第1章 ―1― レイナ、その肉体の死

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第1章 ―1― レイナ、その肉体の死

 春。4月。桜たちが、朝日の光を眩しいほど受けて咲き誇っていた。  一筋のやわらかな風がその淡い桜の花びらを、河瀬レイナの足元へと運んできた。 ――サクラチル……  レイナのまだ履きなれていないローファーにそれは踏みつぶされ、腐った果実のような色にその姿を変えた。  桜の花びらにさえ八つ当たりをしてしまうレイナの横を、レイナと同じく真新しい制服に身を包んだ新入生の少女たちが戯れあいながら追い越していった。そのうちの1人の少女の鞄がレイナの右腕に触れたため、レイナはわずかによろけてしまったが、彼女たちがレイナに気づいて振り返ることはなかった。  私はまるで”ここ”にいない人間みたいだ、とレイナは思う。 ――そうだ、”本当の私”はこんなところにいるはずなんてない。あんな高校に通っているわけがない。私が本当に入学するはずだった高校は……!   「おはよう。河瀬さん」  後ろからの声とともに、レイナは軽く肩を叩かれた。振り返ったレイナの後ろに立っていたのは、クラスメイトの川野留美であった。  留美はレイナに向かって、ニッコリと微笑んでいた。レイナは、この川野留美の綺麗に手入れされた瑞々しい肌や肩までの艶やかな髪、そしてまるで星でも宿しているかのようにキラキラと輝いているその瞳に、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。いや、レイナにそのような落ち着かない気持ちを抱かせるのは、留美だけはなかった。自分とは異なり、新生活を楽しもうとしている大多数のクラスメイトたちに対し、レイナは同様の気持ちを抱かずにはいられなかったのだ。 「おはよ……」  消え入りそうなほど小さい声でしか挨拶を返せなかったレイナに、留美はその声の調子を変えることなく言葉を続けた。 「もうすぐチャイム鳴っちゃうよね。一緒に教室まで行こう!」  留美の柔らかな手が、やや強引にレイナの手をとった。留美に手を引かれながら、レイナは咲き誇る桜並木のなか、同じ制服に身をつつんだ少女たちを次々と追い越していく――  高校の正門に重々しく刻まれている「私立光海女子高等学校」という文字がだんだんと迫ってきた。それはレイナにとって、まさに自分がいるべきはずではない場所への道しるべであるかのようであった。  高校受験の失敗。レイナの15年の人生のなかで最大にして最悪の失敗。  レイナが第一志望の高校に落ちてから、約1か月たとうとする今も、あの日の記憶は生々しい痛みを持って蘇ってくる。    それは今までのレイナの人生のなかには、絶対にあってはならない日であった。  合格発表の朝、中学校指定の運動靴を履くレイナの後ろには、母と兄が立っていた。 「レイナ、いよいよだな」  大学生の兄・政明がレイナの背中に声をかけた。レイナは大好きな兄のその声にうれしくなり、満面の笑みで振り返った。 「行ってくるよ。お父さんには、仕事から帰ってきてから、私の口からちゃんと合格したって伝えるからね」  笑顔を崩さないレイナに、政明の傍らの母が心配そうに言う。 「ねえ、お母さんも一緒に見に行かなくても大丈夫?」 「大丈夫だって。親と一緒に来てる子なんて、少ないわよ。た……ぶん、合格してると思うし、私は1人でも平気よ」 「……あのね、万が一、駄目だったとしてもいいのよ。あなた、光海女子にだって受かってるんだし……」 「お母さん! 私は光海女子になんて行くわけないよ。あんなとこ、ただの滑り止めだもん。単なる保険だよ」  母の言葉に、レイナは思わず大きな声を出しそうになっていた。心の中で湧き上がってきた嫌な影が、染みのように広がっていくのも感じた。レイナは気を取り直すかのように、キュッと口角をあげ、運動靴を履いたつま先を玄関の床で軽くトンと叩いた。  そして、レイナは政明と母の顔を交互に見る。政明とレイナは、他人が見ても一目で兄妹だと分かるほどよく似ていた。 「お兄ちゃん、4月からはお兄ちゃんの後輩になります。よろしくね」 「おう。俺も母さんと一緒に家で報告待ってるからな」  政明が手を上げて、レイナを送り出した。  4月から兄が卒業した高校に自分も通うことになる。兄が過ごした学び舎で自分も3年間を過ごすことができる。レイナに再び希望に満ちた笑顔が戻って来た。  けれども――  レイナのその笑顔は、合格発表の掲示板前で粉々に砕け散った。  冬の肌寒さをまだ残している青空の下、歓声が飛び交うその掲示板前で、レイナは自分の受験番号を何度も何度も必死で探していた。 ――確かにいつもの模試ほどの手ごたえは感じなかったけど、でも私はずっと合格圏内にいたはずなのに。私が落ちるなんて、そんなことあるわけがない。だって、私はずっと頑張ってきたのに……  レイナはこの掲示板をずっと見つめ続けていたら、自分の受験番号が涙に濡れた視界のなかで浮かび上がってくるんじゃないかと、思わずにはいられなかった。けれども、目の前の掲示板にはなんの変化もなかった。  レイナの手の内の受験票はクシャクシャになり、しっかりと自分の瞳が映し出していたはずの合格者の番号すらもはや滲んで見えなくなっていった。地面にへたり込んだレイナの横を、サクラサイタ側の何人かが見て見ぬふりをしながら通り過ぎていったのが分かった。  あの人生最悪の日以来、自分を取り巻いているこの世界の全てに拒絶されたような苦々しい悲しさがレイナの心に層を重ね続けているのだ。  本来の自分がいるべきはずではないこの高校での長い一日の終わり、すなわちホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。  レイナはいそいそと帰り支度を始める。一刻も早く、”ここ”から逃げ出したかったのだ。  数人のクラスメイトがレイナの後ろの席の留美のところへと集まってきていた。  レイナは、自分がこの教室で早くも孤立し始めていることには気づいていた。以前の、中学生時代のレイナなら、やや人見知りではあるが自分から友達の輪を広げようとしていただろう。でも、今は新しい高校生活に何も興味を持つことができなかった。  数科目の教科書とノートでずっしりと重くなった鞄をレイナが肩にかけた時、後ろから「河瀬さん」と留美の声がかかった。  振り返ると、留美と彼女の周りのクラスメイトたちが一斉にレイナを見つめていた。 「な、なに?」  レイナは思わず、ぎこちない引き攣った笑みを彼女たちに返していた。 「ゴールデンウイーク、暇?」  留美の肩に手を置いている小動物を思わせるような雰囲気の女子生徒――皆に「ヒナコ」や「ヒナちゃん」と呼ばれていて、名字は確か”橋”なんとかさんだったと、レイナが記憶している女子生徒が、レイナに聞いた。 「え……っと、どうして?」 「……ゴールデンウィークにさあ、みんなで遊びに行かないかって計画があって……それで河瀬さんも、一緒にどうかなって……」  言葉を詰まらせたレイナに、ヒナコもやや言葉を詰まらせながら答える。彼女の頬もこわばり始めているのが、レイナにも分かった。  レイナは思う。  おそらくヒナコの隣でにっこりとほほ笑んでいる留美が、ヒナコに自分も誘ったらどうかと言ったに違いないと。  明るくハキハキとした性格、美少女といってもいいような清潔感に溢れた可愛らしい容姿、入学式からまだ2週間程度しかたっていないにも関わらず、このクラスの中心人物となりつつある川野留美が、なぜ自分を――それも全てを拒絶しているかのように俯いている自分をここまで気にかけてくれるのかが分からなかった。 「ごめん……まだ、分からないや。でも、考えとく……ね」 「いい返事待ってるよ」  言葉を詰まらせながら答えたレイナにヒナコではなく、留美が答えた。自分に向かって手を振った留美につられるように、彼女の周りのヒナコたちも手を振る。レイナはぎこちない笑顔のまま、手を振り返し、教室の出入り口へと向かった。 「河瀬さん、きっとまだショックが続いているんだよ」  レイナの姿が教室から消えたのを確認したかのように、留美たちの後方で一部始終を見ていた四宮京香が留美たちに声をかけた。 「ショックって?」 「もしかして、彼氏とうまく言っていないとかそういう系?」  聞き返したヒナコたちに、京香が首を横に振り答える。 「彼氏はいないと思うよ。私、あの子と同じ中学校だったんだけど、あの子って男子と仲良く話すような子じゃないし、そもそもお兄ちゃん超ラブらしいしさ」  京香はなおも続ける。その声はなぜか得意げであった。 「あの子、九石高校に落ちて、ここに入ったんだよ。合格間違いなしみたいなポジションにいたのにさあ」 「九石高校って、確かこのあたりじゃ一番の高校だっけ?」  黙って聞いていた留美が京香に問う。 「あ、そうか。留美ちゃんは、県外の中学から来たんだっけ。九石はこのあたりじゃ、一番偏差値高いよ。成績が各中学校の上澄みにいるような人たちが行く高校。確か、河瀬さんのお兄ちゃんも九石に行ってたって話聞いたことあったし。でも、ほんと人生って何があるか分からないよね。私なんか、奇跡が起きてこの光海女子に入学できたって中学の先生とかにも驚かれたのに」  さらに得意そうに腕を組んだ京香に、ヒナコが聞く。 「中学時代の河瀬さんって、今みたいに暗い……いや、大人しい感じじゃなかったの?」 「うーん、あの子、元々大人しくて目立つタイプじゃないし。私、そんなに深く話したことないんだよね。存在感があまりないっていうか……物語でいうと、積極的に好かれもしないけど、嫌われもしない脇役タイプみたいな、そん……」  突如、京香の顔がハッと凍りつき、「ヤバッ」と慌てて口元を押さえた。  前を向いた留美たちも、教室の出入り口にレイナが立っていることに気づいた。京香は口元を押さえたまま横を向き、レイナから目を逸らした。シーンとした気まずい空気が漂うなか、レイナは自分の席まで行き、机の横にかけていたお弁当入れを手にとった。 「忘れ物があっただけだから。置いとくと臭くなっちゃうし」  俯いたまま、レイナは言った。  今の言葉を一体、誰に向かって喋っているのか、レイナ自身も分からなかった。俯いたまま彼女たちに背を向けたレイナであったが、その背中で京香やヒナコたちが気まずさのため自分から目を逸らしているなか、留美だけが何かを言いたそうに口を開きかけているのが見えた気がした。  胸がズキズキと痛み出したが、レイナはそれを感じないふりをし、再び静かに出入り口へと向かった。  学校から帰ったまま、自分の部屋のベッドで膝を抱えているレイナは、真新しい制服のスカートの皺も今は気にすることができなかった。  胸の痛みはまだ続いていた。そのうえ、顔が無性に熱くほてっていた。  自分の知らないところで、自分の人生最大の失敗を話題にされていた。同じ中学校出身ではあるが、自分とそう親しいわけでもないのに得意げに話していたあの四宮京香の顔がちらつく。  でも、とレイナは唇を噛んだ。 ――自業自得かもしれない。入学当初より、川野さんたちが笑顔で話しかけてくれていたのに、いつも愛想笑いで誤魔化していたから。心を開こうとしなかったから。始まったばかりの皆の高校生活をしらけさせるような態度を私自身がとっていたから。私は自分のことだけで精いっぱいで、皆のことを考えていなかったから……  再び膝に顔をうずめたレイナであったが、部屋をノックする音に顔を上げた。 部屋の中にいるレイナの返事を待たないまま、政明が甘いパウンドケーキの匂いとともに、部屋に入ってきた。 「帰るの早かったんだな。ほら、お前も食べろよ。母さんが作ってくれたんだぞ」  政明はパウンドケーキを自分の顔の高さまで、持ち上げてレイナに見せた。母の十八番ともいえるパウンドケーキは色艶もよく、切り口から見えるドライフルーツはいつにもまして、それを美味しそうに見せていた。  だが、レイナは首を振り、膝を抱え、再び視線を落とした。それは”いらないから、1人にして”という政明への無言での返事であった。  そのレイナの様子を見た政明は、呆れたように言う。 「レイナ、そろそろ受け入れろよ。もう1か月もたつんだぞ」  膝に顔をうずめたまま、返事をしないレイナに、なおも政明は続けた。 「挫折から新たな目標を生み出すんだ。九石に受かった同級生たちよりも、ずっといい大学に行ってやるって考えろよ。高校時代の3年間っていうのは、長いようで短いぞ。そんなウジウジしている時間ももったいない、もっと楽しめって。光海女子だって偏差値高い方だし、制服可愛いし……それに、お前、中学の時みたいに文芸部に入るってのも……」  止まらぬ政明の言葉に、レイナはバッと顔を上げた。 「何よ! お兄ちゃんは、高校だって、大学だって、自分が一番行きたかったところに行くことができたじゃない! 私みたいに落ちたりしたことないじゃない! 私の気持ちなんて、絶対に分かりっこないよ!」  ただの八つ当たり――しかも自分を励ましてくれている兄に対しての酷いことを言っていると分かっているが、今日のレイナは口から溢れ出てくる言葉を止めることはできなかった。  あの日――九石高校の合格発表の日――は、まるで昨日のことのように思えた。あの日以来、時間の狂った時計を持って日々を送っているような、いや、順調に紡がれていた自分の人生という物語のなかのある1ページに一生消すことのできない汚点が刻まれた気がしていた。その汚点が刻まれる前の自分と今の自分では、目に映る風景は同じものであるのに、まるで異世界の風景を見ているかのようであった。  ボロボロと涙を流し、ついにしゃくりあげ始めたレイナを見て、政明は困ったように頭を掻いた。だが、彼はレイナをなおも励まし諭そうとした。 「おまえはまだ15才じゃないか。これからの長い人生のなかで、もっといろんなことがあると思うぞ。たった1回の高校受験の失敗ぐらいで自分が否定されたなんて思うなよ。受験に失敗しようがしまいが、おまえはおまえなんだから」 「……お兄ちゃんなんて、私よりたった4年しか長く生きていないじゃない! 何もかも分かったように説教しないでよ! もうっ! 放っておいて!!」  自分が発している言葉とはうらはらに、レイナの瞳からは先ほどまで流していた涙とは別の種類の涙が湧きあがってきた。  自分を励ましてくれている兄。兄の気持ちは頭では理解できた。だが、自分の感情は素直にそれを受け入れることができない。そんな自分に対しての嫌悪の涙が――  その時、レイナが机の上に置きっぱなしにしていた携帯が鳴った。 「出ないのか?」 「出ない」  政明の言葉にレイナは涙をぬぐい、プイっと横を向いた。素直になること――まだそれができそうになかった。  政明は鳴り続ける携帯電話を取り上げ、「な……っ!」と口を開いたレイナを横目に通話ボタンを押した。 「はい。ええと…………川野さん? 僕はレイナの兄貴です。ごめんね、ビックリさせて。今、近くにレイナがいるから、あいつに代わるね」  ほら、と顎をしゃくり、政明はレイナに携帯を差し出した。  携帯を受け取ったレイナの肩をポンと叩き、政明は静かに部屋を出て行った。  レイナがおずおずと通話口に耳を近付けると、通話口からは留美の声が聞こえてきた。  入学式から間もないうちに、留美に明るく声をかけられて、電話番号やメルアドの交換をしたことをレイナは思い出した。  留美がおずおずと遠慮がちにレイナに話を切り出し始めた。留美からのこの電話は、レイナが予想した通りの内容であった。 ――今日はごめんね。でも、皆であなたの噂話で盛り上がっていたわけじゃない。ヒナちゃんや四宮さんたちもあなたに嫌な思いをさせたんじゃないかと気にしていて、私が皆の代表として電話したの……  という内容の留美の話をレイナは相槌を打ちながら聞いていた。  ふと、会話が途切れた。  この機に電話を切る方向に持っていくこともできただろう。だが、レイナは受話器を握り直し、入学以来ずっと留美に聞きたかったことを聞こうと思った。 「あの……川野さんはどうして、こんなに私を気にかけてくれるの?」  教室の席が前後であるという理由だけではないような気がする、こんな私なんかと話していてもそんなに面白くないと思うし、川野さんと友達になりたい子なんて他にいっぱいいると思うのに、という言葉は、レイナは口には出さず、その心の中で飲み込んだが。  このレイナからの質問に、留美は電話口で一瞬の間を置いたのち、答えた。 「せっかく縁があって、同じクラスになったんだし、私は河瀬さんと仲良くなりたいと思ったの。それに、河瀬さん、入試の時に……」  電話越しに聞こえる留美の声は、何かの物音にハッとしたようだった。 「ごめん。お父さんが帰ってきた。ご飯の用意しなきゃいけないんだ。明日、学校でちゃんと話すよ」    それからしばらくの間、ベッドの上で携帯を握りしめていたレイナの鼻孔に、階下で母親の作る夕飯の匂いが届き始めてきた。  それは、留美や家族の優しさが自分の身にさらに染み込んでくる匂いにも思えた。でも、とレイナはふと思う。  留美が自分で夕飯の用意をしなければいけないと言っていたことを。 ――川野さんのお母さん、今日はお仕事なのかな。それとも、お母さんがいない……  人の家庭事情を勝手にあれこれ推測しはじめた自分に気付いたレイナは、自身を奮い立たせるようにベッドから勢いよく飛び出した。 ――私はいつもお母さんに家事とか任せっぱなしだ。たまには手伝おう。お皿並べるくらいはしなきゃ……  急いで着ていた制服をハンガーにかけ、埃を払い、動きやすい部屋着へと着替えたレイナであったが、ふと外が気になった。  妙な胸騒ぎがする。それは彼女自身の勘から発せられた知らせだった。  レイナはずっと閉め切られていた分厚いカーテンをシャッと開けた。レイナのいる2階の部屋からは、夜空に昇りはじめている満月が見えた。その冴え冴えとした白銀の光を放つ満月に、レイナは不思議な落ち着かなさを感じた。ゾワゾワとした何かが、彼女の背筋を走っていく。 ――こうして月を見るなんて、めったにないことだわ。今まで気にしたこともなかったから……だから、おかしな気持ちになっているのよね……ただの月よ。ずっと空にあって、これからも私がずっと見る……  レイナは自分で自分にそう言い聞かせ、分厚いカーテンをそっと閉めた。  翌朝、玄関にて、レイナがまだ硬さを残しているローファーに片足を入れた時、階段から政明が下りてきた。  夜型の政明は、いつもならこの時間帯はまだ寝ているはずであった。レイナと政明の目が合う。 「なんだか昨日の夜から落ち着かなくてさ。早くに目が覚めたんだよな」  政明はわざとらしく宙を見て言った。これは「仲直りしよう」という合図だ。兄妹喧嘩した時、いつも兄の方からこの合図を送ってくれていた。昨日の夕飯の席では、互いに一言も口を利かず、母が作ってくれたご飯を機械的に口に運んでいたことも思い出した。 ――お兄ちゃん、私も昨日の夜からなんだか、ゾワゾワして落ち着かないんだ。やっぱり私たち兄妹って良く似てるね。すぐには無理かもしれないけど、受験に失敗したという事実を整理して受け入れていこうと思う。川野さんをはじめとする、今の学校のクラスメイトたちに、もっと自分から歩み寄っていこうとも思うよ。勉強だって、また……  レイナは政明に伝えたい言葉を頭の中で整理しようとしたが、なかなかまとまらなかった。だが、レイナは政明に一番伝えたかった言葉だけを、口に出して政明に伝えることはできた。 「お兄ちゃん、ありがとう」 「いいって、気をつけて行けよ」 「うん、行ってきます」  レイナははにかんだ笑顔のまま、政明に手を振り、玄関のドアを開けた。台所から母の「いってらっしゃーい」という声も聞こえた。  柔らかな春風が吹きぬけた。その春風には、わずかな初夏の匂いが含まれてるようにも思えた。  季節は移り変わっていく。そして、また春はやってくる。  歩道を歩くレイナは、1年後にこの道を歩いている自分の姿を想像し始めていた。 ――2年生になったら、この制服のリボンが赤から緑になる。背も少しは伸びているといいな。そして、私は一体、何を考えながら、この道を歩いているんだろう。受験失敗の傷も少しは癒えているかな。志望大学もはっきりと決まっているかな。それに、川野さんともっと仲良しに……  新生活への希望を、今になってようやく含まらせはじめていたレイナは知らなかった。  彼女が歩く歩道のそばの車道には、車の免許をとったばかりの男子大学生が運転している車がいたことを。その男子大学生は第一志望の大学に受かり、褒美にと親にその車を買ってもらったことを。そして、今はオールになった新歓コンパの帰りであり、まだ酒が抜けきっておらず、とても安全運転ができる状態ではなかったということを。そして、今からわずか数秒後にハンドル操作を誤り、歩道のレイナに向かって、その背後からアクセル全開で突進してくることを―― 「危ない!!」  レイナの向かい側より、園児を自転車に乗せ歩いていた若い母親が目を見開き、大声を張り上げた。  とっさに振り向いたレイナの視界は自分へと向ってくる車で埋め尽くされた。  悲鳴を上げる間もなかった。  車の運転席で酩酊している運転手の姿を認めることもできなかった。  レイナの目と口は極限まで開かれ、「死」という言葉が彼女の頭の中で点滅するより前に、全てが真っ暗となった――  レイナはもう何も知ることができなかった。  車とブロック塀の間でレイナを押しつぶした暴走車の運転手である男子大学生は、自身も頭から血を流しながらも酒の抜けきっていない体のまま、ハンドルにつっぷすようにしてガクリと気を失ったことも。レイナに向かって声を張りあげたあの若い母親が青を通り越し真っ白になった顔で119番通報したことも。彼女の自転車に乗っていた園児が火がついたように真っ赤な顔で泣き続けていたことも。車とブロック塀の間に押しつぶされ、もはや原形をとどめていないレイナの遺体を見た、男子中学生が嘔吐していたことも。  駆けつけた救急隊員たちも一目でレイナの即死を悟り、救命活動すら行えなかったことも。事故現場に近くに住む1人の主婦がエプロンをつけたまま、レイナの家へと事故を知らせに走ったことを。現場に駆けつけたレイナの母は泣き叫びながら、担架で運ばれるレイナの亡骸に向かって手を伸ばし、兄・政明も泣きながら母を止めようとしたことも。連絡を受けた光海女子高校の職員室で、教師たちの会話よりこの事故を知った橋田比南子が教室へと走り、クラスメイトたちにレイナが事故にあい死亡したことを知らせたことも。花瓶の水を変えながらレイナの登校を待っていた川野留美がその知らせを聞き、彼女の手から花瓶が落ち、床で粉々に砕け散ったことも――  こうして、河瀬レイナのその肉体は、本人も理解できないまま、突然で理不尽な「死」を迎えた。  だが――  レイナのその魂だけは、時空を越えに越えた異世界へと呼び寄せられていたのだ。  とある王国の王族に絶対の忠誠を誓う、1人の女性魔導士の力によって――
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