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01
台所でコーヒーを淹れる裕司の背後、リビングの床の上で、少年が所在なく膝を抱いている。
目にかかるほどの髪は、好んでそうしているというより、ただ切る機会がなかっただけだろうと思う。真っ直ぐな癖のない髪は女が羨みそうなそれだった。
年の頃は十七か十八か、成人しているようには見えなかった。せめて十八は過ぎていてくれたらいい、と思ったが、わざわざ確かめるつもりはなかった。
マグカップ二つに熱いコーヒーを注いで、砂糖とミルクと一緒にリビングに運ぶ。
「ほら、熱いから気を付けろよ」
そう言ってカップを少年の前に置いたが、少年は湯気の揺らぎに少し目を動かしただけで何も言わなかった。
裕司は黙って砂糖とミルクを並べ、テーブルを挟んで少年の向かいに座った。
少年は膝を抱いたまま、じっと黒い液体の表面を見るともなく見ていた。よく見ると服のサイズが体に合っていない。不格好というわけではなかったが、いかにも借り物というふうに見えた。
「……あー、何だっけ? 名前」
問いかけると、ようやく少年の目が裕司を見た。黒くて大きな瞳をしていた。
「……リョウ」
裕司は黙って頷く。返事をするだけ上等だ。どんな字を書くのか、などと訊くほど野暮ではなかった。
まして本名なのかどうかを問う気はさらさらない。
「うん……リョウか。腹減ってないか?」
リョウは首を振った。相変わらずコーヒーには手を付けようとしない。
「警戒されてんなぁ」
笑い含みに言うと、リョウは初めて眉を動かしてひどく居心地の悪そうな顔をした。嫌われたか、と思ったが、その唇が何か言いたそうに動いたので、そこから言葉が出てくるのを待った。
「…………知らない、場所だから」
「ん?」
「その……初めて来た家で、騒ぐのとか、得意じゃない……」
裕司は笑った。リョウの緊張が痛いほど伝わってきたが、それが同時におかしかった。
「別に騒がなくてもいいんだけどな」
裕司が笑っても、リョウは俯いて膝を抱くばかりだ。
「腹が減るのも喉が渇くのも、風呂に入ってさっぱりしてぇのも便所に行きてぇのも生理現象だろ。それを言うのに遠慮はいらないっていうだけだよ」
腹の中にまだおかしみが残っていて、それを落ち着けるように裕司はコーヒーをすする。
「勝手がわかれば好きにしろって話だが……うちの風呂場の場所も知らねぇだろ?」
言うと、リョウは腑に落ちない顔で裕司を見た。しかし目が合うなりまた逸らされてしまう。
「別にそんな……気を遣わなくてもいい」
愛想のない声でリョウは言った。
「気を遣ってるように見えるか?」
「……」
「俺は、まあ、お前に好かれようとか、そういう気はないよ。嫌われてても、そうだな、嫌われるだけなら仕方ねえやな。刺されるほど憎まれるのは勘弁だが」
リョウはますますわけがわからない、という顔をした。存外困惑が顔に出やすい子だと思う。
「たぶんだが、俺はお前が思ってるほどろくでなしじゃないぞ?」
「……どういう……」
「お前が多少わがまま言ったところで殴ったりしないし、飯抜きにもしないし、──レイプもしない」
信じられない、と黒い瞳が言った。裕司は笑う。
「出ていきたかったら出ていっていい。行きたいところがあるなら電車賃くらいはやるし……。……まぁ、そんなところがあったらここにはいないか」
リョウは唇を噛んだ。生傷に触れたという自覚はあったが、コーヒーのひとつも飲んでくれないようではどうしようもない。
「……出ていかなかったら、どうするの」
ようやく核心らしい言葉が出て、裕司は微笑む。
「行くところができるまで、ここで暮らすことになるな。心配しなくても金は取らないし、お前が思ってるようなこともないと思うぞ」
「俺が思ってることって?」
リョウの声音は険しかった。目許に疑心が浮いている。裕司はそれを、人を恨んだ野良犬のようだと思った。
「……家賃を体で払えとか、どこかで稼いでこいとか、そういうのかな」
リョウはいよいよ追い詰められたような顔をして、自分の膝に額をつけてしまった。
「……わけがわからないよ」
裕司は苦笑する。さぞ混乱しているのだろうと思うし、それについては不憫に思ったが、かわいそうだと同情したころでできることが増えるわけではない。
──若いってのは大変だなぁ。
自分もかつては若者だったはずなのだが、あまりに遠い昔の話なので、その頃の感情はもう生々しさを失ってしまっていた。
「お前が嫌がることも、傷つくこともする気はないよ」
「……セックスも?」
思いの外単刀直入に来たな、と思ったが、リョウの疲れた目を見て、驚きを表に出すのはやめた。
「お前が嫌じゃなかったらするよ」
「……意味がわからない……」
「普通セックスってのは嫌々やるもんじゃないんだぞ?」
「……」
「男としたことあるのか?」
「…………ないけど」
リョウは顔を背けた。伸びた髪が表情をすっかり隠してしまう。
裕司はしばらく考えて、言った。
「男がどうしても気持ち悪いってんなら、そりゃどうしようもないけどな。気持ちいいんだぞ、セックスは。抱く方も抱かれる方もな。嘘だと思うならお前が知ってるそれは紛い物だ。セックスの真似したオナニーか暴力か何かだよ。どっちにしたって俺の趣味じゃねぇ。──信じようが信じまいが、好きにすればいいが、お前が嫌じゃないなら、気持ちいいってことは教えてやる」
「……嫌だったら?」
「残念だが、飯食って風呂入って寝るだけだな」
ちゃんと客間に布団用意してやるよ、と言い添えると、リョウは困惑とも違う何とも言えない顔をした。
得体の知れないものを見た動物みたいな顔だなと思って、裕司はまた少しおかしくなる。
リビングにはしばらく沈黙が流れた。リョウはきっと内心で膨大な自問自答と逡巡をしているのだろう。そう思いながら、裕司は残り少なくなったコーヒーをちびりちびりと飲んでいた。
やがて、リョウのか細い声が沈黙を終わらせた。
「……わがまま、言ってもいいんだっけ?」
「おう……、何だ、言うだけならタダだぞ」
リョウは目を泳がせ、そして叱られた幼子のような頼りない声で言った。
「コーヒー……好きじゃない。……お茶がいい」
裕司はリョウをまじまじと見つめ、髪の間から覗いた耳が赤いのに気付いて、とうとう耐え切れなくなって声を上げて笑った。
「あは、あっはははは! そうか、そりゃ、すまなかったな。ははっ、お茶な、あるぞ。緑茶と紅茶と、まぁ、コンビニで買ってきてもいいが」
紅茶、と、蚊の鳴くような声でリョウが言ったのがまたおかしくて、くっくっと笑いながら、裕司はリョウのマグカップを取って立ち上がった。
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