■1 マドリッド

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■1 マドリッド

【2018年】  達哉はスーツのジャケットを脱いで椅子の背にひっかけると、冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに腰掛けた。五月末のスペインの夜は涼しくて、昨日までいた砂漠地帯がうそのようだった。達哉は靴を脱ぎ、そこからバラバラと黄色い砂が落ちるのを見た。思い出したくもないので、その砂から目をそらす。  コーヒーテーブルに足を乗せ、じっとテレビ画面を見た。ピンクの髪のヒロインが敵に立ち向かっている。そばには小さな妖精みたいなものが植木鉢を持っていて、そのためにヒロインは傷だらけになって戦っているらしい。達哉は眉を寄せて、そのヒロインの気は確かかといぶかった。  ソファの前には五歳の子どもが座っていて、食い入るようにテレビ画面を見ている。 「美緒、近すぎるんじゃないかな」達哉はビールを飲んで声をかけた。  くるっと美緒が振り返り、きっと達哉を睨む。 「河瀬さん、では私はこれで」  ベビーシッターが玄関で声をかけ、達哉は彼女を見た。マドリッドに留学している日本人の学生だ。 「ありがとう」と謝礼を渡しながら言うと、彼女はにこりと受け取って玄関を出て行った。  達哉はビールを飲み干し、ソファから立ち上がって、美緒を後ろから抱え、テレビから適度に離れたソファに置いた。美緒はソファから降りて、すぐ下の床に座り込む。白い猫のぬいぐるみを抱えたままだ。  達哉はキッチンに行き、鍋に入ったハッシュドビーフを見た。それには手をつけず、キッチンを通り抜けて洗面所に行った。鏡を見ながら、額のガーゼを新しいものにつけ直す。左手首の包帯も巻き直した。唇の傷は目立たなくなるほど治ってきている。  ふと気づくと、美緒が洗面所の入り口に立っていた。  達哉が彼女を見ると、美緒は猫を抱いたままじっと達哉を見た。 「ママは?」  達哉は美緒に向き直った。「ロンドンにいる」 「ロンドンに帰りたい」美緒は達哉を睨んだ。 「ママの仕事が終わったらね」 「いつ終わるの?」  達哉は少し考えた。「来週末には」 「それって何回寝てから?」 「十回ぐらい」 「ええ~?」美緒は顔を歪ませた。「遅すぎる」 「この家は嫌い?」達哉はそう言ってから、考え直し、言い直した。「俺が嫌い?」 「どっちも」と美緒が言って、達哉は苦笑いした。 「特製ハッシュドビーフは食べた?」  達哉は美緒の口の端に茶色い跡が残っているのを見て言った。  ぷいと美緒は横を向き、リビングに戻って行った。達哉は彼女について戻りながら、ジャケットのポケットで鳴っている携帯電話を取った。見慣れない番号だが、実際、見慣れない番号からかかって来ることの方が多い。「ハロー」と通話ボタンを押すと、ガチャガチャと雑音がして、人の声のようなものが聞こえ、そして爆音がして電話が切れた。  達哉は携帯をじっと見つめ、これは何かの暗号か?と考えた。
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