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「菫子」
四郎はゆっくりと沼に沈みながら、私の名を呼んだ。ゾッとするほど穏やかな声だった。
「助けを呼ぼうなんて考えるな。もうじき日が落ちるし、お前が別の沼にはまったら元も子もない。それよりも、朝まで動かずに辛抱して、明るくなってから森を出るんだ」
「四郎……」
「お前の手紙は懐に入ってる。誰にも話していないから、ここで俺と一緒だったことは内緒にするんだよ。大人になったらいい家に嫁いで、幸せになれ」
若い娘が夕暮れの森で家おじと二人きりでいたと噂になれば、いずれ来る縁談にも影響が出るかもしれない。それを心配してくれた四郎の最期の気遣いに、胸が熱くなった。
「四郎、四郎……っ!」
私は泣きながら彼の名前を呼んだ。助けることも、一緒に行くと飛び込むこともできず、ただ震えて泣いた。
「菫子」
いよいよ顎までが埋まり、万に一つの助かる可能性もない段になってから、四郎は私に言った。
「俺はみっともなく踠くかもしれない。お前に見られたくないから、後ろを向いていてくれ」
河童のように沼から顔だけを出した彼の最期の願いを、私は叶えられなかった。金縛りにあったように足が動かず、後ろを向くことができなかったのだ。
「ああ……」
私の目の前で、ゴボゴボと重い水音を立て、四郎は鼻の上まで沈んだ。呼吸を奪われ地面に残された彼の、血走った目を今でも忘れられない。
私は目をかたく閉じ、両手で顔を覆った。そうすることで彼の眼差しがまぶたに焼きつき、鋭敏になった耳が、四郎の最後の吐息でできたあぶくが弾ける音までを聴き取ってしまうことになるとは、考えもしなかった。
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