春の始まり

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春の始まり

急に息苦しくなって目が覚めた。 どんよりと重い空気が部屋じゅうに充満している。 その原因はすぐに分かった。どうやら部屋のカーテンを全部閉め切っていたようだ。 そうだ、思い出した。最近寝付きが悪いから部屋を真っ暗にしたんだ。 頭上に置かれているデジタル時計を見る。 4月2日 9時13分 別に遅くもないし早くもない。いや、これが平日なら一限はもう始まっているし、二限だって行く気が起きなくて欠席する羽目になるだろうけど、今日は休日だからそんなこと考えてやる義理はない。 とりあえず窓を開けて空気を取り込もう。 そう思って起き上がろうとすると、背中に不気味な感覚が走った。ひどく濡れている。 確かに部屋を閉め切っていたとはいえ、まだ初春だ。どちらかといえば朝はまだ肌寒いくらいだし寝汗をかくのは変だ。 とりあえず早く起きてシャワーを浴びよう。 ゆっくりと起き上がり、カーテンに手をかけた。背中の感触とは対照的にひんやりとしていた。 半ばもたれかかるようにしながらカーテンを開くと、部屋に良質な日光が注がれた。 急に部屋の重みが半減したように感じた。 涙・・・ 窓を開けようと手をかけた瞬間、窓に反射した自分が泣いていることに気づいた。 一瞬の間の後、頭の奥底にから起き上がってくるものを感じた。 夢を見ていたんだ。 最近よく夢を見る。最近というよりは一年前からだし、よくというよりは毎日だ。 去年の春、大学に合格して都内で一人暮らしを始めたばかりの頃、不思議な夢を見た。 ******************************************************** ピンポーン 部屋にインターホンが鳴り響く。 特に何も考えることもなくドアを開けると、春の澄んだ空気が一気に部屋に流れ込んできた。 そこには一人の少女が立っていた。 歳は自分と同じくらいだろうか。細く繊細で、日光を艶やかに反射して少し茶色に色づいている髪は綺麗に肩の下あたりで切り揃えられていて、大きく水晶みたいに透き通った目はずっと見ていたら何かを奪われてしまいそうなほど美しかった。 「やっと会えた・・・」 ボソッと呟いた声はギリギリ聞き取れたが、もしかしたら間違っていたかもしれない。 「おはようございます。今日から隣に越してきました、〇〇です。これからよろしくお願いします」 どうやら挨拶に来たようだが、肝心の名前が聞き取れなかった。 そのあと自分がなんて言ったのかは覚えていない。 ただ、春の陽に照らされた彼女が美しかったことだけは覚えている。 それからは毎日彼女の夢を見るようになった。 夏は一緒に花火大会に行ったし、秋には一緒に遊園地にも行った。 毎日彼女の夢を見るから、もしかしたら自分は病気なのではと思って、慣れない都内から病院を探し出して駆け込んだが、別段何か問題があるわけではなかった。 彼女と過ごす日々は楽しかった。 どんどん惹かれていった。 だけど、毎回、気持ちを伝えようと思うと夢が終わってしまう。 そんなことがもうかれこれ一年の間続いている。 ただ、今日は違かった。 「今日で初めて会ってから一年だね」 彼女は微笑みながら言った。 僕の部屋のベットに横たわる君はやっぱり綺麗だった。 最近彼女の体調は日を経つに連れて悪くなっていた。 少し前までは病院に入院していたのだが、医者が、家で療養した方がいいかもしれないと言ったし、何より彼女が、家がいいな。と言ったから数日前から家に戻ってきたのだ。 部屋に桜の花びらが入り込んでくる。 今にも消えてしまいそうな彼女の手を握ると微かな力で握り返してくれた。 今にも泣きそうな顔をしてしまうと、彼女はにっこりして、 「大丈夫だよ」 と言うのだ。 好きだった。紛れもなく彼女のことを心から愛していた。 ただ、今までどうしても言葉にできなかった。 言葉にしようとすると夢が終わってしまうから。 もしかしたら今日が彼女と会える最後になるかもしれない。目の前の彼女を見て直感的にそう感じ取っていた。 今日が君に気持ちを伝える最後のチャンスかもしれないと。 でも僕にはできなかった。 夢が終わってしまうのが怖かったから。1秒でも長く一瞬でも長く君を見ていたかったから。君のそばにいたかったから。 二人の間には春の心地よい風と運ばれてきた桜の花びらが漂っている。 「ねぇ」 彼女が呟いた。 「私のこと好き?」 そう言った彼女は触れたら砕けてしまいそうなほどあまりにも儚く、そして、愛おしかった。 抑えられなかった 「大好きだよ」 それは初めて彼女に伝えられた言葉だった。 今まで一度も言えなかった言葉。 僕が一番伝えたかった言葉 ああなんで今まで言えなかったんだろう。悔しいな 涙があふれていた。 そんな僕に彼女は優しい眼差しを向けていた。 「ねぇ、ひとつお願いがあるの」 「私のこと、幸せにしてね」 今までもこれからもそのつもりだった。全てをこの子のために尽くそうと思えた 次の瞬間急に何かに引っ張られるような気がした ああ夢が終わる。 最後まで彼女は手を握りながら僕に笑いかけてくれていた。 今日見た夢を鮮明に思い出した。 だから泣いていたのか。 ふと右手を見ると微かに暖かさが残っている気がした。 どんどん夢の記憶が薄くなっていくような気がする。 ピンポーン インターホンが鳴った。こんな顔のまま出て行くわけにはいかないなと思い、顔を拭ったあと、すぐにドアを開けた。 ドアの間から暖かい陽射しが降り注ぎ、気持ちのいい四月の風が首筋をそっと撫でた。 目の前には一人の少女が立っている。 「・・・」 何かボソッと呟いたような気がした。 「おはようございます。今日から隣に越してきた・・・」 新しい春が始まる予感がした。
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