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「四郎!四郎はどこにいる!」
突然の怒声に、心臓が口から飛び出すかと思った。厨房の方から誰かが四郎を呼んでいる。私は胸を押さえ、柱にもたれて息を吐いた。すると、ギシッという音と足の裏の床板が軋む感触がして、庭にいた男が縁側に上がってきた。
彼は急いでいたし、私のいた所は影になっていて気がつかれなかったけれど、粗末な着物に襷をかけたその男は、間違いなく四郎だった。
庭に取り残された桜子姉さんは、四郎が去った後もそこを動かなかった。押し殺したすすり泣きが、いつまでも夜の闇に響いていた。
「菫子!子どもがうろつく時間じゃないぞ!早く寝なさい!」
とぼとぼと廊下を歩いていた私は、家おじの二郎に見つかり叱られた。厳つい顔をした彼は、言われてみれば父によく似ていた。
「あの、二郎は……家おじたちは、お父さまの弟だって、本当なの?」
「なんだ、知らなかったのか?」
もじもじと聞いた私を、二郎は小馬鹿にした顔で見下ろした。
二郎のことは、口うるさい使用人頭だと思っていたのに。彼も私の叔父であり、次男として生まれたというだけで、結婚もできず死ぬまで家のために働く運命にあったのだ。
二郎は俯いて黙り込んだ私に早く寝ろと言い置き、忙しなく広間へと歩き去って行った。
底冷えする屋敷の廊下で、私は立ち尽くした。身体が震え、涙が零れた。家おじの境遇に同情したのではない。人の人生を斟酌できるほど、私は成熟してはいなかった。
四郎と桜子姉さんは愛し合っていた。それがひどく悲しかった。でもその悲しみの奥底には、彼らがいくら愛し合っていても、桜子姉さんが嫁いで行くのは止められない、私はこれからもここで四郎と一緒にいられるのだという暗い優越感も滲んでいたのだった。
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