張しているようだ。喉の奥が鳴らないように顔をしかめ てから、アキくんは話しだす。炭酸飲料を飲んだせいで、あたしも顔を顰めた。 「あ、あのさ、音愛」 「何?アキくん」  いじらしい少年の横顔を見て、あたしは気が付いてしまった。 『君の人生の中で、一番やり直したいと思っている事をやり直せるとしたら、どうする?』  あの奇怪な猫みたいな何かは、きっとこれも分かっていたんだろう。 「も、もう少し、その......話、しないか?」 「もう少し?」 「あ、ああ!ほら、時間だってあるしさ」  空になった炭酸飲料の亡骸を決まりが悪そうに抱えるアキくんは、早口でまくし立てる。  三年前のあたしなら飛び上がって喜んだだろうに、いろんなことを知った今では、こん なに冷静でいる。あたしのほうは、まだちょっと残っているし、透明な気泡たちが。  あたしの、あの時の恋はこんなものだったのだろうか?  よく見れば寝ぐせも見えて、話し方もぎこちない。ニキビに悩んでいる女の子に正面か らそれを言ってしまうような、それは素直な子で済むのかという性格。  あたしの、三年間のくすぶっていた感情は、炭酸が抜けきったサイダーみたいに空虚だった。  今、ここにこうしてアキくんが好きだった、好きでい続けたあたしがいる。 隣には、今ならわかる、きっとあたしの事をよく想ってくれている男の子がいる。 それなのに、あたしは冷静だ。あたしの中をめぐる感情の速度も、同じまま。 ――あーあ。あたし、なんでここに戻ってきたんだろ。  結局、青春なんてものは一過性のお祭りみたいなものだ。熱が冷めれば、あんなに欲し かった金魚の生き死にだって気にならない。 もう、アキくんの声なんて、聞こえなくなっていた時だった。 「しし、よかった!俺、実は音愛ともっとゆっくり話したくてさ!ほら、お前ニキビの事 気にしてたろ?俺、心配でさ......色々調べたんだ。でもお前、文化祭期間始まってからす っかり変わってさ!一週間休みあったから、そこで色々できたのかな、とか......なんか、 ほっとしてさ」 「............!」 ――あ。 思い出した。 『なあ、音愛。お前、その......顔のニキビさ。悩んでないか?』  あの言葉の意図は、そういう事だったのか。 それよりも。 『にししっ』  何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。   何度も、頭の裏で繰り返した、あの笑顔。  あたしは、それが見たくって。それを向けて欲しくって。  それで、好きになったのか。 ――でももう、あたしには抱けない。同じ感情は、もう。  その、代わりに。 あたしは、飲みかけのサイダーの炭酸が抜けるまで、アキくんと話していた。  時間を忘れる、くらいには。
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