第1章 ―8― マリア王女について(1)

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第1章 ―8― マリア王女について(1)

 ジョセフが椅子に深く腰をかけた。  彼と向かい合うようにアンバー、そしてレイナも彼女の真似をし、つま先を揃えて彼女の隣の椅子に腰を下ろした。  今、アリスの城のこの部屋の中にいるのは、レイナ、ジョセフ、そしてアンバーの3人だけである。レイナの魂がこの異世界へといざなわれてから、初めて目にした2人の男女が、今再び自分の目の前にいるのだ。  ”あの時”とは違い、自分の置かれている状況をわずかではあるが理解しているレイナは、これから彼らの話をきちんと聞く気でいた。  だが、胸騒ぎを起こさせる沈黙はこの場にずっと漂っており、掌からじっとりとした汗が吹き出していた。    ジョセフはまずアンバーに向かって口を開いた。 「どうやら、このアリスの地の領主の長男は、貴族の身分を捨て、市井の者となっているようだな」 「ええ、それは間違いないようです。使用人たちは教育が行き届いているのか、口が非常に堅く、理由は分かりませんが……」  先ほどの緊張するばかりだった晩餐時に、この世界のことなど碌に分かっていないレイナが感じ取った違和感に、このジョセフが気がつかないわけなどはなく、同じ場にいなかったアンバーですら”年下の奥方の尻にしかれている領主”と”順当な後継者であるはずの長男の不在”についてを敏感に感じ取っていた。 「長男の名は確か……ダニエル・コーディ・ホワイトという名であったと記憶している。もうかれこれ7年ほど昔に、私が父とともにこの地へ赴いた時に一度だけ会ったことを覚えている。年のころは確か私より2つか3つ年下で、つややかな黒髪と透けるような白い肌をした賢げな子息であった……やはり、どこの家にも決して表には出せぬ”何か”があるものだな」  ジョセフが額を押さえて、宙を仰ぎ見た。そして、彼はその引き締まった形のいい唇より、重たげな息を吐き出した。  それは彼自身がこれから自分が話すことに、決心をつけるためであるだろう。  そして、夜空に輝いていた青き月は、いまや灰色の雲に完全に飲み込まれ、この部屋の中に差し込むその光も徐々にかげりはじめていた。  ジョセフはゆっくりとレイナに視線を向けた。レイナは膝の上の両手をギュっと握りしめた。 「……レイナ、今から我が妹・マリアについて話そう。だが、今現実にお前の魂が入っているその肉体のことでもある。最後まで落ち着いて聞いてくれ」  ゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めたレイナであったが、手足の震えはより大きくなった。 「お前ももう分かっているとは思うが、私とマリアは互いに憎みあっている。いや、単にあいつは私で遊んでいるのやもしれぬがな」  また、しばしの沈黙が訪れる。アンバーは、黙ったままジョセフを見守っていた。  そして、レイナの頭のなかでは、小さなたくさんのカードが風に遊ばれ、表を見せたり裏を見せたりを繰り返していた。その小さなカードに書かれているのは、彼女がこの世界にいざなわれてから直面したのいくつもの疑問であった。 ――私は”なぜ”この世界にやってきたの? 「星呼びの術」とは何? 首都シャノンの城で”私”を襲ってきたあの女の子は一体? 魔導士でもなんでもない私が数百キロは離れている距離を移動できたのは? 私は本当に、今私の目の前にいるジョセフ王子とアンバーさんを信用していいの? あのフランシスという名の魔導士、そして彼らとともにいたオーガストという名の青年……そもそも、マリア王女とは一体……?  レイナの脳裏は鮮やかなまでに、あのデブラの町の宿でのマリアの姿を再生しだした。  それはオーガストという名の青年が作った人形ではあったものの、魔術がかかっていたのか人間のように生き生きとした美の輝きを放っていた。傍らにいた2人の男に甘え、しなだれかかる彼女のその麗しい唇からこぼれる鈴を転がすような声は、甘く囁くように残酷な言葉を奏でていたことも。  彼女は自分と同じ人間であるはずの者の恐怖を、絶望を、そして死を、弄び喜んでいたのだ。  今、向かい合っているジョセフの瞳より、レイナが感じることができるのは、時とともに塗り重ねられていき、彼の心に沈殿していった苦悩であった。  彼の苦悩。それは主にあのマリアに起因するものであるのだろう。 「あのデブラの町の宿での一件で、予測はつくと思うが、あいつは……マリアは何というか、人間として持つべきものを持たずに生まれてきたんだ」  そういったジョセフは、何かを――それも一瞬にして、彼のその陶器のような肌の色を変えるほどのことを思い出したらしく、口元を抑えた。 「ここであいつが今までにしてきたことの全てをお前に話すつもりはない。だが、あいつが持つ残忍で淫乱な性質により、傷つけられた者は片手では足りぬほどだ。王妃、そして……お前をシャノンの城で襲ってきたあの侍女、サマンサもそうだ」  黒い布をかぶり、右半分が酷く焼けただれた少女が、憎悪と殺意をほとばしらせ、自分に向かってナイフを手に”自分”を殺そうと襲い掛かってきたことを思い出し、レイナはまたしても震えた。 「……ジョセフ王子、サマンサのことについては、私から説明させていただいてもよろしいでしょうか?」  話を続けることにためらいが見えたジョセフに、アンバーが声をかけた。 ※※※  事件が起こったのは、レイナの魂がこの世界にやってくる半年ほど前であった。  空の太陽がこのアドリアナ王国を眩しく、そして情熱的に照らしていた頃――薄手の黒衣に身をみ、陽が差し込んでくる城の廊下を歩くアンバーは、春の終わりぐらいからこの城に漂っている”何か”の気配に気づき始めていた。  夏だというのに、足元に冷たい空気がぞわっと流れ込んでくる。  時々、城内を幾人もの黒い人影がすすっと横切っていく。明け方に笑い声のような悲鳴が聞こえることがあり、侍女たちが非常に怖がっていた。  アンバー自身も就寝中、自分を覗き込む大きな黒い影の気配を感じたことが幾度もあった。  アンバーだけではない。他の魔導士たち、彼女の父親やカールやダリオなども、この”何か”の気配に気づいていた。  この城に集められているのは、いずれも生まれ持った力の高い魔導士揃いであるが、その正体はまだつかめず皆に焦りが走っていた。  不気味で残酷で、この城に災いしかもたらさない、いやもたらそうとしている”誰か”がいるのだということに。  その時、アンバーは廊下の向こうより、目に見える災いであるこの王国の王女――マリアが歩いてくるのに気づいた。そのマリア王女を、黒い靄がすうっと包み込んだように見え、アンバーは思わず目を凝らしてしまった。  アンバーとマリアの目が合う。  礼儀としてアンバーは廊下の隅に寄り、膝を落とし、マリアが通り過ぎるのをその場で待った。  向こうから歩いてくるマリアは、いつになく上機嫌のようであった。  金色の髪は夏の風にきらめき波打って、若木色のドレスから剥き出しとなっているほっそりとしたその腕は日に何年も陽に当たっていないかのように白く透き通っていた。その彼女の頬はピンク色に染まり、唇の口角は上がっていた。  マリア王女には何か嬉しいことがあった。  いや、これから何か”彼女にとって”嬉しいことが起きるのか? それに先ほど見えたあの靄は自分の錯覚なのか? と、彼女を問いただしたい衝動が湧き上がってきたアンバーであったが、相手はこの王国の第一王女だ。そのうえ、マリアは日頃より自分を嫌っている。例え問うたとしても、またいつものようにまともに取り合ってもらえないだろうと。  だが、この日は珍しくマリアの方から、アンバーに声をかけてきたのだ。 「あら、お久しぶりですこと」  わざと恭しい言葉で、自分に微笑みかけてきたマリアのその女神のごとき美しさに、アンバーは息を呑んでしまい言葉が出てこなかった。ジョセフと同じく、アンバーはマリアを物心つく頃から知っていた。だが、彼女のその美しさには今だに慣れることができなかった。 「……こ、これは恐れ入ります」  深々とお辞儀をしたアンバーは同時に思う。  なぜ、神はこれほどまで美しい人に悪魔の心を与えたのか? いや、もしかしたら神が精巧に美を作り上げた人間をこの世に送り出そうとしているその隙をついて、残虐な悪魔の魂が入り込んだのかもしれない、と。  が、ふとアンバーはマリアの手に握られている物に気づく。  液体の入った小瓶。その液体は血のような生臭い色をしていた。 「マリア王女……それは、何でございますか?」  アンバーからのこの質問を予測していたかのように、マリアはニッと笑った。そして、楽しそうに言う。 「さる大切な方より、いただいた物よ」  ”大切な方”とは一体誰か? アンバーはここ数か月の間、マリアが誘惑した、または彼女の美しさに魅せられ近づいてきた数人の男の顔を思い浮かべる。その中で特に最近親しかったと思われるのは―― 「まさか、あの人形職人から……」 「オーガストのこと? 彼は人形は作ることはできても、”こんなもの”は作れやしないわ」  マリアは小瓶を高く掲げた。日の光に照らされた赤い液体は、一層妖しくねっとりと小瓶のなかで揺れた。 「……危険な物であるといけません。私がお調べいたしますから、お渡しくださいませ」  スッと手を差し出したアンバーに、マリアはフフッと笑いを浮かべて首を横に振った。 「嫌よ。あなたには関係のないことだわ。それより、自分のことを考えたらどうなの?」 「どういうことでございますか?」 「お兄様のことよ。いつまで、自分の気持ちを押さえておくつもり? 数年もしないうちに、お兄様は妻を娶るわ。その時、あなたは平気でいられるのかしら?」 「私は、この王国に仕える魔導士です。ジョセフ王子は私の主君でございます。それ以上のお気持ちはございません」  頬がわずかに引き攣るのを感じたが、アンバーは極めて冷静に受け答えをした。 「……そう、プラトニックな関係のままでいたいってこと? それはそうよね。そうすれば、自分が傷つかなくてすむものね。心のなかではどう思おうと自由だもの……例え、毎夜、あなたがお兄様を思って、その脚の間を濡らしていたとしてもね」 「マリア王女!」  一国の王女とも思えぬ、その下品な物言いにアンバーはつい声を荒げてしまっていた。 「アンバー、私はいずれこの国の最高位となる女よ。立場をわきまえなさいな。私はあなたのことが嫌いだけど、あなたとあなたの父親は”今のところ”はまだ役に立つから、城内に置いてあげているということを忘れずにね」  美しい青い瞳をギラリと光らせてそう言ったマリアは、アンバーに一歩歩み出た。思わず、ビクリとして後ずさったアンバーの肩に、マリアはそっと手を置いた。そして―― 「な、何を!」  マリアがアンバーの乳房をギュっと掴んだのだ。  即座に自分の手を払いのけたアンバーに、マリアが嬉しそうに笑った。 「いやだ、すごい胸。いつもは黒衣に隠されて分からなかったけど、その顔に似合わず結構いやらしい体してるのね」 「おっ、お戯れはいい加減に……」 「その胸を武器にお兄様に迫ってみたらどうかしら? お兄様だって男よ。冷静さを保とうとしつつも、絶対にそそり立つはずだわ。面白いお兄様。それに、あなたの身分ではお兄様の正式な妻にはなれないけど、うまくいけば子供を授かって……ま、あなたが子供を産んだとしたら、その子供は私が目いっぱい虐めてあげようかしらとは思ってるけど」  目の前にいる女神のごとき絶世の美姫から発せられし言葉に、普段は気丈なアンバーの背筋も冷たくなっていく。  何も言葉を返すこともできずその場に立ちつくすアンバーに背を向けたマリアは、照りつける太陽に血を思わせる液体が入った小瓶をかざしながら去っていった。 「何だと、マリアが?」  政務の間に休みをとっているジョセフに、アンバーは先ほどのことを告げた。  勿論、自分がジョセフに抱いている思いや乳房を掴まれたことは伝えず、マリアがどこかの男にプレゼントされたらしい妖し気な小瓶のことのみを。 「あいつめ、一体、何を考えているんだ?! この間は目を輝かせながら、拷問の本を読んでいたし、あのデメトラの町での一件といい、なんだってあんな者が我が家系に生まれ……」  ジョセフは苛立たし気に書類が積み重なっている机を叩いた。その反動で、数枚の紙が床へと飛んでいった。  それらを拾い、机の上に戻したアンバーは続ける。 「そのうえ、私たち魔導士たち一同、この城内に漂う不気味な何かを感じています。確かな確証もないけど、何かを引き起こそうとしているような……その折にマリア王女があのような物を持っていることは、関係がないとは思えないのです」 「分かった。その小瓶は私がマリアから取り上げよう。それができるのは、私か父上しかできないからな。母上はあの通りだし……」  ジョセフは溜息をついた。彼の顔色はさえず、目の下にはわずかな隈までできていた。 「ジョセフ王子、お疲れなのでは……少しお休みになれた方が……」  アンバーのその言葉にジョセフは首を振った。その仕草が、先ほど自分に向かって首を横に振ったマリアとそっくりで、アンバーは彼らに流れている血というものを感じずにはいられなかった。 「いや、陽が高く昇っているこの時間、国民たちは必死で働いているのだ。それを王子である私が、横になって眠ることなど……」 「でも……」  体は大切でございますよ、体をなくしては何もできますまい、毎日国民のことを思っているあなた様がしばしの間、休んだとしても不満に思う者など――と、アンバーは口まで出かかっていた言葉を全て飲み込んだ。 「私は今は単に寝不足なだけだ。このところ、おかしな夢を見るがゆえに」 「おかしな夢でございますか?」 「そうだ。その夢の中の私はいつものように床についている。そこに扉を開けて現れる者がいるのだ。そいつは……全身真っ黒焦げで白い骨がところどころ剥き出しになっており……完全に死者としか思えないそいつは、ケタケタと白い歯をむき出しにし笑いながら、寝ている私に向かって手を伸ばしてくる。私はそいつを切り殺そうと剣を抜く、だがそいつはそれよりも素早く私の腕を掴み、窓の外へと飛び出す。そして、まるで鳥のように夜空を飛び、私をどこかに連れていくのだ……」 「まあ……」  彼の話を聞いたアンバーは、自分がその夢を見たわけでもないが背筋に冷たいものが走った。そして、それは何らかの予知夢ではないかとも思い始めた。  ジョセフ王子に迫りくる醜悪な死体。そいつは、ジョセフ王子を「捉え」て、どこかに「連れて」行く。それはまさか、何か悪しき者からの迎えであり、彼を二度と戻っては来れぬ死者の国へと連れていくのでは――  が、その時だった。  部屋の外より突如、断末魔が響いてきたのだ。  その断末魔は女の声であった。  そして、一度聞こえた断末魔の後、さらに絶叫は続いている。声の主は叫び続けているのだ。  部屋を飛び出し、駆け付けたジョセフとアンバーが見たものは――  廊下で瞳を輝かせ、恍惚とした表情を浮かべて立っているマリアと、その彼女の足元で顔を押さえ、床でのたうちまわっている侍女――サマンサ・アンジェラ・ベルであった。  彼女たちの傍らでは、サマンサと揃いの服に身を包んだ2人の侍女が、顔面蒼白で突っ立っていた。侍女の1人が手にしていたシーツがバサリと床に落ちた。 「何があった!?」  ジョセフの怒声とも思われるその声に、侍女たちは一斉に身を飛びあがらせた。 「わ、わ、私たちは何も……」 「マリア王女がいきなり、そのビンの中身を……」  アンバーが床でのたうち回り、叫び続けているサマンサの元に駆け寄り、彼女を起こした。 「!!!」  その凄惨さに、アンバーですら思わず顔をそむけそうになった。  サマンサの顔の右半分は、赤黒く焼けただれていた。彼女の長く濃い睫毛に縁どられていたはずの右の瞳は、いまや白っぽい眼球であったものに変わっていた。  酷い火傷。  ジュクジュクと肌を焼き続ける痛みとショックのためか、サマンサは獣のような叫び声をあげ、残っている右の瞳は白目を剥き、アンバーの腕のなかに倒れ込んだ。アンバーの黒衣にサマンサの火傷から吹き出ている体液が滴り落ちた。 「まあ、なんて声を出すの。そんなに痛くて苦しかったの?」  マリアのその声に、突っ立っている2人の侍女がさらに身を飛びあがらせた。彼女の声だけを聞いたら、この上なく優しく心地良い声であっただろう。  以前、恍惚とした表情を浮かべ、マリアは気を失ったサマンサを見下ろして微笑んでいた。 ――悪魔。  今、自分の目の前に立っているこの者は、天使の姿をした悪魔なのだ。  だが、今は一刻も早くサマンサの手当をしなければならない。顔面蒼白で唇を震わせている侍女2人に「医師を呼んできてください! そして清潔な布と冷たい水も!」とアンバーは声を張りあげた。侍女たちが廊下を逃げるように走っていく―― 「マリア!!!」  ジョセフがマリアの両肩を掴み、壁へとドンっと押し付けた。  まだ3分の1ほど中身が残っていた小瓶はマリアの手より滑り、床で粉々に砕け散った。その飛沫がマリアのドレスの裾とジョセフの靴にわずかにかかり、各々を焦がした。けれども、ジョセフはマリアの肩を掴む手をゆるめなかった。 「痛いわ。お兄様、そんなに強く掴まれると痣になってしまいますわ」 「……なんだって、こんなことを……!!」 「さる方からの贈り物を試させていただいただけですわ。だって、そこそこの顔の者に試さないと、例えばあの侍女2人のようなブスに試しても面白くないじゃありませんか?」 「自分が何をしたか、分かっているのか!!! そんなに試したかったのなら、自分の顔で試せ!!」 「何を怒り狂っていらっしゃるの? たかが、侍女じゃありませんこと。私たちが消費して、使うために存在している者たちですわ。私たちなどとは違って、代わりなどいくらでもいるじゃありませんか」 「貴様!」  ジョセフはマリアの肩を掴んだまま、再度、壁に叩きつけた。マリアの頭部が壁に打ち付けられたゴンっという音がアンバーにも聞こえた。  痛みに顔をしかめたマリアであったが、すぐにジョセフを悠然と見返し続けた。 「それにサマンサったら、せいぜい野に咲く花程度に可愛らしい分際で、お兄様に色目を使っていましたもの。妻になど到底なることなどできない身分のくせに、あわよくばご寵愛をといったところだったかしら。政務に集中したいお兄様には差しさわりがあったと思いますし、私に感謝していただかなければ。そして……どこかの誰かさんも」  サマンサを腕に抱き、これは一体何の魔術であるのかと、火傷の状態を見ていたアンバーであったが、マリアの「どこかの誰かさん」は自分を指しているのだと分かった。  駆け付けた医師たちにつきそい、運ばれるサマンサに寄り添うアンバーが振り返った時、ジョセフとマリアは先ほどと同じ体勢で睨みあっていた。  離れたところにいるため、彼らの表情は見えなかったが、ジョセフに壁に押し付けられたマリアの口元には、まだあの残酷な微笑みが浮かんでいるに違いなかった。 ※※※  レイナの隣にいる、アンバーの茶色の瞳に、この部屋に灯されている蝋燭の炎が映っていた。呼吸を整えるように、軽く息を吐いたアンバーが続ける。 「その後……私たち魔導士はサマンサの治療を試みました。けれども、サマンサがかけられたあの液体はやはり何か魔術の要素が入った特殊なものであるらしく、半年以上たった今も、火傷をした直後の状態のままなのです。今も彼女の肌をジュクジュクと焦がし続け……私たち魔導士が作成した魔法薬により、彼女の体の痛みは少しは和らがせることができました。ですが……彼女の精神は耐えることができなくなり、奇声をあげたりするようになって、城の一室で療養させていたのです。その部屋には鍵をかけ、事情を知る者以外は近寄らせないようにしていました。ですが……サマンサはあの晩、マリア王女だと思い込んで、あなたを襲った」  あの少女――サマンサのその憎悪と殺意は、レイナではなくマリアに向けてのものであったのだ。  ジョセフが拳を握りしめて、レイナに向き直った。 「そのうえ、あいつは……人を直接殺したこともある。”その1人”が私の弟か妹になるはずだった者だ」  ジョセフはまたしても口元を手で覆った。 「それが起こったのはまだ私自身9つの時だった。母上が……つまりはこの王国の王妃が第3子を懐妊した。国中が歓喜につつまれ、私自身も誕生をとても楽しみにしていた。だが、あいつはそれが気に入らなかっただろう。日に日に大きくなってくるお腹を優しく撫でる母上を見ていると、例え自分の母であっても、生まれいづる幸せを壊してやりたいと……まだ、わずか5才のマリアは、母上との散歩の途中、城内にあった池に母上を落としたのだ。それが元で母上は流産した」 「そ、そんな……」  震えるレイナの胃から、先ほど食べたものがこみ上げてきはじめた。 「……侍女たちの話では、池のほとりでマリアが甘えるように母上の脚にからみつき、バランスを崩した母上だけが池に落ちたとのことだった。事故とも言える状況だ。だが、私は見たんだ。母上が池に落ち、城内がパニック状態になっている時、マリアが『もう2人もいるんだから、いいじゃない』と呟いて、ほくそえんでいたことを。そして何より、当の母上自身が自分の脚に絡みついてきたときのマリアのあの瞳には明らかに殺意が宿っていたと、父上に話していた」  レイナの全身の毛穴がぶあっと開き、先ほどよりもさらに酷い嘔吐感が込み上げてくる。 「わずか5才の子供がそんなことをするわけがない、と普通の人間なら思うだろう。だが、それからのマリアの成長を見ていると、その考えが間違っていたことがはっきりと分かったはずだ。見かけは美しく、教養だって身に着けている。だが、あの皮を一枚はぎとれば……誰よりも美しい姿をしていても、あいつの心の中にはその美しさなんて微塵もない。ただ、残忍な狂気があるだけだ。父上が専用の教師をつけて、あいつの心を矯正しようとしたこともある。けれども、あいつの中には人間としてあるべきものが最初からないんだ。あいつは間違えてこの世に生まれてきた存在なんだ」  ジョセフの言葉が終わったとほぼ同時に、ついにレイナは口元を押さえて立ち上がった。  このままではジョセフ王子の前で吐いてしまう、それは無礼にも程がある、と。  察したらしいアンバーも慌てて立ち上がり、レイナの背中をさすった。そして、「ジョセフ王子、しばし失礼します」とレイナを部屋の外へと連れていった。  アンバーに連れられて、しかるべきところで、レイナは胃の中身を吐き出し続けていた。彼女の目じりに滲んでいた涙は、大粒のそれになって溢れていった。 ――私の魂は今、人を傷つけ、しかも人を殺した人の中にいるんだ! まるで童話や伝説のなかのお姫様そのものを思わせるような、この美しいマリア王女はそんな人だったんだ……!  アンバーに優しく背中をさすられ、胃の痙攣はおさまった。  けれども、レイナのいるこの肉体は――マリアが傷つけ苦しめた人々の恨み、憎しみ、そして何よりも血なまぐさささに包まれ、気持ちが悪かった。  震える脚でよろよろと、レイナはアンバーとともに元の部屋に戻った。  ジョセフは先ほどと同じ椅子に座ったまま、灰色の暗雲に飲み込まれ、青い月が隠れた夜空を窓より見ていたようであった。  おずおずと元の椅子に座ったレイナの顔をアンバーが覗き込んだ。  レイナはゴクリと唾を飲み込み、アンバーを、そしてジョセフを見る。 ――私の精神も限界がくるかもしれない。でも、ちゃんと話を聞かなきゃ。あの日、私がこのアドリアナ王国にいざなわれることになった時のことも。それに、これから迫りくる新月の晩の魔導士フランシスとの決着のためにも……! 「……話を続けてください。最後まできちんと話を聞きます」  レイナのその言葉を聞いたジョセフは、深く頷き、再びその唇を開いた。
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