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私は四郎の腕の中で、彼を見上げた。
「私が十六になったら、二人で村を出ましょう」
それは彼を村の呪縛から救う言葉のはずだった。彼は村を出さえすれば、家から解放され、好きなように生きていける。毎日下男のごとく働かされ給金も出ないような暮らしに比べれば、村の外の方が人間らしい暮らしができるはずだ。それにこの村にいる限り、彼は私と結ばれることができない。
私は四郎の胸板に押し付けた自分の鼓動を聞きながら、返事を待った。
「そんなことはできないよ」
彼はいつもの微笑を浮かべて答えた。穏やかで美しい、からっぽの笑顔で。
もしも彼に苦渋の表情が見られれば、私は慈愛を持ったかもしれない。村の外に駆け落ちしても生活していける保証はなく、私を幸せにできるか分からない。そう考えてくれた上での拒絶なら、余計に彼を愛しく思えただろう。
勘違いしていたのは私自身だったのだ。
私はようやくそれを悟った。
そして彼の身体を、力一杯突き飛ばした。
四郎はよろめき、片足でけんけんと数歩後ろに下がった。そして身体を支えようと力を込めた後ろ足がぬかるんだ地面を滑り、濁った飛沫を上げて背中から地面にめり込んだ。
藍色の着物がみるみるうちに地中に沈んでいく。驚きに見開いた彼の目が、夕空を映していた。
私は草に隠されたぬかるみの淵に立ち、なすすべもなく沼に飲み込まれて行く彼を見つめた。腰まで沈めば、大の大人でも自力で這い上がるのは不可能だ。 手を差し出しても、四郎がそれを取らないことは分かっていた。そんなことをしたら、私を巻き込んで沼の底に落ちるだけだ。
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