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広い大奥をすべて回ることはできなかったが、気晴らしになる庭や奥の部屋などを案内してもらった志乃はふと、大切なことを忘れていたことに気づく。
「そういえば今まで一度も御台様にご挨拶申し上げておりません。これ以上無礼を働くわけにもまいりませんし、もし御台様がお許しあそばすのでしたら、一度ご挨拶申し上げたいのですが……」
薙刀で稽古をつけていた時も、朝の総触れでもその姿は見かけなかった。一介の女子でしかない志乃がやんごとなき公家の姫君である御台所・孝子に目通りするのは無礼かもしれないが、だからといってこのままなんの挨拶もしないのは更なる不敬だろう。もしや朝の総触れに姿を現さなかったのも、志乃の存在を厭ったからだろうか。
「中の丸様は本丸にはおいでになりませぬ。総触れもご体調が悪いとよくお休みになりますし、上様も春日局様も何も仰せになっておられませぬゆえ、お気になさる必要はないかと」
――中の丸様。本来であれば御台様と呼ばれるべき孝子をそう呼ぶのは、何も初瀬だけではない。この大奥にいる奥女中達は皆、陰で孝子のことをそう呼んでは嘲笑っていた。
「ご体調がすぐれぬのでしょうか?」
「お元気でいらっしゃいますよ。中の丸様は本丸にお越しになりたくないだけにございますれば」
どこか、蔑んだような声音。それが胸に痛い。志乃はしばし逡巡し、しかししっかりと顔を上げる。
「中の丸に、案内してはいただけませんか?」
「お会いになる必要はないかと」
「いえ、ご挨拶をする礼だけは、いたしたく思います」
先ほどまでのオドオドした瞳ではなく、何かを決意したような瞳。その瞳に反対することができず、初瀬は渋々「こちらにございます」と案内する。
中の丸に近づくにつれ、奥女中の姿がどんどんと少なくなっていく。それに内心眉をひそめながらも志乃は歩いた。しばらくすると人の気配がしてくる。かすかに笑い声も聞こえて、奥の部屋に孝子がいることが察せられた。
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