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素子が死んだ。
素子が死んだ。自殺だった。
漫画みたいに、席の上に飾られた花が、憎らしくって仕方なかった。
高校最後の、夏だった。
私と素子が出会ったのは、中学一年生の時だった。たまたま同じクラスになって、たまたま席が近かった。新しい環境にドキマギしながら、思いきって、私の方から話しかけた。
「千崎っていうの。よくちーちゃんって呼ばれてる」
「じゃあ、ちーちゃんって呼んでいい?」
「全然いいよ。増谷さんは?」
「私は素子でいいよ。特にあだ名もないからさ」
こんな感じで、至って普通に、私──丸山千崎(まるやまちさき) と増谷素子(ますやもとこ) は、友達として成立した。
素子から、家庭内暴力を受けているとカミングアウトされたのが、中二の夏。セミがうるさく鳴いている、木陰になった公園のベンチで、ジュースを飲んで喋っていた。
セミのお陰で、私達の話し声は、近くを歩いたおじいちゃんにも、子供を遊ばせるお母さんにも、届かなかった。二人だけの世界になった、そんな変な感覚だった。
「お父さんが、結構怒りっぽくってさ。うち、父子家庭だし。まだ小さい妹は、お母さんに付いてっちゃった。まあ危ないから、当然だけど。あ、離婚ね。離婚」
素子には、頭に浮かんできたことを、つらつら喋るクセがあった。だからなのかその話には、当時はあまり、現実味が湧かなかった。
素子の家は、素子が小学五年生の時に崩壊した。父親のドメスティックバイオレンスに耐えかねて、母親が離婚を求め、裁判をした。離婚は無事に成立して、歳の離れた妹と、母親側に引き取られていく予定だった。
それを深く悲しんで、素子だけでも引き取らせてくれ。そう父親が言い出して、こんなことになったらしい。
「お父さん、その時は改心してたってこと?」
「多分。オレが悪かった、だから全部は奪わないでくれ。そう言われると、かわいそうに見えてくるじゃん。だから私が残ったんだけど、結局元に戻っちゃった。酒ばっか飲んで、私を叩いたり殴ったりする」
「それ、ヤバイやつ。お母さんとか警察に、助けを求めたりとかはしないの?」
「ダメだよお。そんなことしたら、お父さん余計に怒るもん。殺されちゃうかもしれないじゃん」
冗談を言うように笑った素子は、追い詰められている風には見えない。だから私も、そこまで酷いものじゃないかも、なんて期待をした。
「なんかあったら、いつでもウチにおいでよね」
「ありがとう。でも、ちゃんと帰らないといけないからさ。晩ごはん作るの、私の役割になってるの。作らないと、また殴られちゃうから」
本当は、保護とかしてもらった方が、いいかもしれない。でもそれが、お父さんの逆鱗に触れたら、素子が危ないかもしれない。ウチに避難させてやるにも、私が養えるわけではないし、もしも居場所が分かったら、ウチに何かされるかも。きっと素子も、それを分かってたんだと思う。
彼女に助けてと言われたことは、一度もなかった。
高校二年生の冬。雪の中を、下校していた時だった。
「進路決まった?」
素子からそう尋ねられ、私は首を横に振った。
「美大行きたいんだけど、親にはメッチャ反対された。そりゃそうか。美術なんか学んでも、画家になれる保証ないし」
「ええ、勿体ないよお。ちーちゃん昔から絵、上手いもん。夢があるっていいことじゃん」
「まぁ、そうなんだろうけど。どうしても行きたいんなら、自力でお金貯めろだって。何百万? 三百かな? 定職に就ける保証もないのに、そんな大金払えないって言われたよ。現実見ろってことなのかなぁ」
白い息を吐きながら、あーあ、と深いため息をする。この頃私は、自分の将来がフワフワ浮いて見えていて、頭の中が絡まっていた。やりたいことをするというのは、どうしたって金がいる。経済力のない私には、バイトしたって届かない額。
「そういう素子は、進路どうする?」
──思えばこれが、前兆だったのかもしれない。何がヒントになるかなんて、人間普通に生きていたら、気が付けない。
「私は特に決めてない。家がああだし、母さん達は遠くに引っ越してっちゃったし。頼る親戚もいないから、このまま放流してみようかと」
「放流って。先生からしつこく聞かれるでしょ、それ」
「聞かれる聞かれる。でも家事手伝いで通してる。どうせ先生達なんて、自分の学校の評判しか、きっと頭にないんだよ。そんなの向こうの勝手だし。この前も呼び出しくらったけど、無視して帰っちゃったもんね」
突っかかる素子なんて、珍しい。いつもはとても穏やかで。
「そんなことより晩ごはん、作らなきゃいけないんだからさ」
そういえば、こんなに体が細かったっけ。
死は、ちょっと道を踏み外せば、すぐそばにあるものだった。常に身近に浮いていて、自分の将来なんかより、ずっと明確で鮮明だ。だって、突き詰めていくと人生なんて、他殺か自殺か余命でしかない。進路なんて、その手前。
夏休み前が、生きた素子と会話が出来る、最後の機会になってしまった。
「ちーちゃんさ。例え離れ離れになってもさ、ずっと友達でいてよねえ」
終業式が終わり、早めの下校。もらった通知表について、うんざりと語らっていた時に、素子はそんなことを言った。
いつもの公園でジュースを飲む。私はブラブラさせていた足を、ピタッと止めた。
「何よぅ。当たり前でしょぉ?」
「だって皆、社会人になったら忙しくて、疎遠になるって言ってるよ。ちーちゃん結局、進学諦めちゃったじゃん。ヤダよお私、諦めないでよちーちゃん、ねえねえ」
「もおぉぉ駄々っ子かぁ、素子ぉ」
「美術は続けていくんでしょ? 私、ちーちゃんの絵好きい。ネットにたくさん上げてよね、そしたら誰か、すごい人の目に止まるかも」
「すごい人って、例えば?」
「なんかこう……芸術方面の偉い人?」
「何だそれぇ!」
ケタケタ笑う。セミはまだ、大合唱には届かない。
近くを通った人達は、この子が死ぬとは思わないだろう。私だって分からなかった。
「とにかく頑張れえ、ちーちゃん。私は応援してるからさ」
私は少し照れてしまって、まぁ頑張るよ、と。言葉の裏も知らないで、素っ気ない返事をしてしまった。
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