第一話 日常の中の日常

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第一話 日常の中の日常

  気分は最悪だった。昨日届くはずのネットで買った洋服はまだ届いていない。待ち合わせの時間には後四十五分程度しかなく、目的地までの移動を考えると今にでも家を飛び出したい気分だった。おれはすでに必要な荷物をすべて用意し便所も済ましてあとは洋服を待つだけの状態になっていた。この町は規律に緩い町だった。しかしその分人々の情というものも厚く、私はそんなこの町を心の底から居心地よく感じていた。しかし今回に関してはあだとなったようだ。注文したのは二週間前で、リーバイスのジーンズとジージャンそして白地のTシャツが届く予定だった。商業目的としては初の仕事だった。それを初回からこんな具合ではため息以外には何も出ない。 仕方なくおれは煙草を吸った。室内に豊かな香りが広がった。家は二階建てであり、住宅地にはなじまないイギリス風の建築だった。二年前に彼女と金を出し合って購入した。彼女はいわゆる金持ちだった。肌は雪のように白く、唇にあるほくろがものすごく魅力的な女性だ。彼女とは大学の通学路で出会った。彼女はなぜか僕の存在を知っていて向こうから明るく話しかけてくれたのだった。割合お調子者ではあったが、物事に対して真剣に考えこむそういうタイプ。彼女は大学には通っていなかったが、頭がすごく切れ、ときどきはっとされるようなことをおれに問いかけてくるのだった。おれはそういうタイプの女性と話すのは初めてで、すぐにいわゆる恋というものに落ちた。彼女はもともとおれに興味があったらしかった。彼女は時計師を志していた。彼女が初めて作ったオートマチックは今もおれの右手首で時を数えている。    初めて受けた依頼はK村にある海水浴場のPR写真だった。たまたまそこの役所に転勤になったおれの旧友が写真家としてまだ軌道に乗れていないおれを見計らって誘ってくれたのだと思う。しかしもう半ばどうでもよくなっていた。好きな服装で出かけられないのは寿司に醤油をつけないで食べろと言われているも同然だ。・・・わからないが。考えてみれば海水浴場なんてPRせずとも勝手に人はやってくるのだ。どうせあいつにも大した深い考えはないだろうし、写真業界に何か特別な関係があるようなやつでもない。今回はキャンセルすることに腹を決めてしまった。 時刻は午前八時半だった。この家は時計ハウスと言ってもよいほどそこら中に置時計や、鴬時計はたまたデジタル時計までもが飾られている。よく訪問者に言われるのは「こんなに時計に囲まれてよく息苦しくないね」ということだった。しかし町そのものの時間の緩さがまずあったし、なによりも時計は彼女の夢だった。だから彼女の夢を一緒に経験できているような気がしてむしろ心地よかった。壁にたくさんの時計が配置されている反対に、机の上や棚の上にはいたるところにカメラが置いてあった。これはおれのカメラだ。一眼レフ二眼レフコンパクトカメラからデジタルカメラまでありとあらゆるカメラが無分別に散らかっていた。彼女もカメラには多少の知識があったが、取った経験は少なくむしろカメラのデザインに惹かれるところがあるようだ。もちろんおれはデザインも好きだ。おれは大学で主にデザインをやっていた。その成り行きでカメラの機械としての機能美に触発されカメラとの縁が生じたといってもいい。   とにもかくにもだ。行かないと決めたからにはK村の観光課に連絡しなくてはならない。おれは手のひら大の折り畳み式スマホを取り出し電話番号を調べた。K村の主な産業は漁業であるらしいが、ホームページにはでかでかと古い木造建築が貼られていた。なるほどあいつが海の写真を撮りたがった訳だ。するとやつにも多少の考えがあったのかもしれない。そこで少し電話をかけるのにためらいが生まれたが意を決して番号を叩いた。 「もしもし、山田か。悪いが今日そちらには行けなくなってしまたんだ。ほんとに済まない。」おれは声色を変えてそう言った。 「おい本当か。まずいまずいぞ。お前せっかくの機会を。まあとにかく分かった。理由は聞かないでおいてやる。だがこいつは貸しだからな。覚えてろよ。じゃあな」山田は返事の内容とは裏腹に、すでに知っていたかのような口調でそう言い電話を切った。もしかしたらあいつはおれに会いたかっただけなのかもしれないな。話してみて直感的にそう感じた。おれは友人達との間に心からの友愛を感じているのだが、昔から勘違いされやすい。この間別の友人と会ったときには「おまえ以外とは定期的に顔を合わせているんだぞ」と言われ少なからずショックを受けたこともあった。来週あたりにK村に顔を出してやろう。そう思った。思えば自ら友に会いに行こうと考えたのはこれで初めてだった。なるほど誤解されて当然かもしれない。今度こそはジージャンとジーパンをそろえてやる。ふああ、もう一度布団に入ってひと眠りつくか。心穏やかにそう思った。
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