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第1章 ―4― 本当にわずかな間の安らぎ
現在、レイナは暖かい部屋の中にいる。だが外では、この宿へと叩きつけるような吹雪の音が徐々に大きくなってはきていた。
なめらかな頬に熱い道筋を残している涙をぬぐったレイナは、ブルッと身を震わせた。
そんなレイナの様子を見た女将は、彼女を元気づけるように微笑みかけた。その女将の目元は夢見るように潤み、口元はほおっとほころんでいた。
「……お嬢様、私は食事の支度をしてきますから、あのジェニーにいろいろとお申し付けくださいませ」
もう一度、にっこりとレイナに笑いかけた女将は、部屋の入り口へと目をやった。そこには、湯気を立てている盥を手にしているジェニーがいた。
「ジェニー、お嬢様のお世話は頼んだよ」
女将はジェニーの肩をポンと叩き、大きなお尻を左右に揺らしながら、部屋を出ていった。
レイナを見たジェニーは、女将と同じくぽおっと頬を赤らめつつも、嬉しそうに駆け寄ってきて、ベッドの近くにあった椅子に腰をストンと下ろした。ジェニーの膝の上にあるのは、温かなお湯が半分まで注がれている盥と、盥の縁にかけられた清潔な色合いの布であった。
「さ、お嬢様、私がお手を清めるお手伝いをさせていただきます」
ジェニーのその言葉に、レイナはおずおずと彼女の前に両手を差し出してしまっていた。有無を言わせぬ明るい強制力なるものを彼女から感じていた。まるで、もっと私に心を開いて……というような。
冷え切っていた両手は、ジェニーの温かな手に包み込まれ、盥の中の心地よいお湯の中へと浸された。その気持ちよさにレイナは思わず、目を細めていた。チャプチャプ、という音が、吹雪の音が飛び込んでくる部屋に静かに流れていった。
レイナは一心に手を清めようとしてくれているジェニーをそっと見る。
初めて彼女に会った時はやや幼くも見えたジェニーであったが、彼女の顔立ちや体つきを改めて見てみると、元の世界の自分とそう変わらない年頃、すなわち15~17才のようにも思えてきた。
ジェニーは、お湯の中からレイナの両手をそっとすくい上げ、柔らかな布で包み込んだ。
自分の手と自分以外の人の手が触れ合っている。いや、この手は本来の自分のものでは決してないけれども、束の間の安らぎとも思える心地よさがレイナの心の中を走り抜けていった。
その走り抜けていった心地よさは、次に不安をもレイナの内に運んできた。
――あのお城の人たちは、私がいなくなったこと(逃げたこと?)に絶対に気づいているはず。あのジョセフ王子という人が持っている権力、そしてあのアンバーさんは魔導士だと言っていたわ。彼女がどんな力を使うのかは分からないけれども、もしかしたら、私がここにいることはおかしな力を操るであろう彼女にはすぐに分かってしまうかもしれない……
「あのう……ジェニーさん、『電話』って知ってますか?」
「?」
ジェニーは頬を赤らめたまま、キョトンとしている。
「……お嬢様、それは一体何なのですか? 食べ物か何かですか? 私は一度も聞いたことのない言葉です……」
「いいえ、何ていうか通信手段の1つで……」
困惑しているジェニーを見たレイナは、「ごめんなさい」と思わず彼女に小声で謝ってしまっていた。
レイナは考える。
――やっぱり、この世界は私のいた世界のように、電話やテレビ、インターネット等で情報が高スピードで行きかう世界ではないみたいだわ。でも、このマリア王女みたいにこれだけ目立つ容姿の持ち主なら、すぐに”私”がここにいるって噂が広まってしまうかもしれない……そうすると、このジェニーさんやさっきの女将さんたちも巻き添えに……
「お嬢様?」と、ジェニーが考え込んだレイナを不思議そうに見ていた。
――この世界のことなんて、何も知らないし、分からない。でも、私は日本語以外をしゃべっているつもりはないのに、どう見ても西洋人にしか見えないこの世界の人たちと、なぜだか分からないけれども言葉が通じて、スムーズに意思の疎通ができている。これは大きな幸運だわ……
レイナの両手の水気を手際よくぬぐい、彼女の左手の薬指につけられている指輪の水気までもぬかりなくそっとふき取ったジェニーは、盥を床にコトンと置き、窓の外に目をやった。
「ルークさんたちがお嬢様を運んできた後に、もう1人お客さんが見えたんです。こんな雪の日に、2人もお客様がやってくるなんて、本当に珍しいことです」
まさか、アンバーさん……! と、温められたばかりのレイナの手が早くも震え出した。
「じょっ……女性でしたか?」
「いいえ、男性です。年の頃は、ルークさんたちと同じぐらい……おそらく18才前後で、線の細い感じで、とっても大きな鞄2つをとても大切そうに抱えていて……」
ジェニーは、ポンッと手を叩いた。愛らしいぱっちりとした瞳をクリッと動かした。
「あのお客さん、絶対に職人ですよ。何かを作る仕事をしていると思います」
「……職人……ですか?」
「ええ、私は秋と冬の間だけ、この宿屋で住み込みで働いているんですけど、このデブラの町は結構人の出入りが多くて、様々な職業の人たちが立ち寄られるんです。だから、大抵の人の職業は当てることができるようになったんです」
ジェニーは得意げに胸をはるような仕草をした。レイナは思わず、彼女に控えめではあるも、笑みを返してしまっていた。
「ジェニーさん……おかしなことを聞くかもしれませんけど、王子……様たちがこの宿に立ち寄られたりなんてことは……」
「まあ、まさか。王族や貴族の方々は、アリスの町にある領主さまの見事なお城に立ち寄られますよ。庶民用のこんな宿屋には……」
「こんな宿屋で、悪かったね」
食事を持った女将が扉の向こうに立っていた。女将の登場にジェニーは肩をすくめ、唇をキュッと結んだ。女将が一歩を踏み出すとともに、パン、肉、スープの、ホカホカと湯気を立てている香ばしい匂いが部屋に満ちていく。
「それにジェニー、あんた、他のお客さんのこと、ペラペラしゃべるんじゃないの」
テーブルに静かに食事を置いた女将は、何かを思い出したように一息をついた。
「まあ、あんたの言うことは本当のことだけどね。王族や貴族たちはみんなアリスの町にあるあの見事な城へと立ち寄るもんさ。あそこの奥方様は軍人系の名家のご令嬢で、それはお綺麗な方だけど、性格は相当きついらしいね。2人の息子を産んで、そのうちの1人が自分の思い通りに育たなかったか何かで、金だけたっぷり持たせて家から追い出したんだってね。全く、自分がお腹を痛めて産んだ子を……! どんなに望んだって自分の子を手に抱くこともできない女も世の中にはいるってのに……」
女将はハッとして、口をつぐんだ。
「いけない、私ったら。喋り過ぎちゃって……ジェニーのこと言えないや……」
赤面した頬を少女のように両手で押さえた女将は、レイナに向き直った。
「お見苦しいところを失礼いたしました。なにせ、無作法なもので……さ、お嬢様、冷めないうちに、お召し上がりください」
テーブルの上の美味しそうな食事の匂い。レイナはこの世界に来てから、一度も食事らしき食事をきちんととっていなかったことを思い出し、喉がゴクリと鳴った。が、レイナは気づく。
「……私、お金も何も……持っていないんです」
食事をとりたいという生理的欲求。だが、それを満たすために支払えるものを何も持っていない。まさに身一つでここにいる。しかも、この身は自分のものではないというおまけつきだ。
青くなったレイナであったが、女将とジェニーは顔を見合わせて微笑んだ。そして、女将が言う。
「そんなそんな、世の中助け合いですよ。お代など気にせず、好きなだけお召し上がりくださいませ。お口に合わない場合は、遠慮なくおっしゃってください」
うれし涙を静かに流したレイナが食事をとっている階下の食堂は、突如舞い込んできた信じられないほど美しい少女の話で持ち切りだった。
なんて美しい人なんだ、あれほどの美しさがこの世に存在するなんて、もしや天にいた女神がうっかり地上に落ちてしまったんじゃないのか――と、宿の客たちは口ぐちに言いあい、彼女への美しさへの賛美は止むことがなかった。
食堂の一角で黙って彼らの話を聞いていたルークたちは、声を潜めていた。
「……明らかに何かヤバい訳ありだろ、あの超絶美人……俺が尿意をもよおさなかったら、どうなっていたことか……」
「そうだよね。雪が降っているなか、あんな場所に倒れていたなんて……それにまるで本当に天から落ちてきたみたいに、彼女の周りには誰かの足跡も、馬車の車輪の跡も残っていなかったし……」
「ディラン、お前よくあの間にそんなところまで見ているな……ん? トレヴァー、お前、なに押し黙っているんだ?」
ルークの声にトレヴァーはゆっくりと顔を上げた。
彼の褐色の肌の頬はこわばったままで、鳶色の凛々しい眉根を寄せていた。ルークやディランが初めて見る彼の引き攣った顔であった。そして、彼はゆっくりと口を開く。
「……あの方は絶対にマリア王女だ……さっきも話したけど、俺は以前、デメトラの町でマリア王女の姿をお見かけしたことがあるんだ。兄のジョセフ王子もそうだけど、あれだけの美貌の持ち主は、一度見たら絶対に忘れられっこない……」
ルークとディランがギョッとする。
「あの美人がマリア王女?! まさかぁ? 一国の王女が共も連れずにたった1人で、こんな辺鄙な田舎町に来るわけ……」
「俺もルークの言う通りかと……でも、彼女が着ていた物は高級そうだし、上流階級の出身には間違いない気がするけど……」
反論を唱えるルークとディランに、トレヴァーの唇がわずかに震えた。
だか、それは決して、自分の言葉を否定された怒りからの震えでないことに、ルークもディランも分かった。それは、トレヴァーの健康的な褐色の頬に、青みが差し始めていたためだ。
「どうしたんだよ?」
ルークがトレヴァーの顔を覗き込んだ。
「……思い出すと、今でもゾッとするんだが、実は……」
トレヴァーが口を開きかけた時――
彼らの頭上にビシャリと冷たいものがかけられた。
突然のことに、ルークたちが一斉に顔を上げると、彼らのすぐそばに1人の青年が空になった酒の杯を持って立っていた。
そして、青年は怒りのこもった瞳でルークたちを見下ろしていたのだ。
「てめえ! いきなり何すんだ!」
椅子を倒さんばかりに立ち上がったルークのその怒声に、食堂は水を打ったように静まり返った。
いきり立ったルークの肩を、トレヴァーが「ルーク」とグッと押さえた。
やや細面で繊細な印象の顔立ちのその青年はルークの剣幕にも微動だにせず、静かな憤怒の表情をたたえたまま、彼をじっと見返し、言った。
「あの方の全てを受け止められるのは、この世に俺にしかいない。あの方の話をお前たちなどが口にするな」
「……何、訳の分かんねえこと言ってんだよ!」
食堂の客たちは皆、固唾を飲みルークたちを見つめていた。
若さを持て余している数人の青年たちの間で起こったらしい何らかの揉め事。
彼らの誰が先にその手を出すか、そして、テーブルはひっくり返り、椅子の脚も1、2本折れるのではと、まさに一触即発の空気がビリビリと流れ、この狭い食堂を満たしていった。
だが――
ルーク、ディラン、トレヴァーの誰一人として、青年に向かって手は出さなかった。そして、彼らの頭に酒をぶっかけた青年も、フッと笑うような息を吐き、彼らに踵を返した。
青年は自分の足元の大きな鞄をさも大切そうに両手で抱え、2階へと続く階段へと向かう。
「待ちなよ」
ディランの声に、青年は振り向いた。けれども、青年はディランを見て、馬鹿にしたように片方の唇の端をあげただけであった。
「すいません、お騒がせしました」
トレヴァーに続き、ルークとディランも周りの客たちに頭を下げた。
彼ら全員とも、理由も分からないまま、冷たい飲み残しの酒をぶっかけられ、当の本人からは謝罪の言葉もない、ということで、憮然とした表情のままではあったのだが。
他の客の食事を作っている途中だった女将が、慌てて3人分の乾いた布を持ち、ルークたちに駆け寄ってきた。
「なんなんだよ、あいつ!?」
「宿の人達に迷惑はかけられないよ。やっぱり、ここはこらえよう」
ディランがルークの肩を叩いた。水滴の滴り落ちる髪をゴシゴシと布でぬぐいながら、困惑と怒りを抑えようとしていた彼らの耳に、青年が泊まっているであろう階上の部屋の扉が、静かにパタンと閉まる音が聞こえた。
彼らは不機嫌な表情のまま、窓へと視線を移した。先ほど自分たちに向かって酒をぶっかけたあの青年がこの宿を訪れた時は、外はここまで吹き荒れる吹雪などではなかった。
まだ粉雪が舞い踊っているなか、偶然に宿の外に出たルークたちが、雪の中に倒れていたあの絶世の美少女を発見した。そして、おそらくその数時間後、風の勢いが強くなり始めた頃に、全身を雪にまぶされた先ほどの青年が、大きな2つの鞄を抱えて、この宿の扉を叩いたことをルークたちは思い出した。
寒さを身を震わせ、青い唇をしていたあの青年の年の頃は、おそらく18前後だと思われた。ルークのくすんだような金髪と、ディランの栗色の髪の中間のような髪色、どちらかというと細身な体型で、線が細く儚げな印象を与えるその青年――貴族にも騎士にも魔導士にも見えず、おそらくルークたちと同じ平民であろうその青年は、”1つの鞄”を片時も離さないというように大切そうに抱えたまま食堂に下りてきて、言葉少なに1人で酒を飲んでいたことも。
窓に吹き付けてくる風と雪は時間とともに、さらに勢いを増してきている。
ゴウゴウと嵐の前触れのように、彼らにとっても休息の地であるこの宿を震わせていた。
階上のレイナも、この宿を震わせる外の吹雪の音に背筋を震わせた。
レイナが元の世界で住んでいたのは、日本のなかでそれほど雪が降り積もることが少ない地域であったため、雪慣れをしていないという理由もあったが、外で吹き荒れている風がこの木の宿を吹き飛ばしてしまうのではないかとの恐怖を感じていた。
いいえ、とレイナは首を振る。
この恐怖は、宿の外からではなく、中から自分に対して忍び寄ってきているのかもしれない、と。
再び両の瞳から涙が盛り上がりはじめたレイナであったが、ジェニーや階下にいる女将をこれ以上心配させてはいけないと、グッと涙をこらえ、両手を握りしめた。
その時――
「熱っ!」
右の掌に突如、熱が感じた。レイナは気づく。
左手の薬指に付けられた指輪の石――レイナがこのマリア王女の肉体に取り込まれた時点で、すでにこの白く長い美しい指にあった指輪の石が、熱を持ち、まるでプリズムのように透明な光を放っていた。
得体の知れない指輪。まさか何か魔導士関連の怪しい物なんじゃ――とレイナがその左手を遠ざけようとした時、ジェニーが指輪に気づいた。
「あ、それ、フェイトの石ですよね。お綺麗ですね。お嬢様によくお似合いでございますよ」
「フェイトの石?」
「ええ。私のおじいちゃ……いえ、祖父が以前、魔導士をやっていたんです。いろんなことを教えてくれました。でも、残念ながら、私は魔導士としての力を持たずに生まれた人間ですので……」
ジェニーは少しだけ、寂しそうな顔を見せた。
眼前にあるフェイトの石の輝きは徐々に弱くなっていっていく。レイナは恐る恐る、人差し指でそれにそうっと触れた。
途端――
レイナの心に、鮮明な映像が流れ込んできたのだ。
映像の時間は夜であった。どこかの部屋の中。
そこにある豪奢な寝台のシーツが、闇に咲く青い花のような光を放っていた。部屋の外から流れ込んでくる、咲き誇る花の匂いのような柔らかく湿った空気までもがレイナに伝わってきた。
映像が映し出す先に、誰かがいた。
闇の中でも光り輝く波打つ金色の髪。ほっそりとし、可憐であるも、のびやかで高貴なその佇まい。
絶世の美がそこに佇んでいた。
その美の持ち主である、マリアが微笑んでいた。この世の者とも思えない彼女のその美しさに、命すら捧げても構わないという者だってきっといるだろう。美しさはそれだけで人の心を掴んで離さぬ力となる。
マリアは微笑みを絶やさぬまま、黙って”こちら”に左手を差し出した。ドレスからこぼれた彼女の透きとおるほど白く、細い腕はなまめかしいものであった。
白く骨ばった大きな手がその華奢な左手をそうっと取った。大切な宝物を扱うかのように。
その大きな手は、マリアの左手の薬指に指輪――フェイトの石がついたレイナがまさに今、触れている指輪をはめた。手の主にマリアが見せた、闇夜に咲く白い花を思わせる、あでやかな微笑み。
そして――
次に映像は、マリアの手を掴んでいる主の姿を映し出した。
聖職者が身に着けているような純白の装束。色素の薄い長い銀色のまっすぐな髪は、腰まで伸びていた。エメラルドグリーンの澄み切った瞳と、鼻筋がすっと通った男。精巧に作られた人形のようなその男は、まるで夢を見ているかのような浮世離れした美しさを持っていた。
――あの男の人は……確か、確かお城の中で殺されていた男の人だ!
レイナの脳裏に、冷たく硬い床の上で、胸元に幾本もの剣を突き刺され、純白のその服を真紅に染めていた男の姿が、ありありと蘇ってくる。
マリアのもう一つの手が男の手を包みこんだ。
彼女たちはそれぞれの美しい瞳で見つめあい、体を寄せ合い、抱きしめあった。そして、彼女たちは熱く長い口づけを交わした。その甘い痺れは、なぜかレイナにも伝わってきた。
口づけを終えた彼女たちの唇から、透明な唾液がつたっていた。そして、彼女たちは近くの寝台へと向かった。心地よい冷たさを含んでいるそのシーツの上に、彼女たちは身を横たえ、さらに深い口づけを――
「……様、お嬢様」
ジェニーの声に、レイナは我に返った。どうやら、ずっと彼女に呼ばれていたらしい。
「……ご、ごめんなさい。何か今、変なものが……」
レイナは思わず、唇を押さえていた。先ほどの映像の中で繰り広げられていた、あの熱い口づけが生々しく蘇ってくる。頬は火照り、心臓はドキドキと脈打っているままであった。
――もしかして、マリア王女とあの男の人は、恋人同士だったのかしら? そうじゃなきゃ、”あんなこと”しようとはしないわよね……もう少しで18禁の映像を見る前に、我に返れて本当によかった……
レイナの傍らにいるジェニーは「?」という表情のまま、心配そうにレイナを見つめている。
先ほどのなまめかしくていけない映像を忘れるために、レイナはジェニーに問う。
「そういえば、誰かが私を見つけてくれたと……」
「ルークさんたちのことですか。1週間前からこの宿に泊まっているんですけど、陽気で楽しい方たちですよ」
「そうですか……後でちゃんとお礼を言わないといけないですね……あの、ジェニーさん、その……」
「?」
「えっと……この国の王子様と王女様って、一体どんな方たちなのですか?」
ドクンと脈打った心臓をレイナは押さえた。ジェニーはそんなレイナに気づかず、その愛らしい唇を開いた。
「ご王妃様がお産みになられた、ジョセフ王子とマリア王女のことでよろしいでしょうか? そうですねえ、お2人とも神々しいほど美しい方だとのお話を聞いております。特にマリア王女は、悪魔や死神だって、我を忘れて夢中になるほどの美しさをお持ちだとか……けれども、きっとお嬢様の美しさには、及びませんよ」
ジェニーはうっとりと潤んだ瞳で、”レイナ”を見つめた。レイナは先ほど、この部屋に現れた女将も、彼女と同じような表情をしていたことを思い出した。
レイナは自分の本当の体にいた時は、異性からも同性からもこのような視線を受けたことは一度もなかった。可愛いとか綺麗とか言われるポジションにはいない、本当に平凡な外見をしていたと改めて自覚した。
――ジェニーさんに、「今、あなたの目の前にいるのが、まさにそのマリア王女ですよ」と言ったら、驚くに違いないわ……でも、そんなこと言えない……今の状況を私自身がよく分かっていないのに、彼女に混乱を与えるだけだもの……
レイナのその思いなど知らぬジェニーは、ふと考え込むように視線を落とし、言葉を続けた。
「でも私、首都の方からこの宿にやってきたお客様より、おかしな噂を聞いたこともあるんです。ジョセフ王子は文武を極め、大変に怜悧な方らしいですけど、妹のマリア王女があまりにも美しいため、人目に触れさせないようにしているとか、近親相姦のような劣情を抱いているとか……」
レイナはジョセフ王子が、”自分”に向けていた、ゾッとするほど冷たい青い瞳を思い出す。
――えっ、あの王子が?! とても、そんな風には見えなかった。愛しているというよりも、むしろ……
レイナが混乱しはじめたその時であった。
ズシン! と音を立てて、この宿が大きく軋んだのだ。
「きゃっ! 雪崩かしら?!」
ジェニーが即座に窓の方へと駆け寄っていく。レイナはベッドの上で身をすくみあがらせたまま、ジェニーの胡桃色の柔らかな髪ごしに見える外の風景を見た。
黒く帳を落とされた夜空に、青い月が幾多の星に囲まれ、そこからレイナをじっと覗き込んでいるがごとく、煌々と輝いていた。
「お嬢様! 私、何があったか見てきま……」
ジェニーが言い終わらないうちに、もう一度、さらに大きく宿が軋んだ。
その衝撃で、ジェニーはよろけて床に尻餅を着き、テーブルの上の花瓶は床で粉々に砕け散った。
「ジェニーさん!」
レイナはベッドから飛び出て、ジェニーに手を差し伸べた。
ジェニーの湿って震え始めた手を取ったレイナは気づいた。
先ほどの衝撃、それは雪崩などではなく、この宿の中で起こった異変であるとのことを。なぜなら、閉ざされたこの部屋の扉の向こうで、まるで大蛇がズッズッズッと這いまわっているような音が聞こえてきたのだから――
床の上でジェニーと抱き合ったまま、レイナは全身を震わせていた。レイナの震えもジェニーに伝わり、ジェニーの震えもレイナに伝わってきた。
突如、取り込まれた異世界で、わずかな間ではあったがレイナが感じることのできた安らぎ。
だが、それももうすぐ終わりを告げようとしていた。
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