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「ご無事に上様のご側室となられましたよし、お喜び申し上げます」
宗矩の口上はすでに娘に対するそれではない。宗矩は志乃が十兵衛に気づいたことを知っているはず。ならば無用な芝居は必要ない。
「父上、何をお考えなのか、志乃にお教えいただけませぬか? 何も知らずにいるのは、恐ろしいのです」
もう志乃に残された道など数えるほどしかない。宗矩も今になって隠すつもりはないのか、姿勢を正して志乃の瞳をまっすぐに見つめた。
「上様にお心をお授けすること。その為だけに志乃、お前を育ててきた」
「ッッ――!!」
父は今、何と言った?
「ご幼少のころより愛情に飢えてお育ちになった上様に、人としての心をお持たせするため、生まれたばかりのお前を引き合わせた。その頃より今に至るまで、上様が大切と思うのは志乃一人。上様は志乃のことであれば笑いもなされば泣くこともなさる。幸せを願い、失うことに恐怖される」
思い出だすのは、昨夜志乃を抱いたその、震える腕。志乃を失うことが恐ろしいと、恐れるものなど何もない天下の将軍がそう告げた。
「じゃが、志乃に心は開かれても、その他の女子には心開かれることはない。上様がお一人でも女子をご側室にし、お子をもうけられれば何も問題はなかったのじゃが、そうはならなかった」
誰も家光は抱こうとしなかった。それどころか、志乃が来る日以外は大奥に寄り付こうともしなかった。そしてしびれを切らした春日局が宗矩に話をして、此度の一計を企てたのだ。
「上様は何もご存じでない。春日局様はお世継ぎを急いでおられるが、子は授かりものゆえお前にそこまでは求めぬ。もちろん、お前が身ごもればそれに越したことはないが。じゃが、儂がお前を大奥に送ったは上様のお心をお育てするため」
そう言って宗矩は一振りの刀を志乃に差し出した。志乃が愛用し、十兵衛に怪我を負わされてからどこかに隠されていた、臙脂の柄巻きが巻かれた愛刀。
「これをお前に返そう。奥に入ろうと、ご側室になろうと、お前に求められるものは変わりない。上様のお心をお育てし、人に関心を持たれるようにすること。これまで通り、上様の御為に生きよ」
その為だけに生まれた時から育ててきた。そうはっきりと、一縷の望みに縋る暇もなく宗矩は言い切った。
「父上……、父上にとって志乃は――……」
娘ではなく、ただの――――。
「……いえ、なんでもございません」
聞きたいことがあった。だが、それ以上を言葉にする勇気が、どうしても志乃にはない。それを問うて何になるだろう。返ってくる答えが望むものでなければ、傷つくだけ。
慣れた愛刀を胸に抱く。この刀はこれほどに重かっただろうか。
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