第1章 ―5― 魔導士・フランシス

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第1章 ―5― 魔導士・フランシス

 自分たちのところに迫りくる得体の知れない何かに、レイナとジェニーが抱き合いながら震えていた頃――  階下の食堂にいた宿泊客たちも、この宿の中で突如起こった異変――二度にわたりこの宿だけを襲った大きな衝撃により、パニックを起こしていた。  「なんだ、なんだ?!」と幾人もの声。テーブルの上の皿を誰かが落とし、それがパリーンと床で砕け散った音がやけに大きく響いた。  トレヴァーがバランスを崩した白髪頭の小柄の老人をその頑丈な体で支える。 「さっきの奴か? あいつ、部屋ン中で一体何やってんだよ?!」  ルークの視線は、階上の青年の部屋――先ほど自分たちに飲み残しの酒をぶっかけた青年が泊まっている部屋に注がれていた。部屋の扉は閉まっている。だが、その扉のわずかな隙間より、深紫の靄が漏れ出ていた。  いや、それは深紫の細長い触手のようであった。そして、その不気味な触手は、たった一つの部屋に向かって手を伸ばしている―― 「ルーク、先にお客さんたちを避難させよう!」  ディランの声に、ルークは腰に身に着けている短剣に手を触れ、頷いた。この短剣は単なる護身用ではあったが、以前2人は他の町で用心棒の仕事を引き受けていたこともあったのだ。 「さっきのあいつ……まさか、魔導士だったのか?!」  ルークが叫んだ。  その時であった。  バァン! と靄の源泉となっている部屋の扉が吹き飛んだのだ。  ザアアッと、階下へもその靄が雪崩のごとく流れ込んできた。階下にいた者たちは、視界と呼吸を一瞬で塞がれ、皆ゴホゴホと咳き込み始めた。  階段の一番近くにいたディランが口元を抑えながら、靄の中にいる者を見ようと目を凝らした。  そこにいたのは、3人の人影であった。硬い輪郭を持つ2人の男の影、そして柔らかな輪郭を持つ1人の女の影。  3人はユラリユラリと1つの部屋に向かっていく。  2人の男のうち、背が高い方の男が身に着けている分厚いローブを引きずる音がディランには聞こえた。 「あの部屋の中には、ジェニーが! それにお嬢様も!」  ルークの後ろにいた女将が、血の気を完全に失った真っ白な顔でその豊かな胸を押さえて絶叫せんばかりに声を張りあげた。 「女将さん! 俺とディランがジェニーたちを助けにいく! だから、先にトレヴァーと一緒に皆を避難させてくれ!」  腰を抜かしたらしい老人を抱き上げたトレヴァーが「俺もすぐに行く!」と、ルークたちに向かって頷いた。ルークたちは、もはや深紫色にベッタリと塗りつぶされたような階上を見上げ、それぞれの腰の短剣を強く握りしめた。 「……お、お嬢様」 「……ジェ、ジェニーさん……」  何かがこの部屋にやってくる。そう、とてつもなく恐ろしいものが。  ジェニーと抱き合っているこの体に、彼女の華奢の体にある少女らしいみずみずしい2つの膨らみが、押しつぶされそうなほど強く押し付けられていた。ジェニーの胡桃色の瞳の目じりには涙が滲み始めていた。  それはレイナも同じであった。自分のものでない、この世界の月のごとく、青く美しい瞳には涙が滲み始めていた。  ついに、彼女たちの眼前で閉じられていた扉、その下の僅かな隙間から黒い靄が流れ込んできたのだ。 「ヒッ!」  彼女たちは再度、かたく抱き合い後ずさった。隙間から流れ込んでくる、その魔の手から逃れるために。 ――何? 何が起ころうとしているの? まさか、これが魔術……?!  バンッ! という音とともに、眼前の扉は廊下へとはじき飛ばされてしまった。そして流れ込んできたのは、レイナたちの背筋をさらにゾクリと震わせる冷気であった。  紫の靄は、触手のようにこちらへと手を伸ばしてくる。  冷気のなか、息苦しさも感じ、レイナは思わず口元を押さえていた。  そして、靄の中に3人の人影が見えた。  男の輪郭が2人、女の輪郭が1人。次第に彼らの顔がはっきりと見えてきはじめた。  口元をハンカチのようなもので押さえたまま、硬い表情をした柔らかな髪色のレイナが知らない青年。そして、その青年よりも背が若干高く、銀色の絹糸のような真っ直ぐな髪を腰まで垂らした20代後半から30代前半とおぼしき男であった。その銀色の髪の男の顔を見たレイナは、稲妻に貫かれたように動けなくなった。  その男の顔をレイナはしっかりと覚えていた。忘れることなど絶対にできなかった。  その銀色の髪の男は、レイナがこの世界にいざなわれた時、首都シャノンの城の氷のように冷たい床の上で、幾多の剣を突き刺された胸元より真紅の泉を噴き出し、息絶えていた男であったのだから。  あの時、苦悶の表情で、息絶えていたはずの男は、今は余裕綽々といった笑みをたたえ、こちらに向かってきているのだ。 「!!!」  死んでいたはずの者が今、自分の前に再び現れたことに、驚愕したレイナであったが、彼らの後ろにいる”女”の顔がはっきりと見え始めた時、さらに大きく喉を鳴らし、傍らのジェニーに強くしがみついていた。    絶世の美少女が、真紅のドレスを身にまとい、立っていた。  そう、レイナの魂が入ったこのマリア王女と寸分変わらぬ姿形をした美少女が。脈打つ血を思わせる赤のドレス地に、きらめく星のような彼女の美しい金色の髪が波打っていた。  レイナは今度は鏡を見ているわけではない。  ”自分”と、今まさに対峙している、あの絶世の美少女は全くの別の者として、この部屋の中に存在しているのだ。 「……お嬢様が2人?」  ジェニーの震える声が、レイナの耳元で聞こえた。  そのジェニーの声を聞いた銀色の髪の男は、ニッと唇の端をあげた。そして、手で埃を払う様な仕草をした。  途端、自分とかたく抱き合っていたはずのジェニーの体が弾き飛ばされ、ダンっという衝撃音とともに、壁に強く叩きつけられた。 「ジェニーさん!!」  彼女の元へと駆け寄ったレイナの脚はガクガクと震えていた。  ジェニーの長い睫に縁どられた瞳は硬く閉じられ、床の上でぐったりとしていた。だが、彼女の口元はわずかに動き、レイナが彼女の細い手首に触れると脈もしっかりと感じ取れた。  ジェニーは生きていた。気を失っているだけであった。  レイナは、ジェニーを抱き込むような体制のまま、彼らに振り返った。  ”自分”に迫りくる3人の者たち。  硬い表情にやや焦りを浮かべている青年、彼とは対照的にこの状況を楽しんでいるような銀色の髪の男。いや、誰よりもこの状況を楽しんでいるのは、自分のいる体とすなわちマリア王女と瓜二つの外見をしている女神のように美しい少女であるようにも思えた。  人間として極限まで美しく、体温が感じさせず清潔でありながら冷たい肌質をしているその美少女は、”レイナ”を見て微笑んだ。それはゾッとするほど凄艶な美しさであった。 「やっと、見つけたわ」  涼やかで透きとおるようでいて甘いその声が、その美しいピンク色の唇より発せられた。  銀色の髪の男が少女に振り返って笑顔を見せた。 「マリア王女、いよいよ、お楽しみの時間が始まりますね」 「!!」  ぐったりしたジェニーを抱きしめたままのレイナは自分の耳を疑った。 ――マリア王女?! 今、マリア王女と言ったの?! どういうことなの? 今、私が”見ている”のが本物のマリア王女?! でも、私が今いるこの肉体こそが、マリア王女のものであるはずなのに?!  混乱し始め、後ずさろうとしたレイナを見た銀色の髪の男は、クスリと笑って言った。 「これはこれは……何が何だか分からないといったところですか。まあ、”あなた”がどこの誰だかは知りませんけど、”あなた”は単に本当のマリア王女の肉体を腐らせない役割を果たしていただけに過ぎないのですよ」  銀色の髪の男は、レイナに向かってシュッと手刀を切るような動作をした。  途端、全身がぐわんっと宙に浮き上がった。  同時に気を失ったままジェニーが、床へとドッと倒れ込んだ。 ――ジェニーさん!!  だが、ジェニーの心配をするよりも、レイナ自身に危機が迫っていた。今、目の前にいる怪しい者たちが狙っているのは、”自分”なのだ。  全身を紫色の触手に捉えられたレイナは、十字架に磔られているようなポーズで宙に固定されてしまった。つま先は床からゆうに1メートル以上は離れていた。  レイナが叫び声をあげるより先に、喉の置くまで塞ぐかのごとく口元に靄がバッとかかり、身動きどころが言葉を発することすらできなくなってしまった。  震えすら封じられたレイナの目じりには、涙が盛り上がり始めていた。 「マリア王女、ご安心くださいませ。このフランシス、あなた様の肉体には、傷一つつけませんからね。逃げようとして怪我でもされたらいけないので、固定しておこうと思いまして」  手をくゆらせるような動作をした銀色の髪の男――フランシスは本物のマリアに微笑みかけた。フランシスの夢見るがごとき美しい笑みを受けた、マリア王女はニッコリと彼に頷いた。 「しかし……首都から遠く離れたこんな寂れた町にあなた様の肉体が飛んだとは驚きました。しかし、そのフェイトの石を授けておいて本当に正解でした。その”運命の石”が肉体を守り、そして私に肉体の居場所を教えてくれた」  レイナの左手の薬指につけられていた指輪があやしくきらめき、じんわりと熱を持ち始めた。その様子を見たフランシスは、まるで蛇のごとく、その唇から赤い舌をチロリと出した。 「この私がこんな屈辱的な目に遭わされるなんて……お兄様もアンバーも本当にやってくれたわね」  マリアが髪を耳にかけた。きらめく黄金の髪が真紅のドレスの上で揺れた。 「でも、お兄様ったら、とうとう堪忍袋の尾が切れたのね。もっと耐えるかと思っていたけど……私、お兄様が青くなったり慌てふためく姿を見るの、昔から楽しくてたまらなかったのに」 「あなた様の兄上は、一国の王子としての資質やその努力は、充分すぎるほどに及第点はとっているように思いますけどね。あの冷静沈着そうな見かけによらず、どこか情に流されて甘いところがあるみたいですね。面白い方ですよね、全く」  マリアとフランシスは顔を見合わせて、クスクスと笑う。 「さあ、今からあなた様をすぐに元の温かい肉体にお戻しいたします。終わりましたら、またあなた様の兄上で遊びましょう」 「そうね、フランシス。それに”あなた”……どこの誰だかは知らないし、知る気もないけど、私の肉体を腐らせないでいてくれたことには礼を言うわ。でも、あなたの役目はもう終わりよ」  レイナの涙で曇った視界に、この世の者とも思わぬほど美しい少女の、この世の美を全て集めたかのような微笑みが映った気がした。彼女の麗しい唇からこぼれる鈴を転がすような声は、残酷な言葉を奏でている。 「ほんのわずかな間だけど、アドリアナ王国の王女であるこの美しい方のお役に立てたことを光栄に思うべきですよ。でも、ただの予備である、”あなた”はもう必要ない……」 「ねえ、フランシス。この子の魂は、一体どうなるの?」  マリアが甘えるように、フランシスの肩に手を置き、彼にしなだれかかった。その光景に彼女たちの背後で、ハンカチを口元に当て、黙って立っていた青年の頬がカアッと紅潮した。だが、マリアもフランシスも彼のそんな様子に気づくことなく、いや気づいていても知らないふりをしているのかもしれないが、そのままの体勢で会話を続ける。 「……魂の行方ですか? そうですね、あまり前例のないことだと思いますけど、あの『星呼びの術』を使って肉体にいざなった魂を強制的に追い出すとなると……その魂は冥海にも行けず、永遠にこの世界を彷徨い続けることとなるでしょうね。彷徨うその魂に気づくことができるのは、アポストルとなった魔導士ぐらいかと」 「まあ、なんて残酷なの。でも、私、そういうの大好き」  マリアは花のような笑顔で、フランシスにさらにしなだれかかった。 ――私は魂だけとなって、この知らない恐ろしい世界で永遠に彷徨い続ける!? そんなの絶対に嫌だ! お願い助けて、神様!  磔のポーズで宙に固定されたままのレイナは、首都シャノンよりこのデブラの町へと自らの意思に関わらず移動した時のような、”奇跡”が再び起きることを必死で望んだ。  冷たい脂汗を全身から吹き立たせているレイナは、神への助けを求めているはずなのに、彼女の脳裏を駆け抜けていったのは、父・母・兄、そしてなぜか、自分をこの恐ろしい世界へと呼び寄せたアンバーの顔であった。  視界は涙でくもり、その涙は頬に幾筋にもなって流れ続けている。でも、それを拭うことはできない。 ――助けて、お願い助けて!!  もうすぐ、自身の魂が肉体から追い出される恐怖に、極限まで怯えきったレイナの表情を見ていたマリアがフランシスに囁いた。 「……なんだか、自分があんなにも泣いている姿を見るのって、なんだか不思議な気持ちになるものね。でも、すっごくゾクゾクするわ。ねえ、フランシス。この子の口をきけるようにしておやりなさいな。命乞いの声を聞きたいわ」 「そうですね。最期の言葉くらいは聞いてさしあげましょうか」  フランシスがパチンと手を鳴らすと、レイナの口を塞いでいた靄がパッと消えた。肺の中に空気が流れ込んでもきた。 「たっ助けてください! お願い、殺さないでください!」  苦し気に肩を上下させながら、命乞いをするレイナのその姿に、マリアとフランシスは顔を見合わせ笑った。  彼女たちの瞳は爛々と輝いていた。それはまさに、人の心を持たぬ悪魔たちの笑みであった。   狂喜を口の端に浮かべたまま、フランシスがゆっくりとレイナに向き直った。 「あなたも災難でしたね。あの魔導士が使った『星呼びの術』は、肉体の中にいざなう魂の指定はできない。それこそ、夜空に流れる星の1つを捕まえるようなもの……まあ、人生のなかで運というものが占めるウェイトは非常に大きいですよ。あなたは残念ながら、その運に恵まれなかっただけのこと……」  その時、フランシスとマリアの後ろで立っていた青年がハンカチを口元から離し、苛立たし気にフランシスの肩をグッと掴んだ。 「フランシス! いつまでもダラダラ喋っていないで、一刻も早くマリア王女を元の肉体にお戻ししろ! お前、話が長いんだよ!」  フランシスは自分に詰め寄る青年を諭す。 「オーガスト、そう急ぐことはありません。こんな辺鄙な町に、この私に歯向かってくるような騎士や魔導士などがいる可能性は極めて低いでしょう。この宿にいた者たちも我が身可愛さに今頃、震え上がって隠れているといったところかと。遊べる時に遊ぶ余裕も、人生では大切です。今回は、マリア王女が肉体から追い出される事態となりましたが、事前にあなたにマリア王女の魂の仮住まいとするための人形を作らせておいて正解でした。あなたの人形職人としての腕前は、天才といっても過言ではないでしょう。人間、何か1つぐらいの取り柄を持って生まれるんですね」 「何か1つぐらいの取り柄って何だよ! 今のこの状況では、お前の楽しみよりもマリア王女のことを第一に……」  フランシスに向かって声を荒げた青年――オーガストにマリアがすり寄り、彼の首に、人形職人である彼が作ったその華奢な両腕を絡め、冷たい唇を彼の温かな唇へと口づけた。  唇を奪われたオーガストの頬に、突如赤みが差した。そのまま、目を閉じた彼のその表情は、まるでこの世の幸福を一心に受けたかのようであった。  彼から唇を離したマリアは、そのまま両腕を彼の背中にからめ、彼の胸に顔をうずめて言った。 「ねえ、オーガスト。あなたの忠誠心は、本当にうれしいわ。私が元の体に戻ったら、またたっぷりと愛し合いましょう」 「ああ、マリア王女。俺はあなたのためなら、何でもいたします」  オーガストがマリアをガバッと抱きしめる。抱き合う彼らの様子を見たフランシスが「マリア王女、私のことも忘れないでくださいよ」と、クスリと笑った。  「さてと……」とフランシスは向き直り、レイナに近づいてきた。    それはもう、彼の”遊び”の時間は終わったということを意味していた。  宙に浮かび上がらせたレイナを、フランシスは静かで美しい笑みをたたえ、じっと見つめている。マリアはオーガストの腕の中で、作り物であるはずの瞳を、これからフランシスが起こさんとしていることへの歓びで、爛々と輝かせ続けていた。興奮を抑えきれないのか、彼女のその美しいピンク色の唇は喘いでいるかのような動きを見せていた。  だが、マリアの腰に手を回しているオーガストの顔色は青く、頬はこわばっていた。もうじき、肉体からその魂を追い出され、永遠にこの世界を彷徨うこととなるだろうレイナと目が合うと、彼は目をパッとそらして横を向いた。  「……た……すけ……て……」  震え、かすれきった声をレイナは漏らした。 ――もう駄目だ。どれだけ、命乞いをしても、話が通じる人たちじゃない……きっと私は今度こそ……  レイナは目を閉じた。自分がどのように殺されるか、それを見なくてもすむように。  全身が心臓となってしまったかのように、ドッドッドッと脈打ち、震えていた。このまま、ショック死してしまうんじゃないかと、いや一瞬のうちにショック死した方が”まだ”幸せかと思うほどの凄まじい恐怖であった。  けれども、レイナの聴覚は正常に機能していた。暖炉でパチパチと燃えている薪、そして自分に迫りくるフランシスのコツ、という足音と床で擦れる彼の分厚いローブの音がしっかりと聞こえてくるのだから。  けれども、暖炉から発せられている音がフッと消えた。 「?」  レイナは思わず目を開いてしまった。フランシスたちも自分と同様に不思議に思ったらしく、異変が起こった暖炉に視線をやっていた。  暖炉の火はやはり消えていた。  上から雪が流れ込んできているのだ。誰かが煙突より雪を落としている。  そして、上から声が響いてきた。 ――最初は、俺が行く!  そして、ズザザザ、という音とともに、全身を煤だらけにした、くすんだような金髪に情熱的な榛色の瞳を持つ青年がロープを手に煙突を滑り降りてきたのだ。狭い暖炉から出ようともがく青年の頭上からも声が聞こえた。 ――ルーク! よけて!  今度も同じく、全身が煤だらけになった栗色の髪と瞳を持つ青年が滑り降りてきた。  今、暖炉より現れた、ルーク・ノア・ロビンソンとディラン・ニール・ハドソン。そして、現在、窓の外より救出の機会をうかがっているトレヴァー・モーリス・ガルシア。  彼らこそ、レイナが北の町で”偶然に”出会い、この世界でのレイナの人生に多大な影響を与え、やがて後世に残る英雄となる青年たちのうちの3人であった。  突然現れた、どこもかしこも汚れている2人の青年の姿に、フランシスは眉根をグッと寄せた。 「……随分と汚れたネズミ2匹ですね。何なのですか? あなたたちは?」 「たまたま、この宿に泊まっていたもんだよ! お前らこそ、一体、何なんだ?」  ルークは腰の短剣に手をかけ、部屋の中を見渡した。 「……同じ顔の美人が2人いるけど、この状況を見たら、どっちが悪モンかは一目瞭然だな」  ディランがレイナの足元で、気を失って倒れているジェニーに駆け寄り、素早く抱きかかえ「トレヴァー!」と叫んだ。  窓に大きな影がヌッと現れたかと思うと、瞬時に割れ、褐色に光る肌と鳶色の髪と瞳の青年がザッと着地した。青年――トレヴァーは、ディランよりジェニーを受け取り、割れた窓より姿を消した。  割れた窓から流れ込んでくる、外の冷気がレイナを捕らえている触手の靄を少しだけ、ゆるめさせたかのようだった。 「2匹ではなくて、3匹でしたか。さっきのはまた一段と大きなネズミですね。彼の体格では、その煙突を通ることはできなかったんでしょうね」  フランシスはパッと窓に向かって手をかざした。たちまち、全ての窓がバキッと凍りついた。トレヴァーの再侵入を防ぐために、分厚い氷に窓を覆わせたのだ。  フランシスはルークとディランに歩み寄る。そして、彼らに言い聞かせるように優しい声を出した。 「あなたたち、若者特有の妙な正義感に燃えているのかもしれませんけど、自分たちがどれだけ無謀なことをしているかお分かりですか? 見たところ、騎士でも魔導士でもないようですし……小銭かせぎに傭兵の真似事をしている平民といったところですか。それに今のこの状況は、何の事情も知らない者が首を突っ込んでくることではありませんよ。今、宙に浮かんでいるその肉体の本当の持ち主は、もともとこちらにいらっしゃるマリア王女なのです。私はただ真っ当に、本物のマリア王女の魂を、本来の肉体にお返ししようとしているだけなのですよ」  フランシスの話を聞いた、ディランとルークがギョッとする。 「マリア王女?!」 「マジでか……」  だが、彼らは短剣からその手を離すことはなかった。フランシスがフッと笑う。 「おやおや、名もなき平民は、この国で最上に高貴な身分の方を前にして、わずかに怖気づいているようですね」  フランシスは、抱き合ったままのマリアとオーガストを振り返った。 「オーガスト、マリア王女を連れて、少し下がってなさい。今から、私がこの部屋の壁や天井をこの青年たちの血で赤く塗りあげますからね。いきがって首を突っ込まなければ、天寿を全うできたはずのこの哀れな2人の青年の血をたっぷりとね。なあに、マリア王女の肉体には、傷1つつけないようにいたしますから」  静かな憤怒をたたえているフランシスの瞳がギラリと光った。オーガストがゴクリと唾を飲み込んだ。  ルークとディランは、彼に向かって、バッと身構えた。  目の前のこの不気味な魔導士に勝てる可能性は極めて低いと分かっていた。だが、彼らは退くことはできなかった。 「待って、フランシス」  マリアがオーガストの腕の中より、身を乗り出した。そして、煤だらけのまま、短剣を構えているルークとディランを、値踏みするようにじっと眺めた。 「……この2人、今は汚れているし、身分も低いみたいだけど、顔はまあまあね」 「おやおや、また、あなた様のいけない癖が出てきましたね」  フランシスは面白そうにククク、と笑った。だが、マリアの言葉を聞いオーガストが慌てて、マリアの腕を掴んだ。 「お待ちください! マリア王女! 俺がいます! 俺はあなたの望むことなら、何でもいたします。あんな馬鹿そうな奴らなんて、そのお美しい瞳に映さないでください!」 「なんだとぉ?!」  ルークがオーガストを睨みつけ、ディランも彼のその言葉にグッと眉根を寄せた。つい先刻、自分たちに向かって、いきなり飲み残しの酒を頭からぶっかけてきた青年による侮辱の言葉に。  マリアはオーガストの悲痛に満ちた懇願をさして気にする風でもなく、ルークとディランを眺めたまま、続けた。 「お兄様にも何度も邪魔されたんだけど、私のこの楽しみは止めることができないのよ。だって、とっても気持ちいいんですもの。お兄様さえ、目をつぶっていてくださったら、もっと自由に楽しめるのに」 ――そうはさせない!  突如、部屋の中に声が響いた。  今、この部屋の中にいる者、誰のものでもない声が。  レイナはこの声を覚えていた。この明瞭であるも重々しさを感じさせるこの高貴な男性の声を。  レイナの眼前にある空気が、さざ波のようにザアッと波打ったかと思うと、パアッと眩しい光の玉が現れたのだ。  一瞬にして、この部屋を満たしたその光は、分厚い氷に覆われた窓ごしにも漏れていたらしく、宿の外のどよめきと悲鳴が聞こえてきた。  その眩しい光の玉は徐々に大きく膨らんでいく。  眩しさに目を細めたレイナであったが、その光の玉の中に長身の男女2人が立っているのを見た。  このアドリアナ王国の第一王子であるジョセフ・エドワード、そして彼に絶対の忠誠を誓う魔導士・アンバー・ミーガン・オスティーン。  光の玉の中より姿を現した、彼らの手は互いに固く繋がれていた。
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