謎の僧侶、現る-関ケ原の戦い

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

謎の僧侶、現る-関ケ原の戦い

 「カァ~、カァ~」  闇夜に八咫烏が蠢く頃、信長を討った光秀を討ち、存在感を高めた羽柴秀吉は、次の案件に取り組んでいた。  「信長の後継者に、勝家は、信長様の三男・織田信孝を推すとのこと」  光秀を討った秀吉。それに対して、信長の筆頭家老だった柴田勝家は、本能寺の変の時、上杉景勝と戦いの最中で光秀討伐に迎えなかった。勢力争いに明確な影を落とした。  「勝家め、早速、動きよったな」  「如何なされます」   「勝家に思うようにさせぬは」  「して、その策は」  「取り敢えずは、次男の信雄を推す。が、奴は私に信長様の(とぶら)い合戦に後れをとった。根回しを終えた後、本能寺の変で天皇逃すため命を落とされた信長様の嫡男・信忠の子の三法師様を本命として推す。信長様の嫡孫だ、文句あるまい」  「信雄様を嫌うのは分かります。秀吉様、自らが引き摺り下ろしたお方ですからな。では、信忠様でもよいのでは、勝家を外せば」  「ありゃ~駄目だ、腰抜けの阿呆よ。信長様に似ても似つかぬ、うつけ者だからな、確かに、勝家も邪魔だ」  「しかし、三法師様は、幾らん何でも幼過ぎませぬか」  「だから、良いのではないか。信雄は私に逆らえない。とは言え邪魔である事には変わりない、いつ、裏切るやも知れん。よって、早い段階で三法師様を前面に推す。さすれば、正に、赤子の手を捻るように、実権を握れるではないか、うっははははは」  信長の子、信雄・信忠不在のまま開かれた清洲会議の結果、擦った揉んだの末、三法師を後継者にすることに成功した秀吉だったが、織田家勢力の均衡を図るためとして、後見人には、勝家の推す信孝が就くことになった。  「あぁぁぁ、胸糞悪い。勝家の奴、余計なことをしよって。今に見ておれ、目に物を見せてやるわ」  まず、秀吉が目を付けたのが、冠婚葬祭の儀だった。  「清須会議」の後、秀吉は織田家から養子に来た羽柴秀勝(信長の4男)を喪主にして、大規模な葬儀を執り行った。  この葬儀のやり方に、織田信孝や柴田勝家は大反発。しかし、これがきっかけで「信長の後継者は羽柴秀吉」と世間は受け止めるようになった。  これを機に秀吉は、勝家の養子である勝豊(かつとよ)の長浜城を落とし、賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたかい)で勝家を追い込み、柴田勝家と妻お市を自害させた。  さらに信長家の滝川一益ら重臣を排除すると、前田利家と金森長近らを味方に引き入れ、磐石の体制を築いた。そして、邪魔な信雄を安土城から追い出した秀吉。  「これで、実権は握ったも同然よ。うはははははは」  追放された信雄の心中は、穏やかに在らず。  「憎っき秀吉め、このままでは、捨て置かぬわ」  信雄が、頼りにしたのが勢力を伸ばす家康だった。  「家康殿、力を貸してくだされ、このままでは、織田家は、秀吉に乗っ取られてしまいまする」  「うん、それは(面白い)…。あい分かった。力をお貸し致そう」  織田信雄・徳川家康陣営三万と羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営五万が衝突。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に関連した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役となった小牧・長久手の戦い。圧倒的に優勢な秀吉軍だったが、家康の巧みな戦術で、窮地に追い込まれ、そのまま破れてしまった。  「これで、信長なき後の世は儂のものじゃ、あははははは」  家康は、これを期に秀吉を排除し、地盤固めの画策を掲げた。家康に欲と言う隙が生まれた。その隙が、家康の目論見を崩壊することになる。  「敵ながらあっ晴れよ。家康を敵に回すは厄介な事。許せぬは信雄よ。所詮、家康は外様。大義名分がなければ動けぬは。ならば、その大義名分とやらを剥してやろうぞ。見ておれ、家康。一泡、喰わせてやるわ」  秀吉は、家康の功績を認めつつ、諦めてはいなかった。寧ろ、闘争心に火が付けた。秀吉は、小牧・長久手の戦いの家康の大義名分の意図を見抜き、狙うは信雄なり、と、家康と言う虎の牙でる大義名分を抜き取り、子飼いの猫にする行動に移った。  秀吉は、家康が信雄との蜜月に安堵している隙を突き、圧倒的な軍勢にモノを言わせ、信雄を攻めた。  「これで信雄は、生ける屍よ。家康も動きようがあるまいて、あはははは」  この様子を(つぶさ)に見ていた家康の密偵は、戦の全容を伝えるため、早馬を走らせた。  「殿、殿、一大事で御座いまする~」  信雄付けの密偵からの報告に、家康の重臣は、驚天動地とどよめいた。  「信雄様が、秀吉と講和したと、早馬が参りました」  「なんじゃとー、このわしに相談もなく、講和じゃと…見縊(みくび)ったわ信雄を。それにしても…、くそ~、やりよったな秀吉め~」  家康は、自分の信雄への信頼と油断を恥じて、落胆の色を隠せなかった。  秀吉と戦う大義名分を失った家康は、無駄な戦いを避け、苦渋の思いで、秀吉との和睦の道を選んだ。結果として、信長の子、信孝・信雄、それに嫡孫の三法師を手中に収めた秀吉軍に、表立って逆らう者は、最早、皆無だった。  この件があり、戦国の世に於いて人間不信の火種が家康の心中に巣食う事になり、心変わりと言う難敵に向き合うことになる。    秀吉は家康を抑え込むと、自らの地位を盤石にするため、狙いを定めたのが朝廷だった。    秀吉は朝廷への夢を馳せ、信長の安土城を凌駕する難攻不落の巨城である大坂城を天正11年(1583年)に築城。  天守閣に拘り、外観五層に。本丸内は、金銀の装飾に、各階は財宝の山など、空前の富を集積し、来訪者を驚嘆させた。  秀吉は、領国の首都に、政治、経済、軍事、文化の中心として、城下町を建設。その自慢の大坂城の天守閣から、城下町を眺めながら、参謀の黒田官兵衛に秀吉は言い放った。  「官兵衛、わしは、関白になるぞ」  「関白…ですか」  「そうじゃ、奴らにはほどほど、腹が立つ。偉そうに口出しばかりしてきよる。一滴の血も流さず、働きもせず、公家というだけで、わしらは奴らの顔色を窺わなければならぬ。こんな理不尽な事があってよいのか」  「確かに…異論は御座いましょうが、この国の制度は、それで成り立っておりまする。天下人の暴走を食い止める利点もあるかと」  「わしの暴走を食い止めると言うのか。今や、わしに逆らう者はおらん。武家出の者はそうかも知れぬが、出自の明からざるわしには、関係ないわ」  「関白は、公家しか就任できぬ習わし、いかに殿と言えど…」  「わかっておるは。そこで、妙案がある。わしが、公家になればいいのじゃ。ならば、文句はあるまい」  「公家になられると…して、如何にして」  「そこでだ、そなたに頼みがある。公家とて所詮は人よ。必ずや、弱みがある。それを徹底的に調べてくれ。借財、後継者、気弱な者、何でも良い。頼んだぞ」  「御意」  途方もない、秀吉から依頼に戸惑いながらも、官兵衛自身も、登れぬ山はない、の思いで奇抜な発想を楽しんでいた。  秀吉は官兵衛からの報告を受け近衛家と近衛前久が、強力な軍の鞭と禄高の甘い汁で動く可能性を嗅ぎ取っていた。それは内輪もめのような物だった。  当初、内大臣から左大臣への昇進を企んでいたが、左大臣の近衛信輔が「我が家では、大臣を辞職した後で、関白になったものは過去にいない」と。一方、現職の関白・二条昭実は「我が家では任期一年以内に関白を辞した者はない」と、譲らなかった。  「堅物度も目が」と思いつつ、もめて多くを敵に回すより、「何事も大義名分、筋が通ればいいのだろう」と一見、遠まわりに見えるが確実に相手の懐に入る術を官兵衛は選択する。  秀吉は藤原の名を得て近衛前久の猶子となり、前久の子の信輔と兄弟の契りを結ぶ。直様、信輔と関白職を譲ると安心させ、根回し万端、相手が油断したところを狙い澄まし、さっさと、豊臣姓を創始し、関白職を手に入れた。  計算高い秀吉は、近衛家に対し、1000石の知行地を、前久個人には200石を配しただけでは思いを遂げた。  戦国の黒幕と言われた近衛前久を手玉に取り、憔悴させ、ついには隠棲までに追い込んだ秀吉。時は、天正13年(1585年)7月のことでした。  元来、関白職は、五摂家と呼ばれる近衛、鷹司、九条、二条、一条の公家しか、就任出来ない習わしだった。その開かずの扉の関白職に秀吉は、強大な軍事力をちらつかせ、建前上、前関白の近衛前久の猶子として就任。公家出身ではない、秀吉の就任は、公家社会において、前代未聞の驚きの大事件だった。  天正14年(1586年)、朝廷より、豊臣を下賜。  秀吉の傲慢さは、留まるところを知らず、豊臣氏による武家関白の永続を宣言する暴挙にもでた。朝廷と幕府という権力の分化を改善し、政権維持を確立。その六年後には、養子の秀次に関白を譲って、新たな野望へと邁進する。  秀吉の本心は、豊臣の名を万が一討幕されても、朝廷として名を遺す事。  それを象徴するように御所に隣接するように広さも二倍超の敷地に京都新城を築くことで朝廷を監視するとともに他の者を寄せ付けないでいた。  栄華を欲しいままにした秀吉にも死期が近づく。  晩年、秀吉は、豊臣政権を磐石にするための体制作りに勤しんだ。  天下の諸事を合議で決定する有力大名を最高機関の五大老に徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(没後は上杉景勝)らを任命。  地検などの事務処理は、秀吉の子飼いの家臣、石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家らを五奉行として配した。  五大老と五奉行の調整・監視役として、堀尾吉晴、中村一氏、生駒親正からなる三中老を設けた。  磐石に備えた体制も秀吉の衰弱と共に実質的には機能することはなかった。  慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は、息を引き取った。  豊臣氏を継いだのはまだ、六歳の秀吉の嫡男・秀頼だった。  秀頼は秀吉と淀殿の子。ねねは、自分の子ではない秀頼が大坂城を起点とするようになると、京都新城に暮らす秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)通称・ねねは、「ここに住まないのなら」と言い残すと、京都新城を解体し、暗に秀頼を朝廷としては認めないことを顕にした。  豊臣氏内部では晩年既に、武闘派の加藤清正・福島正則と、文治派の石田三成・小西行長らの対立が表面化していた。  そこへ朝鮮出兵をせず、戦力を維持していた徳川家康は、秀吉が禁じていた諸大名との婚姻関係を無断で伊達政宗らと結ぶなど、盤石に見えた豊臣体制の綻びは着実に迫っていた。    秀吉が亡くなり、表舞台に現れ始めたのが、天海僧正だった。  天海として、新たな人生を歩んでいた明智光秀は、堺商人の越後忠兵衛に、江戸の別宅に招かれた。天海は、比叡山で勉学に勤しむ傍ら、京都所司代と裏で繋がり、宗派問題や警護などの問題に関わっていた。秀吉の死を受け、その名が表舞台に浮上してくる。  「お久しぶりですな、光秀様、いや、天海殿」  「いや、色々と世話になっておる。あれ以来、家康殿とも、そなたらのお陰で、上手く繋がっておるわ」  あれ以来…それは、本能寺の変の後、三河国に戻って、落ち着いた頃のことだった。それは、越後忠兵衛と通じていた、服部半蔵から、家康の命を救ったのは、光秀であったと、告げられた頃のことだった。  半蔵を通じて、家康は、忠兵衛と会い、本能寺の変の裏の経緯を聞かされ、驚嘆を隠せないでいた。それは、家康が、織田信雄(信長の次男)共に、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで、秀吉に兵を挙げ勝利した。しかし、信雄が秀吉の逆襲にあい、何ら相談もなく、勝手に秀吉と和睦。家康は、大義名分を失い、仕方なく、自らも秀吉との和睦をせざるを得なくなった時期の事だった。  「あぁぁぁ、信雄の奴めぇー、腸が煮えくり返るは。どうしてくれようぞ。この期を逃しては、秀吉の天下に従うしかないではないか」  家康は、荒れ狂っていた。半蔵は、そんな家康を、気分転換にと、茶会に誘い出した。  「家康様、今日は、会わせたい者が御座いまして、この茶会を設けさせて頂きました」  茶を立てるは、千利休。彼もまた本能寺の変に、信長の欲しがる茶器の件で一枚噛んでいた。利休が()れた茶を堪能した頃合いを見て、家康は痺れを切らして半蔵に尋ねた。  「それで、会わせたい者じゃと、誰じゃ」  「では、お入りくだされ」  半蔵に促されるように、小さな茶室の躙口(にじりぐち)が開いた。  躙口の高さがは2尺2寸(約67cm)、正座のまま少しずつ膝で前に進むしかない程。頭を下げることで、地位や立場などをリセットして一人の人間として茶室に入っ欲しいという気持ちが込められていた。  茶室の躙口が開いた。目前に現れたのは武士ではなく、仕立てのいい装いのそれなりに歳を重ねた男だった。  「お邪魔させて、頂きます、越後忠兵衛と申します」  家康は、怪訝な顔で躙口にいる忠兵衛を睨みつけていた。  「家康様、この方があの伊賀越の時、光秀の報告を受け、私や伊賀者の手配などしてくださったお方で御座います」  「何と、そなたが…あぁぁ、いや、世話になった。(かたじけな)い」  信雄の事があり人間不信になった家康は、その反面、心を許した者には絶対的な信頼を置くようになっていた。それは元来、臆病者であることを自覚し、信用できる者が身近にいることで虚勢を張る事もできた。  家康の心中穏やかに在らずの時、本音で話し合えたのが半蔵だった。それ以来、半蔵の言うことは、家康は疑うことがなく、素直に対応するようになっていた。いや、それ程にまで半蔵は家康の心を凌駕していたのだ。  「あの時は、予想もしない追手に驚かされましたなぁ」  「そなた、大坂の者か」  「堺遊覧の手配もさして貰いましたでぇ、大坂言葉しか話せませんよって、ご勘弁くだされ」  「苦しゅうない」  忠兵衛は改めて、首謀者として、詳細を家康に話した。  家康はとぎれとぎれに半蔵から話は聞いていた。謎の男の男から聞かされた話は、半蔵の話をより詳細に噛み砕いたものだった。  半信半疑だった家康も半蔵の話との食い違いのなさや、半蔵がず~と昔から知り合いであり、行動を同じくしていたことに信憑性を確信した。  家康にとっては、青天の霹靂といった内容であったが、それぞれに合点がいった。家康は、裏切りにあい、少なからずや、自信暗鬼、人間不信に陥っていただけに、少しでも心底縋れるものがあれば、藁をも信じたい気持ちでいた。そこへ、半蔵、千利休を仲間にする得体の知れない世界で暗躍する黒幕と言うべき、人物に大きな興味を抱いた。  「…信長殿は生きておられると」  「それは、ご説明したように、最早、辿る術もないと言うか、もう宜しおますやろう。信長さんは信長さんの生きたいようにされれば。その時点で、私らが関わるのは如何なるものかと思いますよって。何処かでやんちゃの限りを楽しんでおられると思います」  「そ、そうじゃな」  家康は、一時は師と崇めた信長を手玉に取った謎の男に緊張の色を隠せないでいた。初めて会う者に緊張するなど家康にとっては、とても新鮮だった。  「本日は、もう一人、是非とも、会わせておきたい者が御座います。別室に待たせておりまするので、そちらへ、ご案内申し上げます」  「私からの贈り物、と思うてくれやす。これからは家康様、いやこれからも家康様を陰でお支えしたい気持ちの表れと思うて」  「そ、そうか、うん」  「では半蔵はん、家康様、参りましょうか」  半蔵は、家康を用意した座敷に案内した。  「のう、半蔵」  「何で御座いましょう」  「半蔵は何故、そこの忠兵衛と知り合いになった」  「信長が伊賀の里を襲撃した。多くの伊賀者が路頭に迷う結果に。それに手を差し伸べて下さったのが忠兵衛殿です。忠兵衛は伊賀の里復興のためにご尽力下され、家をなくした者たちに住み込みの働き口までお世話下さったのです」  「そうか…。では、忠兵衛はなぜに伊賀者の世話を致しのかな」  「商売には情報が大きく関わります。その情報を集めてくれたのが、何かしの訳があって伊賀の里を追われた者、遠ざかった者たちでしてね。その者が伊賀の里の思いから助けを願い出てきた、それを受け入れたまでのこと。そこで半蔵殿と出会いましてな、互いに俳句を嗜むこともあって、懇意にして頂いております」  「そうか、半蔵にとって、信長は憎き者だったわけか」  「そうとも言えまする」  「そうか。そんなふたりが会わせたい者とは、これは、楽しみじゃ」  家康は、心強いおもちゃを手に入れたように上機嫌になっていた。半蔵にもそれが手に取るように分かった。孤独からの解放。その呪縛から解き放たれる至福感は何物より代えがたいことを。半蔵が促すと座敷の麩が、左右にすーと開いた。そこに現れたには、一人の僧侶の伏せた姿だった。  「ほ~、曽呂か、して、どなたかな」  僧侶は、俯き加減の顔を上げ、静かな声を放った。  「お久しぶりです、家康殿」  「そ、そ、そなたは、いやいや、まさか、ありえぬ、ありえぬは」  光秀はなつかしさ余り以前と変わらない口調で語り掛けてしまった。一方、家康は、聞き覚えのある声と記憶を揺さぶる風貌の面影に、大きな戸惑いと恐怖を感じていた。  「お久しぶりで御座います家康様。天海と申します」   「いや、光秀殿か…そうだ光秀殿だな…、生きておったのか」  「いえ、光秀と呼ばれた者は、この世にはおりませぬ。ここに()りますは天海という、僧侶で御座いまする」  家康は、忠兵衛と半蔵を交互に見、何が真実で、虚偽なのか、困惑の色を隠せないでいた。  「家康様、細かいことは、宜しおますやろ。ここにおる者は、家康様を天下人にする為に、集まった者、それで宜しおますやろ」  「しかし…」  「天海様には、僧侶としてではなく知識人として、あらゆる知識を身につけて頂いております。豊臣の動きも、私たちの配下から得た情報で掌握されております。家康様におかれましては、この天海を懐刀としてお使い頂ければ、幸いです。ご存知かと思いますが、天海様は武家社会の生業にも精通されておりますゆえ、必ずや、お役に立つと存じます」  家康は、半蔵は元より、謎の堺商人・越後忠兵衛から、自分の命を救われたのは光秀のお陰であると刷り込まれていた。光秀は家康にとって、礼を言うべき、命の恩人となっていた。  ⦅何故、家康が忠兵衛や半蔵の言うことを信じたのでしょう?それは、人は上に立つほど孤独な者。人は得てして、疑心暗鬼や負の妄想に襲われるものです。家康は裏切りに幾度かあっていた。それによって好機を逃すことも。それゆえに、心の拠り所として、自分にとって害がなく、何事も話せて、指示を伺い、相談できる者を欲するものなのです。この思いを忠兵衛、天海、半蔵が匠に突いたです⦆  「それは有難い。しかし、何故ゆえに、私なのじゃ」  「それは、この天海から、お話致しましょう。この越後忠兵衛は、先見の目と財力を持っておりまする。光秀なる者が謀反とされる本能寺の変を起こした時も、裏で動いておりました。信長なき後は、秀吉が、その後は、家康様が天下人になられると、豪語しておりました。ゆえにお助け申した訳です。秀吉の独裁は秀吉あってのこと。もう少し、泳がせましょう。その間に、家康様は関東を制圧なされよ。秀吉亡き後を見据えて。それまで、ここにおる者同様、力を蓄えましょうぞ、如何かな、家康様」  「それは、有り難いこと。一度は刃を交えた相手。いつ何時、私を狙ってくるか分からぬ針の筵から、回避できるのであれば、申し出は願ったり叶ったりじゃわ。そなたらの情報収集力、行動力は、下剋上の世にあって、得難いものじゃ」  半蔵の度重なる根回しが功を制してか、家康からの信頼度は上々の出来で、思いのほか上手く取り込むことを成し遂げた。天海が、口火を切った。  「早速ですが、この度の織田信雄の件で御座いますが、ご意見のほどは宜しいか」  「あ奴の裏切りの件か。許されるなら兵力を上げ、再び、秀吉を滅ぼしに掛かりたい思いよ。しかし、信雄の馬鹿が和睦などしおって、大義名分がなくなってしまったわ。この怒りの矛先をどこに向ければ良いか、思案に頭が痛いは」  「単刀直入に申しまする。秀吉とて、家康様と今、戦いたくは御座るまい。ここは、来る時期の為、和睦をなされよ。ここで、仮に戦われて勝たれても、常に家康様の命を脅かす輩を作るだけ。安息の日は御座りませぬ。仕掛け処ろは、高齢の秀吉がなくなった時で御座いまする。今は、豊臣の中枢に食い込むこと、それに、ご尽力なされることを、お薦め致します」  「和睦とな、腹立たしいこと、この上なし」  「ほれ、そこをぐっと堪えなされ。機は熟しておりませぬ。豊臣の手足をもぎ取るにはまだまだ、時間が掛かり申す。じっと、我慢の時。秀吉とて、今の家康様をぞんざいには扱いませぬゆえ、ここは、我慢なされよ。光秀なる者が謀反を起こした時のようにならぬためにもね。く・く・く・く・く」    家康の怒りは収まらないではいたが、自分をも取り込む奴らの自信有り気な言い方に、何やら言えぬ企みがあるのでは、と思う様になっていた。  家康は、血気盛んな家臣をなだめ、時期を待つ、道を選んだ。突然、現れた自信に満ち溢れた二人。ひとりは、得体の知れない、闇の匂いがする豪商。ひとりは、過去と決別し、ある意味、悟りを開いた知識人。そのふたりの懐の深さに、元々臆病な家康は、陶酔していった。  正直、戦国の世の疑心暗鬼の渦に飲み込まれ、耐える自信など、家康にはなかった。勢力を拡大するにつれ、命を狙われる恐怖が増していた。そんな折に現れた、絵図を引き、動かす者たちの存在は、得難いものだった。  天海は、比叡山より、日光へと移り住んだ。事が起こりそうになれば、また動かす時は、忠兵衛の江戸の別宅を使っていた。遠く離れず、家康とは密に連絡を取るように努めていた。  「天海、秀吉の奴、五大老とか言って、秀頼の子守役を押し付けてきよったわ」  「五大老ですか、一筋縄では参りませぬな。家康様の勝手にはさせぬということですな。さて、家康様、どうなされる。大人しく子守宜しく、豊臣氏を支えますか、それとも、秀吉亡き後、秀頼など、赤子の手をひねるようなものと、断られますか、どちらかな」  「誰がガキの相手などできる、これを期に反乱でも起こしてやりたい気分じゃよ」  「反乱で御座いますか、それも宜しゅう御座いますな。秀吉信仰の壁は分あつ~御座いますぞ。力もある。勝てますかな」  「ならば、どうしろと申す。いいなりになり、子守か」  「さようで御座いますな。ここは、角隠しですかな」  「猫を被れと申すか」  「何を被ろうが、勝手ですが、牙を剥き過ぎるな、ということです」  「イライラするわ」  「牙を剥き過ぎるな、と申しましたが、牙を剥くなとは言っておりませぬ」  「言ってる意味が分からわぬわ」  「ほら、城を攻めるなら、まず、お堀からと申すではないですか」  「どうしろと、言うのじゃ」  「五大老、五奉行は、秀吉が用意した豊臣氏の権威を守るための悪あがきでしかない。そもそも、秀吉の灯火が消える間際の機関など機能しますまい。ましてや、この政策には、最大の欠点がありまする」  「欠点とは」  「お気づきになりませぬか」  「何じゃ、早う言え」  「人材構成で御座います。五大老は、家康様を筆頭に、戦場で命の危険をまのあたりにする武断派。五奉行は、戦場で命を賭けることなく、理想論ばかり押し付ける、石田三成を中心とする文冶派。このようなものが上手くいくはずがない。常に、衝突すること必至で御座います」  上手く政治を収める天下人は、聞く耳を持つ者。決断と責任は自分が負う。その使い分けの善し悪しが人望と言う物に代わるのです。家康は、秀吉の晩年の体制を静観することを承諾した。  天海の読みは、時間を経て現実味を帯びてくる。秀吉の一番の側近であった石田三成は、職務を忠実に遂行した結果、武将たちの失態は、情け容赦なく秀吉に伝えられ、武将たちは不本意に思いながらも処罰されていた。  釈明の余地さへ与えなかった三成は、武将たちから「戦場に出て戦わぬは、武士ではなし」「秀吉の腰巾着め」など、陰口を叩かれることも少なくなかった。  三成の報告によって、厳罰を受ける者も少なからず。武将たちは、明日は我が身か、の不安や不満が積年の恨みとなり反発心を芽生えさせていった。  1598年8月18日、伏見城で豊臣秀吉は天下統一を果たし後、亡き人となった。秀吉亡き豊臣氏は、武断派にも慕われていた前田利家が揉め事の仲裁役を行い、体制の均衡を辛うじて保っていた。その前田利家も、翌年1599年3月に亡くなった。仲裁役を失った五大老と五奉行の対立は、秀吉と言う絶対的な後ろ盾を失い、実質的な権力のない三中老に抑えられるはずもなかった。  「いよいよですな、家康様。石田三成の評判は、頗る宜しくないもので御座いますな。絶対君主、仲裁役を失った豊臣氏は、もはや、船頭を失った船と同じ。いつ崩壊しても可笑しくありませぬ。しかし、それをもっと確実なものにしなくては、なりませんな。上手の手から水が漏れるの、例えもあるように、慎重に参りましょうか」  家康は思っていた。秀吉の病死に次、仲裁役の厄介な者も立て続けに他界。いや、意図的に葬られたのでは。奴らの自信は、秀吉、利家の死を踏まえたものであったのでは。それを確かめる方法も、勇気もなかった。《藪をつついて蛇を出す》下手に奴らを怒らせば、次は自分が…。その思いは、信じることで払拭するしかなかった。  「さて、何を仕掛ける。戦には、まだ早いぞ。敵味方が見えにくい。どんな裏切りに合うか分からぬからな」  「戦は戦でも、戦わずして、戦う方法を取りましょうぞ」  「何を言っておる、分かるように言え」  「これは、失礼。秀吉の威光の陰りを如実に見せつけるのです」  「そのようなことをすれば、孤立する恐れがあるまいか」  「孤立せぬように、味方を作りましょう。その味方を炙り出すために秀吉の遺言を破ってやりましょう」  「それは面白い、して、何をする」  「秀吉が、謀反を恐れ禁じていた、諸大名間の婚姻を家康様が率先して、推奨するのですよ」  「なるほど、婚姻か。私の勢力図をこの婚姻を用いて拡張すると言うことか」  「そうで御座います。この戦国の世、唯一信じられる関係は、血の系列ですからな。下克上の世に置いて、確かでなくとも、安心の糧となりましょう。賛同する諸大名も多いはず。これならば、戦わずして、津津浦浦まで、勢力を広げられましょう」  「確かに。しかし、五奉行が黙っておらぬだろう。特に三成がな」  「それも、思う所で御座います。さらに、諸大名がどちらに付くか、の仕分けにも役立てましょうぞ」  「揉めさせて、混乱に紛れて、利を得るか。抜け目がないのう」  思わぬ事件が起こった。石田三成暗殺未遂事件だ。家康の暴走を三成は、咎めようと五奉行を動かそうとするが、告げ口奉行として、信頼を失っていた三成に同調しようとする者は、いなかった。  武断派は、その兆候を感じ取り、三成の暗殺を企てた。それを三成の密偵が嗅ぎつけ事前に知ることに。文治派の五奉行に相談するも、戦になれた武断派を相手にしようとする者はいなかった。そこで恥を捨て、命を拾う為、あろうことか武断派筆頭の家康に助けを求めたのです。  この事件の本筋は、三成にあり。信頼されるべき立場の三成が、その信頼を失った。ゆえに三成の起こした混乱として、家康は片付けた。三成は、家康の命により謹慎処分。三成は実質、失脚することになったので御座います。  家康は、三成の失脚を期に大坂城に乗り込み、政務を掌握し始めると、五奉行を支持していた、前田利長と浅野長政が、今度は、家康暗殺を企てる。  半蔵、忠兵衛の探偵がそれを見逃すはずがなかった。特に忠兵衛の肝入りで設けられたくノ一。女の色香で相手の懐に入り込み、男女の駆け引きを巧みに操り、日ごろ重い口も滑らかにした。時には寝物語りを聞くこともある。そうして集められた情報は、依頼者の目的達成に遺憾無く発揮されていた。  事前に発覚した家康暗殺で、浅野長政は失脚。前田利長は、天海の次なる手立てに、の申し出によりお咎めなしとされた。  「なぜ、前田利長も成敗せぬ。わしを暗殺しようとしたのじゃぞ」  「お待ちなされ。今は、豊臣氏の兵力と財力を使わる時。家康様が露骨にそれをなされば、またお命を狙われますぞ。それでも宜しいかな」  「そ、それは困る」  「ならば、怒りを抑えなされ。怒りなど海にでも沈めなされ」  「怒りと碇か、くだらん」  「これは失礼。利長を放つ危険は承知。見張りは厳重に致しますよ。敢えて露骨にね。身動きを封じ、他の大名から腰抜けが、と思わせてやりましょう。そんな腰抜けの言うことを誰が聞きましょうか」  「気管はなかんな」  「そうでしょう。ならば、前田利長を豊臣氏の衰退の旗頭に祭り上げてやりましょう。他人の不幸は蜜の味と申しましてな、我が身に置き換えれば、首筋寒し。何かを起こすにも二の足を踏みましょう」  「血祭か、うん、それは面白い。乗ったぞ天海、その船に」  しかし、天海の絵図は、予想外の展開で綻びを見せた。  「利長は、奥方に救われましたな。まさか、奥方の芳春院が自ら人質となり、前田家は徳川家に従うと、申し出るとはね、流石にこの天海も驚きを隠せませぬわ。怖い怖い、ほんにおなごは怖いものですなぁ」  「確かに、おなごにして見事な内助の功じゃ」  これを耳にした石田三成の憤りは、尋常ではなく、燻っていた逆襲への炎に油を注ぎ込む結果となったことを、家康、天海は知る由もなかった。  三成は、上杉謙信と連携して、起死回生を目指し、画策を案じていた。  三成が連携した上杉謙信には、家康からの年賀の挨拶要請を断った「直江状」の出来事があった。家康が謙信の動きに不信を抱き、年賀に来るようにとの返事に、年賀に行けない理由として、《軍勢を集めるは、東北からの攻撃に備える為。子供じみた疑いは、甚だおかしい》と小馬鹿にした返事を行ったものだった。  家康に逆らうは地獄を見るのと同じ。地盤を固めようとしていた家康にとって反逆できる相手と思わせられない、大事な時期だった。  「上杉家の謀反の疑い、もはや確実。討伐するために出陣する。待っておれ、謙信、このわしの沽券を見下した付けは高くつくものぞ、思い知れ」 と、大軍を率いて、家康は勇み大坂城を後にした。時は1600年6月。これで 奇しくも、大坂城は、一時的に徳川家がいない状態になった。この期を三成が見逃すはずがなかった。  「謙信殿、思わぬ副産物である。この三成、有難く頂きますぞ」 と、大谷吉継を館に招き入れ、今後の事を相談した。吉継は、秀吉に「百万の軍勢を率いさせたい」と言わせたほどの名将であった。  しかし、その時の吉継は、ハンセン病により、膚がただれ腐っていく状態にあった。他者は不気味がって近づくのを躊躇う中、三成は吉継の病状などに気後れすることなく、親交を深めた。吉継もまた三成の態度に心を打たれ、「残り僅かなこの命。叶うならもう一花咲かせてやりますか」と、家康を倒すことに闘志を燃やし、生き甲斐としたのです。  三成は吉継と話し合った翌月には、徳川討伐を宣言。「内府ちかひの条々」を交付して、諸大名の集結を呼びかけた。  「内府」は、家康のこと。「ちかひ」は、ちがうと言うこと。そこには、秀吉の方策に悉く、暴走する家康像が明記されていた。即ち、家康と考えが違う者への呼び掛けだった。  中国地方の大名であり五大老の毛利輝元は、徳川討伐の総大将となった。  「軍勢を整え~、関所を設けよ。西側の援軍を阻止せよ」  援軍阻止を毛利家が行うのを待ってその翌日には、徳川軍勢である鳥居元忠ら1800人程しか居ない伏見城を総攻撃。多勢に無勢。攻撃軍は一万以上。伏見城は炎上し、鳥居元忠も戦死した。その報告を家康は、意外な処から知ることになる。  「家康様、上杉家より使いの者が来ております」  「なんじゃと、謙信からだと、なんじゃ、詫びでも持参したか」  「いいえ、我らが後にした伏見城を三成が襲撃。鳥居元忠様ら1800余りが痛手を。よそ見をしていて、足元危うし、と」  「小憎らしい、それで元忠は、如何に」  「戦死なれたとのこと」  「くぅぅぅ、三成めぇ~。謙信を懲らしめている場合じゃないは。直ぐに周辺の諸大名を呼び集めよ」    家康は、小山に諸大名を集め評定を開き、徳川軍に付くことを約束させる。この小山評定に大きな役割を果たしたのが、福島正則と加藤清正だった。  正則と清正は、三成が真面目で融通が効かないという理由から、毛嫌いしていた人物。この時点では、豊臣氏を三成に任せるくらいなら、家康に託した方がまだましだ、とぐらいにしか考えていなかった。その家康が、豊臣氏を滅ぼそうなどとは考えもしていなかった。  小山評定をお膳立てしたは、黒田長政。  長政は秀吉に恩義があった。信長から少年時代の長政を討ての命令に逆らい保護された過去もあった。しかし、反旗を翻したのは、その恩義ある秀吉が重宝したのが三成だったからだ。三成とは、朝鮮出兵で対立。戦闘能力、知略を自負していた長政は、自分を活かすために徳川家を選んだ。後に12万石から50万石に禄高を上乗せ、貢献度を高め、才能を開花させた。先見の目を持つ長政にとっては、小山評定は、まさに人生の分岐点となったのです。  小山評定において、徳川家康も口火を切った。  「伏見城陥落において、人質を取られ、困っている者もおるだろう。ここで大坂に帰っても構わない。道中の安全は保証する」  三成暗殺未遂の実行者でもある猛将、福島正則が強い口調で言い放った。  「残してきた妻子を犠牲にしても、憎き、石田三成を討伐致す」  「私も、三成討伐に賛同する」 と黒田長政が続いた。、さらに、織田家の旧家臣であった山内一豊も続いた。  「城と領地を全て差し出しても、家康様に協力致す」  これらの発言から、徳川軍の意志は揺るぎないものとなった。  「上杉より、三成討伐を優先する。皆の者、大坂に戻るぞ」  この時点で、三成の西軍と家康の東軍という、陣容が決定された。  三成は、家康が上杉謙信討伐に向かったことを知ると、すぐに動いた。  家康に賛同する大名の中には、大坂城下に屋敷を構える者もいた。その大名から人質を取って、家康への反旗を強要した。その中には、細川忠興の妻、明智光秀の娘である珠(ガラシャ)もいた。  父、光秀の謀反により、京の丹後国の味土野に2年ほど、隔離・幽閉。その後、秀吉の許しを受け、大坂・玉造に移り住んでいた。そんな珠の外出を忠興は、一切許さなかった。それは、宿敵の娘であることの命の危険さとキリシタン信仰への疑いが拭いきれなかったから。  忠興が九州遠征時に、珠が初めて、裏門から抜け出し、教会に出向く。時同じくして、天正15年に秀吉は突如(バテレン追放令)を発令。珠は、忠興の心配を他所に、急ぎ洗礼を懇願し、恵みという意味のガラシャを受けた。それ以来、キリスト教への思いはより深まっていった。  家康についた諸大名の側室を人質に取る企ては、三成自身の運命に、大きな陰を落とすことになる。幽閉を解かれていた珠は、大坂城下玉造の細川家屋敷に居た。そこへ、三成は軍勢を差し向けた。  「珠様、忠興殿が家康側につき申した。よって、珠様においては、我らの人質として投降して頂き候」  「私が人質とな?それで、夫の邪魔になってしまいまする」  そう言い残すと、油を撒き、火を放った。キリスト教徒のガラシャが自害という戒律破りを犯す。それも潔すぎる形で。たちまち、細川邸は火の海と化した。  細川ガラシャは、自己の尊厳と人間愛を貫き、女性の誇りを守り、平和を愛した。  辞世の句として、《ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ》を残している。死を前にし、全ての欲から解き放たれた姿こそ、真の姿で美しい。束縛から解き放たれた姿こそ、真の姿であり幸せと悟る。  武将の正室として誇りを貫き通し、自ら死を選んだガラシャの姿は、東軍の結束をより強固なものにすると共に、三成への敵対心を煽る要因ともなった。  人質を取り、優位に進めるはずだった石田三成にとって、逆風となった。    《そもそも、豊臣の家臣同志の戦いは、単なる内部分裂なのか。黒田官兵衛、加藤清正や福島正則など、豊臣親派の家臣が、秀吉の側近ともいうべき石田三成につかず、何故、家康についたのか。それは、政治的思想の違いが、如実に噴出したからで、決して、豊臣倒幕ではなかった。  三成は、秀吉の企てた朝鮮出兵のように、常に突き進み、世界を広げようとする思想と、家康の天下を統一し、国内に戦のない平和と調和をもとにした発展を目指す思想との違いにあった。  歴史とは、結果と、当初の志が必ずしも、一致しないこともある。その象徴の(じょう)が、関ヶ原の戦いになる。この段階では、家康は、やどかりのように豊臣家を飲み込むことを考えていた。倒幕などは、まだ考えていはなかった。考えていたのは、家康を動かし、新たな天下統一を目論んでいた、黒幕たちだった。  下剋上で明日をも知れぬ世に、一部の有力な商人たちは嫌気が指していた。権力による搾取にもだ。決まり事さへ、定をなさない不安定さに気を揉んでいた。殺し合い、覇権争いばかり。生産性のない武士たちの行いに憤りを禁じ得なくなり、商人たちは、財力と先見の目で、新たな世を作ろうと動き出した。決して、歴史には残らない黒幕として…》  些細な思惑の行き違いで、時代は、大きな唸りの渦に、巻き込まれる。西軍と東軍というより、三成への賛否で軍勢が分かれていった。  家康は大坂に戻ると半蔵を従え、忠兵衛の用意した船宿に出向いた。  天海は、屋形船に先に乗り込み、家康を招き入れた。その船首には、半蔵が鎮座し、警護にあたった。  「挨拶は、宜しかろう。動きましたな。この歪は、思っている以上に複雑に大きく世を席捲致しますぞ」  「兼続(上杉家の重臣の直江山城守)からの返事に日頃の不満に火がついた。その火に何かと見下した言い方の三成が油を注ぎよったわ」  「確かにそうで御座いますな。日頃、規則に厳格な三成が上杉の件に口を挟まず、好き勝手に規則をお破りになる家康様が、規則だとお怒りになる。外からみていれば、目糞鼻糞のなじり合いで御座いまする」  大笑いする天海を家康は、小憎らしそうに睨みつけた。  「いくら、天海殿でもそれはなかろう」  「これは、これは」  「そもそも、秀吉が定めた規則破りは、天海殿の進言ではないか」  「そうであった、そうであった」  天海の笑いは家康の琴線(きんせん)に触れ、苛立ちを覚え始めていた。  「済まぬ、済まぬ。許してくだされ。しかし、これで、時代は動きまする。それで、良しと致しましょうぞ」  家康は、小馬鹿にされた思いと、これからの成り行きを思えば、複雑な思いになっていた。そんな時ふと、天海に会えば言わなければならない重要なことを思い出した。  「天海殿、言いそびれましたが、この度は、我らの争いごとに、娘・珠様を自害に至らした事、誠に持って、お悔やみ申し上げまする」  「それはそれは、お気遣い忝く存じまする」  家康は、天海の落ち着き払った態度に、困惑を覚えていた。これが、悟りを開いた者の心情なのか。不思議な感覚に襲われていた。  「そんなに不思議かな、私の落ち着きようが」  「流石に天海殿、私の気持ちをお分かりか」  「家康様は、特に分かりやすいお方ですからな」  「小馬鹿にされるは、三成で充分じゃ」  「済みませぬ、済みませぬ。まあ、お詫び代わりに、家康様に会わせたい者が御座いましてなぁ」  「誰じゃ、そなたらの会わせたいには、もう驚かぬは」  「半蔵さん、用意はできておりますかな」  「整っておりまする」  「それでは、お願い致す」  天海がそう言うと、半蔵が、屋形船の障子を開けた。川面は、すっかり暗闇が支配していた。対面する所に薄っらと屋形船が見えた。少しづつ近づき、闇の中でも、かなり鮮明に見える位置に来た。対面する屋形船の行灯に灯りが点ると障子越しに、一人の人物が浮き上がった。家康は「何者か」と目を凝らしていると障子が、ゆっくりと左右に開いた。女、女だ。後ろを向いた。  「もったいぶらずに、こちらを向きなされ」  ゆるりと、女が振り向いた。妖麗な立ち姿だった。玉虫色に輝いて見える着衣は行燈の明かりにきらきら輝き、まるで色鮮やかな蛍を見ているようだった。その光景は、妖艶さをより際立たせて見せた。女が口を開いた。  「わらわは、ガラシャと申します。生前は、細川珠を名乗っておりました」  「ひえぇぇぇー」  家康は、背骨が抜け落ちるような驚きと、恐怖に寒気を感じた。  「天海殿、お、おふざけが過ぎまする。どんな妖術をお使いになった。もう~良い、宜しゅ御座います。消して下され、早う、早う」  「く・く・く・く・く。家康様、落ち着きなされ。幽霊では御座いませんぬ。珠も生前などと、茶化すではないは」  「家康様、ほら、ご覧なされまし、このように足が…」  ガラシャは着物の前を左右にはだけさせ、生足を見せた。  「なんと、はしたない。よしなされ」  天海とガラシャは、扇子で口元を抑えて、笑った。珠はガラシャになってから、明るく活発な女性へと変貌していた。  「夢ではないのだな」  「確かにこのような妖術が使えれば、楽しゅう御座いますでしょうな」  「しかし、珠様は、自害なされて、家臣に首を撥ねさせ、その首を絹の布に包ませた、と聞きいておったのに」  「私もすっかり騙されました…と言いたいところですが、種を明かせば、私が騙された手口をそのまま、使わせてもらっただけで御座いますよ」  「どういう意味か、一体、何が何だか分からぬは」  「ほら、私が生前、光秀を名乗り、信長という男を葬った、とされる昔話で御座いますよ」  「本能寺の変か」  「あの時、信長も油を撒いてそれこそ、私も煙に巻かれましたわ」  「それと、この度と同じと言うことか」  「左様で御座います。忠兵衛の支配下の探偵から珠が人質に囚われるやも知れぬと聞かされ、ひと芝居打ったので御座いますよ」  「そうであったか、しかし、首を撥ねたとかの話は…」  「それも、真似させて貰いましたわ。光秀の首実検に当たる際、忠兵衛の手配により、変わりの首を用意して頂いたわけです。それで、光秀は、死んだことになりました。しかし、その首は実は誰の者か判別出来ないように、細工されておりましてな。それでも、実体があったとみなされ、後は情報操作で、私の死は真実となり申した。私も実は、後になって焼け跡から、信長の遺体を見つけたと報告を受け、確認致しましたが結局、信長と懇意のあった清玉上人の証言を受け入れて一件落着と致しました。結果を残さなければ、その場が収まりませぬ。よって、その遺体を信長とした。しかし、確信は得られなかったゆえ、何かと理由をつけ、他言無用で押し通しました。それを知ってか知らずか秀吉は、信長は生きていると流して困惑する者も。それが、私のその後にも影を落とす。何れにせよ、目覚めが悪う御座いましたゆえ、信長ゆかりの清玉上人に、弔って貰いましたがね。珠の場合も、遺体がなければ、怪しまれる。しかし、珠の身代わりを用意するのは、流石に珠の気持ちを考えれば、できませぬ。そこで、その場を見てきたような語り部を用意したので御座います。落ち着いて考えれば、油で燃え盛る炎の中、自害を待ち、その首を撥ね、絹の布に巻くなど、落ち着き払った行いは至難の業で御座いますよ。また、球の行いに皆の注目が注ぎ、その首が誰のものなどと言うことは誰も追求もしておりませぬ。珠の放った夫、東軍の邪魔になっては…で、全てが消されましたわ。お蔭さまで、珠はここにこうして、新たな生き様を楽しんでおりまする。いわば、幽霊、親子の誕生で御座いますな」  「そ、そうで、あったか」  「本来は、小競り合いが火元。そこへ、三成の人質の企て、揺れ動く諸大名の気持ち。それを、珠の残した言葉で、東軍の思いは、一挙にまとまり、戦の様相を帯びてきましたでは、ありませぬか」  「確かに。珠様の行いは、諸大名の意気を高めた」  「何事も情報線で御座いますよ。その情報をどう扱うか。持てる札をどの順番で切るかで戦況は大きく変わり申しまする。これからは、何事も、確認の上、お動きになられるように、重ねてお願い申し上げますぞ」  「あい、分かった」  「三成の人質確保の動きは明らかに和睦の機会を失う、策略になっておりまする。思いつきで動くことの怖さを、表しておりまするゆえ、くれぐれも家康様も軽はずみな行動はお避けくだされ」  「了承した」  「私事ですが、家康様にお願いが御座います」  「何かな」  「珠、いやガラシャは、キリスト教を信仰しております。今後、宗教を隠れ蓑にしたイエズス会封じに、キリスト教禁止令を家康様もだされるでしょ。ガラシャに約束させまする。信仰は己ら限られた者のみに控えよ。信仰を広めることは決してせぬと。ガラシャもそれでよいな」  「よしなに」  「そのようなこと、考えも及ばぬは。そもそも、幽霊を捉えるなど、無理難題ではないか、あははははは」  家康の粋な計らいに明智親子は、安堵の笑みを浮かべていた。  「それでは私は、これで於いたまさせて頂きまする。家康様に、幸多きあられますように」  「そなたも達者でな」  ガラシャを乗せた船は、ゆっくり闇の彼方に消えていった。  「さて、家康様、秀吉の禁じていた婚姻の斡旋や知行の授与など、五奉行に相談することなく勧め、諸大名には有り難られ、それを批判する三成の評判は下がる一方。何かと壁となっていた仲裁役の前田利家も死去。内部分裂は激化。三成未遂事件がおき、その仲裁を敵側といってもいい、家康様が助ける。それで、権力を強化された。今度は家康暗殺計画があったとし、ひと波乱を企んでみたが、前田利家の妻である、まつ(芳春院)が自ら人質となり、不発に終わるも、前田家は徳川家に従う姿勢をみせ、その罪を前田利家を継いだ利長と五奉行の一人でもある浅野長政に被せて、失脚同然に追い込んだのは、収穫でしたな」  「そうじゃたな、合戦をせずに、事を動かすのは骨が折れるわ」  「そうで御座いますな。しかし、五大老の二番手の前田家を従わせて、五奉行の弱体化も成し遂げられたではないですか」  「ああ、しかし、直江兼続とのやりとりでは、売り言葉に、買い言葉。感情が昂ぶり、常軌を失い、大人気なかったな」  「それが、功を奏して(もつ)れる要因になり申したではありませぬか。兎にも角にも、何でもいい、三成との対立理由ができればよかった訳ですから。三成率いる五奉行に逆らうことでどの大名が、こちらへ就くかを見極めることが出来たではありませぬか」  「ああ、かなり武断派の諸大名は、溜飲が下がったのではないかな。五奉行の中には恐れをなした者も出てきておる。そなたが言うように、その者は隠密に我が方へ取り込む術は着実に進んでおる、と言うか…もはや、内通者と言っても良い、関係になっておるは」  「それは、宜しゅう御座いましたな。しかし、上杉家への攻撃に目を囚われ過ぎ、手薄になった大坂城を攻められ、人質を取られ、無念にも鳥居元忠様のお命を奪う結果となったのは、私目の読みの甘さが…本に悔やまれまする」  「自分を責めるで、ない。私も油断していたのは、悔いておるゆえ」  「元忠の死は、小山評定に於いて、諸大名の意思を確認する、良い結果となった。そなたの死を無駄にはせぬと、元忠の墓に報告するつもりじゃ」  「私も元忠様の霊が安らかになられるよう、朝夕、経を唱えておきまする」  「お頼み、申す」  天海と家康は、待ち構える戦いの為に早くから、密かに地盤固めに努めていた。三成側で裏切り行為に走る可能性のある者を、あらゆる角度から検討し、隙あらば、その弱点を攻め立てた。その一人が、黒田長政だった。長政の豊臣家への思いは、かなりのものだった。その要因は、長政が少年時代に遡る。  長政の父、如水の裏切りを疑った織田信長が、豊臣秀吉に長政殺害を命じた。秀吉は、その命令には納得がいかず、一年間、長政を隠し通し救った。それに恩義を感じた長政は、豊臣家を支えることに尽力する。しかし、時代の変化は、長政を困惑させた。秀吉は、戦闘に勝つ知略でなく、行政手腕を側近として選んだ。それが、石田三成だった。  朝鮮出兵にも長政は、無謀と反目を三成に唱えた。家康を支持するという訳でなく、三成と共に歩みたくない思いと、三成がいれば我が戦闘能力と知略を生かせる場ない、それを強く感じたからこその家康傘下の選択だった。  勿論、家康優位の先を読んでの行動でもあった。小山評定前後に於いても、福島正則を口説き落とし、それを口火に一斉に徳川家康支持へと導いた。その裏工作の立役者として長政は、自らの能力を遺憾なく発揮し、失いかけた生き甲斐を見出していた。  黒田長政が生き甲斐を見出している頃、家康は思案しぐねていた。  それは、秀吉から与えられた江戸と言う土地に対してだ。何もない平野。平野と言っても湿地帯で建物や田畑が設けられるものではなかった。使えなければ只の領地。秀吉の嫌がらせとも思える仕打ちに屈することになる。それはそれで腹立たしい思いだった。困った時の天海。何時しか家康は、天海を冷静なもう一人の自分としてみるようになり、縺れた糸を解す糧として活用するようになっていた。    「重臣たちは溜息と絶望感に打ちひしがれる中、家康様はこの江戸を諦めておられない様子」  「そうじゃ、分かってくれるか。他の者が不要な土地と言うが、どうも儂にはそうは思えないのじゃ。それが何なのかを知りたいものよ」  「才能のあるお方は、凡人では気づかない利点や欠点を見抜くものです。家康様がそう感じられるには、心に引っかかる所があるからでは。喉に引っ掛かる小骨の正体を、一緒に探ると致しましょうか」  「そうしてくれるか、穏やかではないゆえにな」  「では、江戸と他の土地との大きな違いは何で御座いましょう。それを知ることで、江戸の良き所、悪き所を整理なされれば如何かな。さすれば、打つ手も見えてきましょう」  「悪き所は、湿地帯であること、河や海が領地万遍に広がり、水害が常に付きまとう点。良きところは、水源が豊富であること。全体では、水路で分断されていはいるが平地であること、か」  「一見、悪き所も見方を変えれば、違ったものが見えてくる事も御座いましょう」  「見方を変えるか」  「そうで、御座います。海、河を路として考えれば、如何かな」  「水路か。成る程、水路であれば、大きな荷物や移動手段に使えるな。水源が豊かであることは、少なくとも生活用水には事欠かない。町を発展させるためには、井戸水ばかりに頼ってられぬゆえにな」  「そうで御座いますな。少し、角度を変えるだけで、無用の長物が、隠れた宝の山に見えてきたでは、ありませぬか」  「まさに、何か希望が湧いてきたわ。天海殿と話していると、不思議と落ち着き、考えがまとまる。戦略、知略に長ける者は、多いが、そこはそれ、武士であるゆえ、完全に心を許せるかと言えばそうではない、忖度で真実を語らぬ者もおる、悲しきことよ。それに引き換え、天海殿は、世を捨てた者。俗世間の戯言に無縁と思えば、心が許せるわ」  「有難いですな。そう申して頂くと。しかし、世捨て人はないでしょう。寧ろ、平安の世に尽力したいと、願っておりまする」  「それは、私も同じことよ。戦乱の世はもうよい。老い先短いこの身を命の駆け引きに使いとうはない」  「そうで御座いまするな。その思いは、この身を持って経験しておりまする。家康様には、一日も早く、天下泰平を実現して頂かねば、この天海も老い先が短こう御座いますからな」  家康は、ひと時の安らぎを感じていた。  「江戸に命を吹き込むには、江戸と言う土地を隅々まで知り尽くすことと存じます」  「敵を知るにはまず見方を知る事。何が出来て何が出来ぬか、その際の弊害は、対応策じゃな」  「そうで御座います」」  「あい、分かった。畳の上で思案していても始まらぬわ。視察じゃ視察。鷹狩と称して、探ってみるか」  「それは宜しいことですな。お体にも宜しいかと」  「江戸を日の本一の町にしてやるは」  「そのためにも、天下泰平、天下統一を勧めませんとな」  「意地悪ですな天海殿。折角の現実逃避を、覚まさせるとは」  「心情調査を繰り返し、その風穴を利用して、西軍の中にも、協力者が出ておりまする。さらに、ひと押しもふた押しも、念を押す必要がありまする」  「そうじゃな、まだ、寝返る確信が持てぬ。こうして、暇を作って天海殿に会うのが、歯がゆく思うは」  「実は、私もそう思っておりました。秀吉亡き後、今一度、戦場にこの身をおこうかと考えておりまする。つきましては、お願いが御座いまする」  「何だ、軍勢でも用意せよと言うのか」  「ご冗談を。血眼臭いやり取りは、仮にも仏門の者としてご勘弁を」  「では、何を願う」  「戦場にお供させて頂きたい。次なる戦は、即時即答、臨機応変に対応せねばならないものと存じます。家康様は、どーんと構えているかと思えば、武田信玄のときのように、馬鹿にされたと興奮し、まんまと信玄の罠に引っかかり、命を危険に晒される。それを、安泰な場所で心配するのは、この身が引き裂かれる思いで御座います。ならば、秀吉亡き今なら、家康様の身近でお役にたちとう御座いまする」  「言いたいことを言い寄って。しかし、天海殿さへ、良ければ、寧ろ、私のほうがお願いしたきこと。その願い、この家康、有難く、了解した」  「それは有難い。久々の戦の場。血が騒ぐまいと言えば、嘘になる。刀や鉄砲ではなく、知略を武器として、半蔵らと共に、家康様を支えましょうぞ」  後に、関ヶ原の戦いの絵図に、赤い法衣を着た天海のような僧侶が描かれている。それは、武将たちが名を残す戦を横目で見て、影の存在に身を投じていた明智光秀の、武将としての血が騒いだ証なのか…、いや、影でなく陽のあたる場所への願望が、そうさせたものに、ほかならなかった。  まず天海は、知略の道として、家康に人心掌握の術を伝えた。  一、戦の大義名分を身近なものと思わせよ。     この戦は、自らに火の粉が降りかかってきたものではなく、     一見他人事のように思え、静観の恐れもある。     その心を動かすには、自らに当てはめさせること。     評価への不満。     命を賭ける者と高座から見るだけの者との違いを訴えること。     立場の違いを明確に打ち出し、自らの問題と擦り替えて行く。     これにより、後の寝返りを防止すること。  一、応援要請は、支持ではなく、願望とせよ。     支持されたでは、不満も出る。また、寝返ることも考えられる。     飽くまでも、自分の意思で、参戦する。     勝利は、自らの糧となると思わせる語彙を用いること。  一、先方の身辺事情を組み入れよ。     探偵の調べから、家族や藩、領内など気になる事柄を選び、     文中に書き足すこと。     いつも、気にかけている事を訴え、親近感を植え付けること。  一、成功報酬は、曖昧にせよ。     報酬は、先方の存在価値を表すものとなり、不満の火種にも     成り兼ねない。あくまでも、希望的内容に留めよ。     参戦を決めかねている者への切り札として温存すること。 以上のことを、天海は、家康が納得のいくまで、説いた。  家康は出陣間近まで、天海と取り決めた内容を踏まえ、各地の武将や大名に協力要請の文を書き続けた。文のやり取りで、大まかな軍勢が把握できるようになっていた。  天海の説法・やり取りから、せっせと文を書き続け、早くも一ヶ月ほどを費やしていた。不満・希望を共有することで、不安と言う霧が晴れた思いに包まれた。光秀自身が本能寺の変の後に感じた曖昧な期待を確実なものに変えた家康の心は、晴れ晴れとしていた。  「さぁ、準備は整い申した、皆の者、いざ、出陣じゃ」  有利に戦いを進めるには、石田三成を揺さぶり、誘い出さなければならなかった。大坂城に篭城されては、勝ち目が薄い。そこで、家康は、あえて「大坂を焼野原にしてやるは」という内容を三成に送りつけた。  「家康の奴、そうはさせるか、むしろ、返り討ちにしてやる」  三成は、秀吉に大軍を任せたいと言わせた大谷吉継と相談し、関ヶ原近くにある、大垣城に戦いの場を構えることにした。  「ここなら、山の上から、来る東軍が一望出来る。ここに陣取るは、西軍の勝利を揺るぎないものにするわ」  三成は知略で先陣をきり、圧倒的優位な位置取りを得たことで、勝利を確信していた。  「家康破れたり。うわははははは」  三成は、天守閣から城下を見ながら、高笑いを抑えきないでいた。  一方、家康は、軍勢を二分した。  ひとつは、東海道から西に向かうもの。ひとつは、徳川家の後継者であり、家康の次男である秀忠率いる軍勢を中仙道の山間を通り、西に向かわせるものであった。  「秀忠殿、途中に、徳川家を裏切り、西軍に就いた真田昌幸のいる上田城が御座いますな」  「我が軍は三万八千、真田軍は二千とされておるな」  「さようで御座います」  「父への手土産に真田軍を討ち落としてやるか」  「はっ」  「者共、真田軍を討ち落とし、我ら軍勢の力を見せつけようぞ」  秀忠軍は、多勢に無勢の圧倒的有利さを根拠に、真田軍に戦いを挑んだ。  しかし、朗報を勝ち取るどころか、悪戯に時間を食いつぶす嵌めに陥った。名将、真田昌幸の防戦に大苦戦をしいやられたからだ。  「ええい、何を手間取っておる」  「昌幸めが籠城を決め込み、防戦一方。狭所での戦をしいやられ、大軍を送り込めぬ有様で御座いまする」  「昌幸のやつめ~、強行突破じゃ、突破せい」  「それでは、我が軍の不利は拭えませぬ。悪戯に兵力を失えば、それこそ、家康様のお怒りを買うことになりまするぞ」  「では、どうせよと言うのだ。引くに引けぬではないか」  「ここは、一旦、引き上げ、関ヶ原へと進軍致しましょう。敵の兵力を衰えさせたのは事実。ここは、それで良しと、致しませぬか」  「それでは、仕掛けたこの秀忠が笑いものになるではないか」  「我が軍の目的は、関ヶ原で三成の西軍に勝つこと。殿、目的を見失われないように重ねて、重ねて、お願い申しまする」  「殿、ご決断を」  「うぅぅぅ…」  「殿、このままでは、東軍の合流に間に合いませぬ。ほっておいて、先を急ぎましょうぞ」  「えええい、何を言うか、戦いを挑んでおいて、引き下がれと言うのか…。有利な立場にあって討ち落とせなかった…。恥以外の何物でもないは。どのツラ下げて、合流せよと言うのじゃ、ええい、攻めろ、攻め落とせ~」  秀忠軍は、大いに揉め、袋小路の闇に吸い込まれていった。  「殿、幸村らが攻めてまいります」  「幸村だと…」  秀忠は、幸村とは?警戒すべき相手か?と、思案していた。父・真田昌幸の存在に隠れてこの段階では幸村は、然程、知られる存在ではなかった。  「上田城に兵を出し、この場は手薄かと。ここは、撤退を」  得体のしれない相手に加え、重臣・榊原康政の弱気な発言に憤りを顕に。  「敵に背を向けろと言うのか、愚かなことを」  康政は常軌を失っている秀忠を羽交い絞めにした。  「御免、お許しくだされ」  康政ら家臣たちは、闘志を剥き出しにする秀忠を無理からに馬に乗せ、馬の尻を叩き撤退させた。それを追随するように護衛が追走した。家康は、秀忠の真田軍、襲撃を知り、激怒した。  「秀忠のやつ、何をしておる。真田軍など、捨て置け~、さっさと、進軍せよ。そう、伝え~」  秀忠、真田軍襲撃の知らせを聞くや否や、家康は秀忠に使者を送った。その使者の足を阻んだ大雨に思うように動けず、遅れに、遅れた。  家康にとっての大誤算。  秀忠の軍勢は、徳川軍の兵力の半分を担っていたからだ。  「秀忠のやつ、色気を出しよって。何たることぞ」  使者を送り出した後も秀忠への怒りは納まるどころか、これからの戦いの行方を考えれば、致命的と思われる失態に落胆さへ覚えていた。  使者が、秀忠の元に着いた頃、秀忠、真田軍の情勢はまだ混沌とした、膠着状態だった。秀忠は敵に後ろを見せた屈辱と終着の見えない戦いに焦りを感じていた。そんな折に家康からの使者が。このままおめおめと引き下がれば、敵味方に関わらず汚名と屈辱を味わうは必定。秀忠は、ある意味、自らの今後を諦める覚悟で思案の渦中にいた。  「秀忠様に申し上げます。真田軍など捨て置き、いち早く、駆けつけるようにのこと、確かに申し付けた、との家康様からのご指示で御座います」  「うぅぅぅ、あい、分かった。者共、引き上げ~。我らの敵は、関ヶ原にあり。西軍、真田軍の兵力を衰えさせた。我ら本来の目的の為、改めて、進軍致すぞ」  秀忠は、兵力の差に胡座をかき、何ら策略もなく、落胆的な思いから強引に突き進んだことを後悔していた。結果が全ての世の中。後は、関ヶ原での戦いで補うしかない。秀忠は、恥も外聞も捨て、気を改め関ヶ原でこの悔しさを晴らすしかなかった。  逸る気持ちを抑え、兵士の疲労度を考えつつ、足取りを早めた。後悔先に立たず…か、自らの奢りの反省と共に。  関ヶ原に近づいた頃、戦場の状況を探るために、走らせていた先鋒が戻ってきた。  「秀忠様、ご報告を、ご報告を」  「おう、大義じゃった。それで、どうであった」  「それが、それが…」  先鋒として任務を終えた武士は、俯いたまま、声を詰まらせているように見えた。まさか、東軍が負けた。いや、いや、そんなはずが。戦いの規模からして決着が早すぎる。何だ…胸元を掻き毟るようなこの思いは?底なし沼に足を踏み入れたような不安を断ち切れなかった。  「ええい、早う言え」  「それが…それが…」  秀忠は、ただならぬ気配を受け止めるしかなかった。  「どうした、どうだったのか、早う、早う言え」  「おお恐れながら、申し上げます」  秀忠一行は、固唾を飲んで聞き入った。  「関ヶ原について見た光景は、…その光景は…」  先鋒に出向いた兵士は、心を強くして、大声を張り上げた。  「戦い、既に終わって、おりまする」  「な・なんと、終わっておったと、それで、東軍が勝ったのか」  「それは、分かりませぬ。戦場には死人と残骸だけで、もはや、鎮まり返っておりました」  「なんと…」  秀忠は空を見上げた。  空の様子は、秀忠の落胆の色を移すように、どんよりと曇っていた。秀忠軍は、関ヶ原の戦いに、間に合わなかったのである。  時間は遡る。  秀忠の愚行に落胆の色を隠せないでいた家康は、敗色の絶望感に蝕め始めていた。それを察した天海は、敢えて落ち着き払った口調で家康を諫めた。  「落ち着きなされ、家康様。他方面の戦は順調で御座いますよ。そもそも、西軍より東軍への協力者が多いではありませぬか」  「それは、そうじゃが…」  「尾張、美濃と相次いで、西軍に味方した武将の城は陥落しております、落ち着きなされ、家康様」  天海は、時に声を張り上げ、動揺を隠せない家康を叱咤激励した。  天海には、家康の気持ちが痛いほど分かった。自らも兵力の半減は痛手であり、構想の幾多は破綻した焦りはあった。  しかし、人の振り見て我が振り直せ、ではないが、家康の姿に自分の姿を投影すると現実を冷静に見極めることができた。その際、自分の軍に堺で家康が追われたとき、自害を視野に入れていたことを光秀である天海は思い出していた。家康という男は、窮地に陥ると、人格が一変する悪い癖を持っていた。ここが、信長や秀吉との違いであり、天海という男を受け入れているのも、弱気になる自分を誰よりも、家康自身が知っていたからであることを、天海は熟知していた。  これを危惧し、戦場復帰を言い訳に、この戦に天海は、家康の側に居て、支えることを目的として、参画していた。  一方、石田三成側にも誤算があった。  それは、美濃にある岐阜城の陥落だった。  美濃は、織田家の後継とされる、三法師こと秀信が守っていた。  しかし、東軍の攻めは多勢に無勢もあったが、この城は、織田家や豊臣家に使われていた為、内部の構造が熟知されており、あっさり陥落されてしまったのだ。さらに、三成が戦力として考えていた豊臣五大老の大名家である毛利家、宇喜多家の軍勢の動きが極めて鈍い点にあった。その原因のひとつが、武将の多くが、二代目であり、戦国時代を生き抜いた経験豊富な武将がいなかったことは否めなかった。  三成を悩ませた問題は、それでけではなかった。  家康が、せっせと大名や武将たちに送り続けた手紙が、功を制していたのだ。家康からの再三の寝返り要請は、豊臣家との関わりから何となく西軍に味方していた者や、三成不人気側にいる居心地の悪さを感じていた者からすれば、やる気を削ぐ武器として、大いに力を発揮していた。それ以外にも武将たちは分断派の思いが強く、文治派の大義と言うものに反感を抱く者も少なくなく、決して、西軍は一枚岩ではなかったのが現状だった。  三成は、徳川軍の京都・大坂への進軍を阻むため、関ヶ原付近の大垣城に入った。東軍は、それを踏まえて、大垣城付近に布陣した。  時は、1600年09月14日のことだった。  待ち受ける西軍は、集結する東軍の本隊兵数が、思いのほか多く、現実を目の当たりにした者たちは、浮き足立ち始めていた。  「まずい、これはまずいぞ。戦う前に戦意を喪失しまう。左近、何か術はないか」  「左様で御座いますな。ここは、一手打ってみましょうか」  「何をするつもりだ」  「まぁ、上手くいけば、西軍の意気も上がりますでしょ」  そう言って、島左近は、席を立った。  島左近とは、三成に「私の知行の半分以上を渡すから家臣に」と言わせた、勇将・名将だった。左近は、兵を率いて東軍の陣に出向き、先陣を切って見せた。  「ぐたぐた、集まっておらずに、かかって参れ。怖気付いたか」 と、東軍を子馬鹿にし、挑発した。  「猪口才な。お望みなら、目にもの見せてやるわ」  先陣にいた血気盛んな一部の軍勢が、すぐさま反応し、左近率いる西軍に襲いかかった。  「食いついたわ。者共、手筈通りに、宜しいかな」  「おー!」  左近軍は、東軍の攻撃を受け止めた。  東軍の怒りに任せた戦意は、左近軍を折檻する勢いだった。  じりじり、左近軍は後退していく。  東軍は、西軍をどんどん、追い詰めて敵陣へと入って行った。  「まんまと、引っ掛かかったわ。いまだ、かかれ~」  左近の合図で、東軍の背後に別部隊の西軍が襲いかかった。  東軍は、完全に本陣と離され、孤立してしまった。  包囲網の中で、ついに東軍は壊滅させられてしまった。  「してやったり。えいえいおー、えいえいおー」  左近軍の勝どきは萎え気味になっていた西軍の意気を一気に高揚させた。  「やってくれましたな、左近殿」  三成は、左近を味方にしたことを改めて、誇らしげに感じ取っていた。この戦いは、その後、関ヶ原の前哨戦とされ、杭瀬川の戦いと呼ばれた。  島左近が仕掛けた杭瀬川の戦いの裏で、後に、関ヶ原の勝敗を決める大きな動きがあった。  軍勢一万五千の大軍を率いる小早川秀秋が、突然、関ヶ原近くの松尾山に移動したのだ。この動きは、西軍の三成の度肝を抜く、突発的な出来事だった。  西軍・三成からすれば、自分が配置した部隊を許可なく、退かせ、陣取る小早川の動きは、不安以外の何者でもなかった。  松尾山は、西軍が陣取る大垣城の西にあった。  側面を取られ、三成は、心穏やかではなかった。  いまでこそ、西軍に就いているが、いつ寝返るか分からない挙動不審な素養が、小早川秀秋にはあった。その不安が、現実になったかも知れない恐れは、拭い切れないでいた。  しかし、移動した小早川秀秋は三成の心配を余所にその後も、静観を決め込んでいた。その態度は、両軍の不安を掻き立てる要因には十分だった。  「あやつ、何をしておる。勝手な真似をしよって。ええい、すぐさま、秀秋に、この真意を問い糺して参れ~」 と、三成は心中穏やかではいられなかった。  一方、東軍・家康も、幾度となく、寝返るように使者を送ってはいたが、色好い返事は得られないでいた。  「あの若造目、何を考えておる」  家康もまた秀秋の動きに、苛立ちを覚えていた。  小早川秀秋は、豊臣秀吉の養子であり、秀吉からのご寵愛を受け、豊臣家の後継者として名前が上がった程の人物だった。  秀秋は、元・豊臣五大老の一人、小早川隆景の養子となり、大名であった小早川家を継いだ。中国地方を納めている、西軍総大将とされた毛利家の家臣でもあった小早川家。小早川秀秋自身は、自分の意志に関係なく、血筋や立場上、西軍に組み込まれたと感じていた。  「爺、この戦いは何事か。家康様が豊臣家崩壊を企んだ謀反か。違うであろう。要は、三成派と三成に不満を抱くものを束ねた家康様との戦いではないか。ならば、私は、東軍にいても可笑しくないではないか」  「そのようなこと、軽々しく口に出してはなりませぬ」  「わかっておる。爺だから、話すのだ」  「心中お察し申し上げます」  「なぜ、私は、西軍におる。爺も知っておるだろう。私が三成を嫌っておることを。朝鮮出兵時の失態を秀吉様に逐一報告され、秀吉様から大目玉を食らったことを。その結果、信頼を失墜し、領地まで取り上げらえたではないか。そんな時、秀吉様との仲裁に入り、失意のどん底にいた私を、救ってくれたのはあの敵方にある家康様ですぞ。その家康様と戦うなど、腑に落ちませぬ。戦う相手は、三成であろう」  「また、お口が過ぎまするぞ。誰が聞いいておるか分からぬではありませんか。ほら、壁に耳あり、障子に目あり、と申しまする」  「こんな山奥に壁や障子などありませぬ」  「油断はなされるな、山奥だからこそ、会話が筒抜けになることも御座います」  爺の懸念は、見事に的中していた。茂みの中には、家康の家臣、服部半蔵が差し向けた伊賀者が、その会話の全てを聞いていた。  島左近の策略に誘いだされた東軍は、陣営を深追いしたばかりに、手薄になった後方を取られ包囲され、あっさりと壊滅した。島左近の仕掛けた戦いは、東軍の兵力の多さに蒼白の西軍の意気を高揚させた。この様子を高台で見ていた天海は、嘆いた。  「愚かな。相手の挑発に乗るとは…。家康様、指示なき行動を慎むように、各陣営にお伝え下され」   「分かった、皆の者、聞けー。勝手な行動は慎め~。和を乱すでな~い」  家康は、雷鳴のごとく、声を張り上げた。  「おおー」  軍勢は、自分を鼓舞するかのように、気を引き締め直した。その後、軽はずみに動けない東軍。  軍勢の多さに驚く西軍は、これと言った策略もなく、膠着状態が続いた。  天海と家康が、黙ってこの膠着状態を受け入れていた訳ではない。これ幸いに舞台裏での情報線を、頻繁に繰り広げていた。  「さて、家康様、西軍を大垣城から、追い出さねばなりませぬな」  「そうじゃな。曖昧な情報を流して、炙りだしてやるか」  「差し当たって、東軍は、大垣城を包囲し西軍の足止めを図っている。その隙に、大坂方面に進軍し、京都・大坂制圧を狙っている、と、噂を流してやりましょう」  「うん、三成の慌てる顔が、思い浮かぶわ、ふふふ、あはははは」  刃音はせぬも噂話という、人の心を揺さぶる戦いに挑んでいた。  その夜は、雨で見通しが至極悪かった。  西軍の島津軍や、島左近など武将は、膠着状態を嫌い、悪天候の好機を見逃すまいと三成に進言した。  「三成殿、西軍の士気は上がっております。この期を逃す手は御座いませぬ。幸いにも、雨で見通しも悪い。密かに城を出て、夜襲を掛けましょう、一気に攻め込むのです」  「それはならぬ、相手の動きが分からぬ今、時期早々よ」 と、あっさり三成に却下されてしまった。  戦に手慣れた武将と不慣れな指揮官の間に見えない不協和音が忍び寄っていた。  この夜は、どう戦うかの迷路の出口を、双方が模索することに。  その鉛のようなの迷路は、ある武将の不可解な動きで、突如、音を立てて崩れ落ちた。  ざわざわ、がしゃがしゃ。  暗闇の微かな松明の明かりが不気味に山肌に揺らめいていた。なんと、何ら前触れもなく、だんまりを貫いていた大軍・小早川秀秋が、動いたのだ。  「三成様、小早川秀秋様が、配置していた軍勢をどかせ、松尾山に陣取りました」  「なんと。何を考えておる秀秋は…。また、勝手な真似をしよって、真意を確かめて参れ。ええ~い、早く参れ」  石田三成は、不穏な空気に押し潰されそうな重圧に、血の気が引く思いだった。寝返るかも知れないという噂があった、小早川秀秋の動き。  秀秋軍が、西軍の大垣城を監視できる松尾山に移動したことは、西軍、東軍に大きな動揺を与えた。  三成の西軍には、まさかの疑心暗鬼として。  家康は、この機会を見逃すものかと。  直様、東軍にとって、有利な噂をながした。その噂は、秀秋が寝返り、大垣城を監視していると、また、東軍が、西軍の大垣城を無視して進軍するのを監視するための移動だ、とか。西軍の和を乱すのに格好の行いとして利用した。    小早川の動きの真意は、分からなかった。それは、西軍も同じと、天海と家康は考えた。  この膠着状態でのこの動きは、いかなる知略を持ってしても、ありえない札の切り方だったからだ。  天海と家康は、天の恵みと考えた。この期に付け込まぬは、勝利を手元から逃すようなものだ、と思えた。勝機の流れを読む。経験値は明らかに東軍に追い風をもたらしていた。  「三成様、申し上げまする。秀秋様に真意を尋ねるも、無言にての返答。真意が分かり申しませぬ」  「あやつ、何を考えておる、ええ~い、秀秋に伝えよ。この戦に勝った曉には、最高位を与えよう、領地も多分に与えよう、そう伝え~」  三成は、戦々恐々の筵に座らされ、なりふり構わず、秀秋の顔色を伺う術にでた。  東軍は、秀秋の心情に訴えかけた。  西軍、東軍の思惑を知るはずもない秀秋は、胸の中に燻る縺れた糸と葛藤していた。そこへ届いた文は、東軍の黒田長政からだった。  「秀秋殿。秀吉の怒りを買い、大坂城を追い出され、領地も奪われた。それもこれもあの三成の成せること。今こそ、我らと共にその恨み晴らさいでか。我ら、同じ思いぞ。一緒に闘おうぞ」  小早川秀秋の裏工作にひと役かって出たのが、家康から高い信頼を得ていた長政だった。長政は、家康が東軍を結成する小山評定の折に、武将たちの心を射止めた福島正則の発言をお膳立てした人物。朝鮮出兵で三成と反目。三成とは反りが合わなかったというより、自身の戦闘能力と知略に自信を持っていた長政は、三成に牛耳られる豊臣一派から徳川へと時代が変わる、いや変えて見せてやるとの思いで、徳川の東軍に活躍の場を見出したのに他ならなかった。  「家康様、ここは長政殿にお任せしましょう」  「天海、それは私の台詞だ。任せたぞ、長政」  「有り難き幸せ。必ずや、秀秋殿を寝返らせまする」  天海と家康は、戦の現場で闘う武将の気持ちをよく分かっていた。信頼する事とは、思い切って任せること。それを、意に感じて任せられた者は、力を発揮する。踏ん切りが付かず悩む小早川には、報酬ではなく、熱きものが必要だと感じていた。そこに、天海と家康は、賭けてみた。  小早川秀秋の元には、西軍・東軍からの熱き恋文・使者が頻繁に届いていた。西軍・三成は心情穏やかでなく、疑心暗鬼の魔物に飲み込まれていった。  「このままでは、大坂が制圧される。皆の者、東軍の大坂制圧を許してはならぬ。城を出て、関ヶ原に出陣じゃ」  三成は、夜の雨に紛れて大垣城を出て、小早川秀秋の鎮座する松尾山へと移動し始めた。絶対不利な城責めを避けたかった東軍は、ついに、三成たちを城から這い出した。西軍移動の知らせを受け、東軍は直ぐ様、その後を追った。  関ヶ原は、四方を山に囲まれ窪んだ地形だった。  西軍は山上に布陣し、東軍を見下ろせる有利な条件を得ていた。それに加え、三成は、本陣の前に杭瀬川の戦いで能力を発揮した島左近を、すぐ近くに戦国最強と呼ばれた本多忠勝や井伊直弼など、勇将・猛将を控えさせていた。  戦いの火蓋は、夜と共に開けた。東軍方からは、小山評定で名を馳せたこの男が名乗りを上げた。  「この福島正則に、先鋒を任せてくだされ」  「頼んだぞ、正則」  西軍からは、最も大軍を率いていた豊臣五大老の一人の男が指名を受けた。その男は、明石全登を勇将とする、宇喜多秀家だった。  一方、東軍、福島正則の部隊には、槍の名手・可児才蔵がいた。軍力に優れた福島軍であったが、多勢の前に一進一退の攻防を余儀なくされていた。  「我らも続こうぞ」  「積年の思い、今晴らそうぞ」  「行政方に戦とは、どのようなものか見せつけてやるわ」  東軍の小山評定の黒田長政、自害し東軍の気持ちを一つにした細川珠のちのガラシャの夫・細川忠興、槍七人衆の一人で武断派の家康に同調した加藤嘉明などが、石田三成の本隊に攻撃を開始した。  この三人、実は石田三成暗殺未遂事件の実行者であり、三成への積年の恨み抱いていた者たちだった。  家康は、三成の前面に配置していた。前面に配置された誰もが、その家康の配慮に意気を感じていた。東軍は(あなど)っていた。  西軍は、実戦に乏しい集団と甘く考えていた。しかし、思いの他、善戦され、寧ろ、押され気味の戦況に、家康の苛立ちは痺れを来たしていた。一方、西軍、三成は善戦に気を良くしていた。  「今じゃ、畳み掛けるのじゃ。さあ、島津義弘殿、お頼み申~す」  三成は、戦況を有利に進めるために、本陣に控えていた島津義弘の部隊に攻撃を依頼した。しかし、島津義弘は、腰を上げるどころか、全くやる気を示さないでいた。  島津義弘は、南九州・鹿児島からはるばる援軍に駆けつけてきていた。その兵力の強さは、日本中に轟いていた。義弘は豊臣家に義理立てし、西軍に参加したが、三成の行政重視の政権を嫌っていた。要は、立場上、西軍にいるだけで、三成に従う意志など、毛頭なかった。  「くそ~島津め~、ならばなぜ、そこにおる。ええ~い、もう頼まぬは」  三成が、次に白羽の矢を立てたのは、毛利軍だった。  毛利軍は、家康の後方に位置する南宮山に大軍を率いて布陣していた。この軍団は、西の総大将の名目で毛利輝元によって、派遣された無頼だった。  「毛利軍の方々、お頼み申す」  「あい分かった、者共、出陣じゃ」  「おお」  しかし、部隊は一行に動かなかった。  「どうした、なぜ、進軍せぬ」  「それが…その…」  「どうした、はっきり申せ」  「あ、はい、吉川広家殿が、その…」  「ええい、はっきり申せ」  「あ、はい、弁当を食べているから駄目だ、と」  「なんと、ううう、ふざけた事を」  のちに、これは、《宰相殿の空弁当》、と呼ばれた。  吉川広家は、毛利軍の前を塞いだまま、動こうとはしなかった。実は、毛利軍は味方同士の戦いを避けたいがため、身動き出来ないでいた。  「毛利は何をしておる」  「それが、吉川広家殿が、毛利軍の行く手を阻んでいるとか」  「なんじゃと、何があったのじゃ、ええい、どいつもこいつも」  三成の焦りは、最高潮に達していた。  毛利軍には、小早川隆景と吉川元春という二大重臣がいた。  二人は、考え方の違いにより疎遠になり、内部も二分されていた。毛利軍を西軍に参加させた僧侶・安国寺恵瓊は小早川派だった。  「家康様、毛利軍が三成の攻撃依頼に応じておりませぬ」  「そうか、そうか」  家康と天海は、お互いを見、不敵な笑みを浮かべていた。家康は毛利家のそ内情を知り、早い段階から、吉川元春の子である広家に接近し、東軍側に引き込んでいた。吉川広家は、家康との間で東軍が勝った曉には、毛利家の責任は問わないこと、領地もそのまま保障すると、密約を交わしていた。  「やりおったわ、広家の奴。さあ、どうする、島津も毛利も動かぬぞ、さぁ、さぁ、どうする三成」  西軍には、毛利家の領地近くの四国・土佐の戦国大名の長宗我部家も参加していた。長宗我部家は、東軍へ参加しようと向う途中、毛利家に関所を封鎖され、東軍に合流できず、仕方なく、西軍に参加していた。そんな状態だったから、最初からやる気など全くない部隊だった。  「一体、どうなっているんだ、どいつもこいつも」  「三成様、こうなれば、小早川秀秋様に再度、攻撃要請を致しましょう」  「仕方がない、恥も外聞もないは、謝れと言うなら謝ってやるわ、領地も、地位も、望み通りじゃ。何が何でも、秀秋の首を縦に振らせよ」  しかし、小早川秀秋は、大の石田三成嫌いだった。黒田長政に任せた秀秋の交渉も、長政が三成への攻撃に参加したことで、天海と家康に有利に働いていた。家康は、秀秋の尻叩きに懸命になっていた。  「みんなが寝返ったり、東軍指示の立場での静観など、もはや、何ら躊躇せずとも、寝返る状況は出来ておる。早く、決断なされよ。このまま、決断なされないなら、こちらも考えを変えねばなりませぬぞ。そのようには支度はない。決断なされよ秀秋殿」  小早川は、関ヶ原を一望できる松尾山に陣取り、高みの見物を気取っていた。しかし、内心は、膝頭が上下する心地の悪さだった。何が正解かわからないままその戦況を見て、有利な方へつこうと目論んでいたが、一進一退の攻防が続き、優劣をつけられない。思案の瞑想に飲み込まれる中にあっても、西軍・東軍からのやんやの要請にこれ以上、決断を遅らせるのは、仮に勝者についたとしても後に、あの時、何故、動かなかった、と不信感を抱かれると考え、自らを崖っぷちに追い込むような焦りを感じていた。それを見透かしたの如く天海が、家康に提言を申し出た。    「家康様、秀秋様は引くに引けない状況に追い込まれていると感じまする。ここは、背中を押してやりましょう」  「どうするのだ」  「ちょっと、脅かしてやりましょう」  「脅かすとは…う~む、それは面白い。鉄砲隊よ聞け~。小早川秀秋に向け、弾を放て。しかし、当てるではないぞ。脅かすのじゃ。分かったな」  鉄砲隊は早速、陣を成し、秀秋目掛けて威嚇射撃を開始した。  「わ~、鉄砲を撃ってきた~。どこのどいつだ」  「東軍の仕業かと」  「わ~、家康様が怒っている。本気だ本気だ、もう駄目だ」  「しっかりなさいなませ」    秀秋は、大きく深呼吸をすると、嘘のように思いが固まった。  「者共、出陣じゃ、敵は西軍じゃ、かかれ~かかれ~」  天海と家康の思惑は、見事に功を奏した。  「天海殿、秀秋の寝返りに自信があったのか」  「あり申した。秀秋は実践不足に小心者。犬と同じと見た。吠えて叶わぬと見ると、尻尾を腹の方へ丸めて、服従を誓いまする。気概があれば、歯向かって、東軍に怒りをぶつけるでしょうが、小心者は、叱られたら、叱った者の言うことを聞きまするからな」  「なるほど、秀秋はそれだけの男と言うことか」  「いやいや、若さか、性格か、我らからすれば、頼りなき武将ということです。しかし、秀秋の一万以上の兵力は魅力がありまするからな」  「食えぬ奴じゃな、そなたは」  天海と家康は、大笑いした。戦場でのほんの息抜きの場面となった。勝者とは時には、無茶と思える判断を下す。それが才覚の有無となる。  小早川秀秋は、寝返りを宣言し、目前の西軍に襲いかかった。突然のことではあったがこれを予想して、手立てを打っていた者がいた。  その人物は、石田三成が、急速に親交を深め、盟友とも言わしめる大谷吉継だった。  吉継は、西軍でありながら、揺らいでいる秀秋の姿を見、寝返るに違いないと踏んでいた。その時の為に既に布陣を用意していた。  小早川の軍勢は、迎撃され、いきなり押し戻されてしまった。  有利に立った大谷吉継に、災難が降り注ぐ。  吉継の軍勢と共に、小早川を迎える位置にいた部隊が、やや後退したように吉継には、感じた。敵は、前方の小早川軍。気にする程の事ではないと、気に止めないでいた。その時だった。  「かかれ~」  吉継は、後方で信じがたい号令に我を失った。  突然、共に行動していた部隊が、自分たちに襲いかかってきたから、堪らない。大谷吉継とにって青天の霹靂、大誤算だった。  寝返った部隊は開戦前に既に、家康からの使者と合意していた。吉継の軍勢は、瞬く間に包囲され、集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも、壊滅。大谷軍の消滅により小早川軍も立て直し、寝返った者同士、西軍への進軍を始めた。  関ヶ原前線は、一進一退の攻防が続いていた。  石田三成は、徳川家康の本陣を襲うと迂回部隊を差し向けるが、そこに立ちはだかったのは、戦国最強と呼ばれた本多忠勝だった。  戦術、戦力的にも三成の軍勢は、歯が立たず撃破されてしまう。  その中でも異才を放っていたのが西軍・宇喜多秀家だった。  実践経験の浅い二代目武将ながら、東軍の福島正則に対して、善戦を続けていた。その秀家を窮地に追い込んだのは大谷吉継を壊滅させた小早川秀秋の軍勢だった。秀秋の軍勢は、秀家の軍勢の側面から参戦。攻防の視野が広がったことで、戦力は拡散し、秀家の隊列は崩壊していった。  「秀家様、このままでは、持ち堪えることさへ叶いませぬ。これ以上、包囲される前に、退去をご決断を」  「ううう、仕方ない、者共、一旦、引け~引け~」  宇喜多秀家軍は、勇将・明石全登をしんがりに、戦場から退却を余儀なくされた。  豊臣家への義理を果たすために西軍に参加していた島津義弘の部隊もまた、善戦していた。しかし、取り巻く、戦況は芳しくなかった。  「西軍が、次々と崩壊・退去しております。このままでは、援軍が押し寄せてきまする、殿、ご決断を~」  「うぅぅぅぅ。敵に背中を見せろと言うか。島津藩は、そんな腰抜けではないわ。皆の者、前面・強行突破じゃ。島津藩の心意気をみせてやろうぞ」  窮鼠猫を噛む、如く、東軍は呆気にとらていた。  奇をてらった敵中突破は、東軍を蹂躙し、側面にいた福島正則の部隊も防ぐことが出来なかった。  東軍・井伊直政は、追撃し負傷。  島津軍は無謀とも思える退却方法で、大きな犠牲を払いながらも東軍を敵中突破し、そのまま鹿児島へと帰還した。その島津藩の行いが象徴するように、戦場のあちらこちらで敗戦濃厚を悟った西軍の武将たちは、戦意を剥がし取られ、戦は、呆気なく終焉を迎えた。  「家康様、西軍に就いた武将には後悔させねばなりませぬな」  「ほんにそなたは儂をこき使うな。一息入れてからでも良いであろう」  「鉄は熱いうちに打て、と申すではありませぬか、さぁさぁ、休んでいる暇など御座いませぬぞ、さぁさぁさぁ」  「この老体に鞭を打って楽しいか、そなた」  「楽しゅう御座いますな、さぁさぁさぁ」  「何故、そんなに急がせる」  「今後の事を思っての事。考える隙を与えれば、あれやこれや要らぬことを考えかねまする。おいたをした子にはお灸を据えなければなりませぬ」  家康と天海は、西軍に就いた武将たちに傷心を癒す隙を惜しむように処罰を叩きつけていった。関ヶ原の処理は間髪を入れずしかし、粛々と進められた。  首謀者である石田三成。毛利家を西軍として参加させた僧侶・安国寺恵瓊は、計画の首謀者として。真っ先に自首してきた商人から秀吉に見出され重職に就いていた小西行長は、武将たちの秀吉への反感の思いを晴らすものとして。結果として、大戦の割には、京都引き回しの上、処刑されたのは、この三人だけだった。  豊臣五奉行の長束正家は、自害の道を選んだ。豊臣五大老の宇喜多秀家は、数年間逃亡し、捕獲された。その頃には戦いの熱は、冷めていたのと元々、人望が厚かった秀家は、著名な武将からの嘆願書もあり、島流しとなった。秀家の妻・豪姫との別れは、戦国の悲恋物語として後世に残された。  極刑の処罰対象者には、特徴があった。参謀的な人物に特化していた点だ。  家康、天海ともに、知略あっての武力という考え方。刃物も使いよう、ということだ。料理の道具にもなれば、殺人の道具にもなる。使い方次第で、味方にも敵にも、善にも悪にもなる、ということ。  西軍に参加した武将たちは、領地を大幅に縮小され、地位も降格させられたことは言うまでもない。  武将たちは規模は縮小させるも、存続させることで、敢えて恩義を感じさせ、彼らの領土を管理させる。仇討のような反目を、限りなく抑えることが目的だった。恩義と恐怖を与え、昨日の敵は、今日の味方、の如く。  例えは悪いが、戸外の犬のように、飼いならす。そうしておいて、裏切りの意思を削ぎ、反逆の防止に役立てた。  豊臣五奉行で、西軍の軍事計画を立てていたひとり、増田長盛は、戦前から家康と内通し、東軍に軍事計画を流していた。  東軍は、西軍を情報戦で圧倒していた。  東軍に協力した他の西軍の者は、領地は保障され、形ばかりの謹慎処分とされた。  弁当を食べているからと、後に宰相殿の空弁当と呼ばれる理由で、三成の進軍命令に突然反逆した毛利軍の吉川広家。  領地の保障を取り付けて、東軍に肩入れしたが、約束は破棄され、毛利家の領地は大幅に縮小された。  吉川広重の反逆は、東軍家康の勝利を予想するも、西軍につく毛利家の存続を思っての事だった。  密約は、東軍の黒田長政と井伊直弼との間で取り交わされ、毛利家の重要な人質を送ることで、家康の承諾を得て、成立する予定だった。   しかし、人質を差し出す前に戦いは終わって仕舞い、家康との約束とはならなかった。  毛利輝元に相談せずに、お家大事で起こした密約行動。  当然のように輝元の怒りは買うが、毛利家のことを思っての行動として、厳重注意でことを得ていた。  東軍に参戦した武将達は、西軍から取り上げた領地の中から、多くの領地を与えられ、殆どが大名として出世した。  彼らは、同時に近隣の西軍・武将たちへの睨みを効かせる役としても、一躍を成していた。  敵中突破で退却し、薩摩に戻った島津義弘の島津軍。  それを待ち受けていたのは、元軍配師、黒田如水こと黒田官兵衛だった。この軍勢と一触即発の状態に。しかし、家康から停戦命令が届き、合戦には至らないで済む。  元々、島津家は、豊臣家への義理で参加しただけで、寧ろ、三成を嫌っていた人物。そこを配慮され、お灸を据えた数年後には、家康は、領地を与え、傘下に治める道を選んだ。  上杉軍と伊達・最上軍との東北地方の合戦は、西軍敗北の報告を受け、上杉軍が撤退。後に、徳川家に謝罪し、領地は大幅に失うが、大名家としては存続した。  東軍の伊達家・最上家は、領地の増加を獲得。  ただ、伊達政宗は、家康と開戦前、伊達100万石の領地を約束されていたが、叶わなかった。政宗の野心を悟っていた家康は、後に脅威になる者に領地を持たせることを嫌い、傍に置くことで政宗の立場を保持しつつ、管理下に置いたのだった。  家康は、狸おやじと言われる程、一癖も二癖もある用意周到な人物。  家康が関ヶ原に挑むにあたって勝算はあった。  豊臣家の家禄・領地が著しく、減少していたからだ。秀吉没後、秀頼が家督を継ぐが、実権を握っていたのは、家康だった。秀頼は、気さくな家康から多くの学びを得ていた。  その頃、石田三成は秀吉の命を受け、朝鮮出兵に力を注いでいた。武将への評価は、相変わらず厳しく、武将たちの不平不満は積年の思いとなっていた。そこに目を付けたのが家康だった。家康は秀頼を思ってのことを表とし、裏では操り、陥れる裁断を企んでいた。  「秀頼様、三成殿の我らへの評価は、厳しすぎまする。戦場で命を掛け、豊臣家のために尽くしておるにですぞ。それでは、遅かれ早かれ、豊臣家、ひいては秀頼様への忠誠心も風前の灯火ともなりかねまするぞ」  「それは困ります」  「そうでありましょう。魚心あれば、水心あり。三成殿は、武将たちに更なる向上を促しての叱咤激励。しかし、鞭を打つだけでは、人は就いては参りませぬ」  「では、三成に如何致せと言うのか」  「泳ぐ魚には、水を与えれば良いのです、親心という水を」  「どういうことだ、分かりやすく言ってくれ」  「褒美ですよ、褒美。軍功を上げた者には、領地を与えれば良いのです」  「領地とな」  「しかし、三成殿には内緒で御座いますよ。締め付けている裏で秀頼様が甘やかしているとなれば、三成殿の立場もありますまいて。すべては、反乱の火種を抑えるため。いずれ、明るみになった時は、秀頼様の決断として、突っぱねてくだされ。それでこそ、頭首の威厳で御座いますからな」  「相、分かった」  裏では家康は、秀頼から軍功の褒美を出させると、武将たちに伝えていた。物分りの良い人物。それは、家康への求心力を高めるには十分だった。  豊臣家の領地という他人の褌で相撲をとるズル賢さを家康は、持っていた。これも、如何にして豊臣家の勢力を削ぐかという策略のひとつだった。  未だに秀吉信仰がある中、争わずして戦うか、それが天海と家康の課題だった。この策略は、真綿で首を絞めるように、豊臣家を弱体化させていった。  褒美の名目上、一人に与えれば、軍功が続く限り、褒美を授け続けざるを得ない。ない袖まで振らなければ反乱抑止にならず、豊臣家の威厳にも関わる。  底なしの沼に秀頼は、家康によって導かれたことになる。秀吉が、最大勢力者の家康を後継者にせず、血縁関係に拘ったことから、歯車が少しづつ噛み合わなくなってきていた。当初は、倒幕の意思はなくても、その行いは徐々に徳川政権樹立の色合いを深めていった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!