完璧で曖昧な現実の中で

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 学校を終えてバイト先へ直行する。四時間働いて夜の時間に突入する頃、交代が来て解放される。  まだ暑さの抜けきらない空気に伸びをしながら、いつもの道をのんびり辿る。街灯の明かりに一人遊びを繰り返すオトは、ふと、足を止めた。 「オト?」  俺の背後を凝視する。カラカラと自転車の立てる音がする。  つられて振り返った俺の前には。 「かなえ!」  俺が、いた。  いや。俺じゃない。俺は俺だ。  俺の前の『俺』は背が高かった。父さんより幾分か。顔も首も半袖から伸びた腕も、大人の男のそれだった。自転車を押し歩き、時折すれ違う人たちに邪魔そうな目で見られている。それを気にする様子はない。  父さんよりは若そうに見えた。大学生というには無理があって、けれど、シャツもパンツも自転車も。会社員という雰囲気でもなかった。  思わず俺は立ち止まった。『俺』は俺が見上げるほどもすぐ前まで、当然のように近寄ってきた。 「かなえ、探したんだ」 「かなえ?」  香苗は母さんの名だと記憶していた。十三年前、俺が三つの時に家を出た。完璧な嘘を完璧に使いこなす人だった。……そう、聞いた。 「髪、切ったんだね。写真の髪型も似合ってたけど、ショートヘアもいいね」 『俺』の手が伸ばされて、俺の頭の上に乗る。大きな左手が確かめるように幾度か跳ねた。  腰の辺りがすぅすぅする。多分オトが懸命に俺の手を掴もうとしてる。適わないのに。 「おじさん、だれ」 「おじさんは酷いなぁ」  止まった『俺』の左手が、滑るように下りてくる。頬を撫でて、そしてあごへ。汗ばんだ手が。  背中の真ん中を、冷たいものが這い上がった。 「俺、帰らないと」  俺は『俺』から一歩、下がった。  あごから離れたその手が、肩を。 「帰る?」 『俺』は、一瞬の間を置いた。無表情が俺を見下ろす。  肩が引かれた。強く引かれた。  そして。 「いけない娘だ。まだあんな男のところに」  銀色の反射がとびきりの笑顔に深い陰影を生んだ。 「お仕置きだね」  ――逃げて!  脳裏に浮かんだ。反射的に踵を返し、手を振り切る。  ――二つ先。角。右。  見やればオトが手招きしていた。がしゃりと大きな音がした。自転車が、倒れるような。 「かなえっ!」 『俺』の声が追ってくる。俺は振り切るようにオトを目指す。  角、曲がる。前を見る。路地の先。オトが指さす。転びそうなりながら折れて、走り。俺は、オトを。おぼろに浮かんで見える影を。
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