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あのとき私たちは、村はずれの森にいた。森の西側は底なし沼が点在しているため立入禁止になっており、村人はまず訪れない。秋には大粒のあけびがたわわに実る、二人の秘密の場所だった。
「四郎には、結婚したい人はいないの?」
そう聞いても、彼は穏やかに微笑むだけで答えない。
四郎は村の学校で教師の補佐をしていて、子どもたちに人気があった。そして村の因習など知らない幼い彼らの間で、四郎は私の長姉である桜子姉さんと恋仲だと噂されていた。二十四歳の彼は十七歳の姉さんとお似合いだと囃され、いつも困ったように笑っていた。
真剣な眼差しで見上げる私から、四郎は紫色のあけびを取り上げた。内側に残った果肉をすすってからそれを投げ捨てると、私の手を取り、ベタベタの果汁を舐め取ってゆく。指の一本ずつを這う彼の温かい舌を感じながら、私は聞いた。
「好きな人はいないの?」
あの頃の私は、姉さんたちの本に感化され、ロマンチックな恋物語に憧れていたのだと思う。四郎を好きだったというよりは、身分違いの恋人たちという設定に、彼と自分を当てはめていただけだった。
しかし当時の私にそんな自覚はなく、桜子姉さんより、村の他の娘たちより、菫子が好きだよという彼の答えを期待していた。
「村の子はみんな可愛いよ」
四郎は私の十指を舐め終わると口の端を上げ、静かにそう言った。
期待外れの返答にがっかりしたが、彼の立場では私に想いを告げることはできないのだろう。そう考えた私は、唾液で濡れた手を彼の腿の上につき、伸び上がってその唇に口づけをした。
拒むこともできたはずの彼がそれを受け入れたことで、自分はやはり彼の特別な存在なのだと思えた。
大丈夫よ、誰にも言わないから。私は訳知り顔で、驚いた目をしている彼に微笑んだ。
家の使用人だと思っていた四郎が父の末弟だと知ったのは、その冬のことだった。
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