距離

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距離

ボクは経理部の前を通るたびに島田さんの存在を確かめていた。島田さんはパソコンに集中してボクのことなんて眼中にはない。いや、パソコンに集中していなくてもボクなんて眼中にないのは承知している。 島田さんのことを見つめ初めて新たに気付いたことがある。ある日、ボクはし忘れていた仕事を思い出し、いつもより早く出社したことがあった。いつもの癖で経理部を覗くと、島田さんが経理部のみんなの机を雑巾がけしていたのだ。どうやら、島田さんは毎日、だれよりも少し早く出社して、経理部のみんなが気持ちよく働けるように整理整頓をしているようだった。経理部の者はだれも気付いていないようだ。外見だけでなく、本当に性格がいい人なんだと改めて思った。やはり、ボクの女性を見る目だけは確かだといえる。 ある朝、いつものように会社への道を歩いていると、遠くの方に島田さんの姿があった。遅刻するような時間帯ではなかったが、島田さんは走っていた。きっと机磨きをする時間には遅刻だったのだろう。すると、まるで子供のようにズデン!と転んでしまった!!周りに人がいたもののビックリしたのか、見て見ぬふりをしてみんな島田さんのことを助けずに行ってしまった。島田さんは顔を真っ赤にしてゆっくりと立ち上がった。膝が擦りむけているようだった。ボクは島田さんに追いついてしまい、どうしていいのかパニック状態になっていた。 「あ、あ、あの、だ、だ、大丈夫ですか?」と、どもりながら、声をかけた。島田さんは涙目になりながら、ボクの腕に触れた。道の真ん中で人通りを妨げてしまうため、ボクは島田さんをガードレールに誘導した。島田さんは少し落ち着きを取り戻し、 「ありがとうございます。ああ!恥ずかしい!」と顔を真っ赤にしていた。ヒールが折れてしまったようでどうしようと言っている。ボクは島田さんに 「ちょっと待っていてください!」と、今度はどもらずにはっきりと言って、目の前にあるコンビニに行った。島田さんは膝をケガしていたので、消毒液、絆創膏、ストッキング、そして、ボンドを購入した。ハイヒールを受け取り、ボンドとかばんの中にあった輪ゴムで応急的にヒールを貼り付けた。数分だったが、島田さんがボクを見ていると思うと、急に恥ずかしくなってきた。消毒液、絆創膏、ストッキングを手渡し、ボクは一人で走っていった。遠くの方から島田さんが 「山下くーん、ありがとう!」と言っていた。 その日のお昼に島田さんが情報処理部にやってきた。まっすぐにボクの方へ向かってくる。 「山下さん、もうお昼ご飯は食べちゃいましたか。」と聞いてきた。 さっき、「山下くん」と呼ばれたと思っていたが、気のせいだったのだろう。「くん」で呼ばれるほど、親しくもないのに、距離が縮まったと少し勘違いしてしまった。やはりボクは単純な人間なのかもしれない。そういえば、島田さんは何歳なのだろう。肌がキレイで若々しい。でも、転職だと言っていたし。そんなことが頭の中で巡っていると、 「山下さん!?」とボクを呼ぶ島田さんの声が聞こえた。 「あ、あ、は、はい。」と、またどもって返事をしてしまった。 「そうですよね。もうこんな時間ですものね。じゃ、おやつにこれ、どうぞ!さっきのお礼です。」と言って、チョコレート、飴、クッキーを手渡してくれた。ボクはあまり甘いものが好きではないが、たまに疲れたときには食べたくなる。毎日、少しずつ島田さんのことを思いながら、差し入れを食べようと思う。 それからというもの、島田さんは情報処理部に来るたびに、ボクに話しかけてくれるようになった。話しかけるといっても、「おはようございます。」「お疲れ様です。」「糖分取ってますか。」というあたりさわりない挨拶なのだが、ボクは最高に幸せを感じていた。しかし、根暗なボクが会話を成立させることなどできず、返事もすぐにできない自分がいて情けない。 ある日、島田さんが情報処理部のドアを開けて、ボクを手招きした。ボクは心臓をバクバクさせて島田さんのほうへ向かった。 「山下さん、今日、お昼一緒にいかがですか。」予想もしていなかったことが起きた!心臓発作で倒れてしまうのではないかというほど、心拍数が上がっていることが自分でもわかった。島田さんにも悟られそうだと感じながらも、どうすることもできなかった。島田さんがボクの顔を覗き込むように、 「あの~・・・。」と言ってきた。かわいい。かわいすぎる。緊張しすぎて言葉が出てこない。 「いや、あの、いや、あの、いや・・・。」何が言いたいんだ!自分で自分にツッコミを入れながら、頭の中はパニックになっていた。そんなしどろもどろしている時に部長がやってきて、 「山下、話があるんだ。昼飯食べながら、話そうか。」と言ってきた。なぜ、今このタイミングで・・・。島田さんは状況を察して、一礼して去って行った。 それからというもの、社内でもあまり島田さんと顔を合わすことがなくなった。偶然、社内で出会ったときには島田さんのほうから「おはようございます。」など今までとおり声をかけてくれるが、一瞬感じていたあの距離感はもうどこにもなかった。
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