笑顔

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笑顔

ボクは自他共に認める平凡な男だ。イヤ、平凡以下だと言ってもいい。もう30歳になるというのに、彼女なんてできたことがない。冴えない男だから仕方がないと諦めている。でも、ボクだって恋はする。ただ見ているだけでボクは幸せだ。それ以上は望まない。もちろん、ストーカーのように相手を怖がらせるようなことは決してしない。これがボクの恋愛におけるモットーだ。 今、ボクが恋をしている相手は保険会社に勤める片桐さんだ。ボクが初めて片桐さんを見たのは保険の勧誘でボクの部署に来ていた時だ。トイレから戻ると、片桐さんは部長と話をしていた。話している内容はぼんやりとしか聞こえなかったが、初めて会った人に堂々と勧誘の話だけでなく世間話を交えながら笑顔で話をしていた。少し明るい色のショートヘアが笑顔をさらに明るいものにしていた。輝く笑顔を見て、ボクの心がドキッとなった。 片桐さんがボクの方を見て、ニコリと笑った。こんなことで恋に落ちてはいけない。単純すぎるぞ、山下!と自分を戒めた。しどろもどろしていると、片桐さんがボクのほうへやってきた。 「山下さん、保険入りませんか?」 なんで、ボクの名前を知っているのかと面食らったが、部長が話したのだろうと思った。ボクは人見知りするタイプで会話が上手にできない。そのうえ、こんなかわいい子から声をかけられて、すぐに返事ができるほどボクは慣れていない。 「い、いや、あ、あの・・・」返事に困っていると、片桐さんはニコッと笑い、会釈して帰ってしまった。部長が黙ってボクの肩を叩いた。まるで、しっかりしろよと言いたげだった。 ボクが片桐さんを見たのはその日が初めてだったが、以前からボクの会社に出入りしていたようだ。すでに数人が片桐さんの保険に加入し、親しげに話をしている。 「片桐です!しっかり覚えてくださいね。」という声が聞こえてきた。はい、ボクはしっかり覚えましたよ。 ある日の休日、家の近くのスーパーへ買い物に行った帰り、片桐さんらしい人を見かけた。まさか、こんなところにいるはずはないと目を疑ったが、やはりどう見ても片桐さんだ!スーツではなく、ラフな服装をしている。そんな姿を見られて、ボクはラッキーだと心が踊った。でも、自分から話しかけることもできず、物陰から少し見つめるだけだった。 別の休日でも片桐さんを見かけた。どうやら、この近くに住んでいるようだ。片桐さんのことが頭から離れなくなってしまった。会社にいる時は、保険の話をしに、片桐さんがふと現れるかもしれないと思い、休みの日には街のどこかで偶然出会えるかもしれない、もしかしたら、隣りのアパートに住んでいるのかもしれないという思いがこみ上げてきた。 あの笑顔を見るだけで幸せな気分になれる。片桐さんのことはまだよく知らない。それでも、片桐さんは性格もいいと断言できる。ボクは女性を見る目だけは確かだからだ。片桐さんはボクが今までに恋した人の中でも最高の女性だ。今までの女性のことなんて微塵も思い出さない。頭の中は片桐さんでいっぱいだ。 いつものように出会えることを期待しながら、家を出た。スーパーに着くと、ちょうど買い物をし終わった片桐さんが出てきた。急いで物陰に隠れて、ラッキーな日に感謝した。しかし、その日、片桐さんは一人ではなかった。無精ひげのイケメンが一緒だった。ボクのテンションは一気に下がってしまった。しかし、まだ日の浅い恋だったので、早めに彼氏がいることが分かってよかった。今なら自分の気持ちにブレーキを掛けられる。そう自分に言い聞かせて家路についた。
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