雨の日の

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「将来の夢は、お花屋さんか、AV女優です」  水樹のその一言に6年B組の教室はどよめき、結露した窓ガラスが震えそうなくらいだった。香水の匂いをプンプンと撒き散らす母親達は教室の後方で、手を口元に当て「ちょっと」「誰の子?」とひそひそ話をした。男の子たちの中には、「えーぶいじょゆうって何?」と大声を上げるものもいれば、分かったような顔でニヤニヤと水樹の方を見るものもいた。水樹には、彼らがなぜそんな反応をするのか分からなかった。ありさちゃんが「将来はスチュワーデスになりたいです」とか、たいとくんが「パイロットになりたいです」と言ったのと何も変わらないのに、と手に持った作文用紙から顔を上げて周囲を見回しながら不思議に思っていた。助けを求めるように先生の方を見ると、先生は困ったような顔をしてボリボリと薄い頭を掻いた。くるりと母親の方を振り返ったが、水樹の母親はストールの端っこを握りしめ、ただ顔を真っ赤にしてうつむいているだけだった。教室の左端の一番後ろに座っている里佳子ちゃんだけが、いつもと変わらない眠たそうな顔で頬杖をついて水樹を見ていた。  地元の女子大学を卒業した後、水樹は花屋の経営を始めた。その大学の北門を出て路地を入ったところのビルの1階にちょこんと入っている、開店してまだ1年経たない小さな店にやってくる客は1日に数十人程度で、水樹は暇な時間のほとんどを、母親からプレゼントされた分厚い花図鑑を眺めて過ごした。「高山で咲くお花」のページが水樹のお気に入りで、その数ページだけが使い古された受験生の単語帳の様にボロボロになっていた。  AV女優に興味を失ったわけではなかった。小学校を卒業して以降も「AV女優」という言葉の響きは水樹の心を捉えて離さなかった。あんなに楽しそうで、気持ち良さそうで、非日常な体験ができて、美しく映像に残してもらえて、出会ったこともない大勢の人たちに喜んでもらえるなんて。その仕事は水樹にとって、高い高い木になっている真っ赤なリンゴの様に魅力的で、涎が垂れそうなほど憧れてしまうものだった。しかし、あの日作文の冒頭を読み上げた時に教室の後ろでストールを握りしめていた母親のことを思い出すと、とても「アダルトビデオのモデル募集!」のウェブサイトの申し込み画面を先に進めることなどできなかった。 「えーと、これで全部ですかね」  生花業者が紫陽花を店内に搬入し終え、分厚いエプロンで両手を拭いながら言った。 「はい。今日もありがとうございます」 「いえいえ。来週になれば、もっと大ぶりな紫陽花も入りますんでね」  トラックががたんがたんと大きな音を立てて走り去るのを見送り、水樹は狭い店内を埋め尽くす花の整理を始めた。倉庫と店を行ったり来たりしていると、客が一人店の入り口に姿を現した。水樹は客の顔を見て、「あ」と声をあげた。客は色黒の顔をほころばせた。
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