或る水没隧道の嘆き

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 俺は、人間という奴が大嫌いだ。  連中の頭のいいことは認めよう。だが、それだけでこの世界の万物を、あの見るに堪えない皺だらけの掌の上で転がせるもんだと、そういう驕った勘違いをしてやがる。俺が生まれるずっと前から、俺の周りには峻厳な山や屹立する崖が取り囲み、あの汚らしい人間の侵入を固く拒んでいたのだ。  まさしく自然の防衛線、あるいは、ここが幽谷であるための最後の砦とも言えようか。  俺は人間が憎み、呪う日々を続けている。一日や二日の話でない。深く険しいこの谷に、人間共が大堰堤を建造しはじめてからこっち、ずっとだ。  けれど、俺だって生まれたての頃はこんな暗い気持ちで日々を削るような無為な真似はしていなかった。人間様の幸福のために生まれた自分を誇りに思い、俺を三方から圧する土の塊と植物の根から彼らを守ってきたのだ。  俺がこの谷に生を受けたのは昭和十五年。赤ん坊の頃の記憶といって思い出せるのは、いつも作業服のおっちゃんがツルハシを振るっているところか、作業服の おっちゃんが終業後に煙草をふかす光景ばかり。「史上最低な幼少期だな」と笑う奴がいるなら、勝手に笑っていればいいさ。  とはいえ、当時の土木力の粋を集めて作られた俺の出現は、この付近の人間にとっては悲願であったらしい。俺よりも前の時代はというと、台風が来れば度々土 砂崩れを起こし、冬季になれば完全に封鎖される尾根越えの峠道しかまともな道がなかったらしく、人間共が気違いに喜ぶのも分からなくはない。 出来た当時は、最も恩恵を賜ったのであろう首長らがこぞって俺の勇姿を見にやってきたし、後にマイカーブームと呼ばれる自家用車所有世帯の増加も手伝ってそれなりに通行量も多かった。俺が飲み込んでそして吐き出す人間たちは、単なる交通建築物の俺にこぞって賛美を送った。  あの時、俺自身熱に浮されていたのは認めよう。束の間の幸福をつかんだだけで、世界の勝者になった気すらしていたのだ。  だが、この山深い谷の中で、俺が燦然と輝ける主役である時間は、そう長くはなかった。  ある時、俺は人間共が考えなしに増殖させる車を捌くのだけで手一杯になってきていた。片方から車がやってくる。しかし他方からも車はやってくる。する と、当然の如くどちらかが通り抜けるのをどちらかが待つハメになる。そんなことが繰り返されるうち、人間は徐々に俺に白眼視するようになっていった。 「何でこのトンネルはこんなに狭いんだ!離合ができないんだよ!」 「あーあ、早くもっと広くて走りやすい二車線のトンネルができないかなー!」  苛立ちを含ませた人間たちの物言い。コンクリートで巻きたてられた俺の内部で、その言葉は無様に反芻した。  一体、俺が何をしたというのだろうか。  勝手に俺を作り、勝手に俺の中を通り抜けたのは、他ならぬ人間たちだ。一度作られてしまえばどうしようもない俺。だのに、人間たちはご都合主義的に馬鹿の一つ覚えのように大量の自動車を持ち、ぶくぶくと太った自動車に買い替え、それに合わせた交通事情を供せ、と俺に叫ぶのだ。  もしも俺の中を通りたいならば、俺に合わせるべきだ。この深い山岳部を穿つ俺の存在を崇め奉り、両手を摺合せ首を垂れてから慎み深く通り抜けるべきだ。  俺は、ずっとこの山の中で人間に貢献してきたのだ。それくらいの心遣いはあってもよさそうなもんだろう。  「あいつはだめだ」「あいつは使えない」と指を射して蔑み、「そもそもの設計がおかしかった」といって俺の存在を否定する連中も出てきた。  俺は自己に悩んだ。俺を作り、俺を誇った人間のためにいる俺。その人間から嫌われた俺は、一体何なのだろうか。  苦悩にまみれながらも、それでも俺は必死に人間を守った。俺が人と人、物と物とを結んでいる。投げ出したりするなんて、許されないことだと思った。   それなのに、人間は俺を謗った。人間は俺の下を通らなくなり、人気は減った。そのうち、気味悪そうに俺に近付いて、甲高い声で叫びながら一目散に逃げる連 中も出てきた。小耳に挟んだ噂によれば、近くにより安全かつ短時間で村々を繋ぐバイパスが完成したらしく、古くなった俺は「幽霊の出るトンネル」として有名らしいのだ。くれぐれも言っておくが、俺は生まれてこの方俺の中やその周りでそういう超常現象を目撃したことはただの一度もない。幽霊を見たんだと叫ぶ奴らは、大概はこの辺りを根城にするタヌキの眼が光ったのを見間違えているのだ。それはこの俺がしっかりと請け負おう。だが、幽霊トンネルという肩書に対して俺は異議を申し立てることもできない。何たって俺はただの隧道だ。勘違いをした奴らが、やれ幽霊だ、やれここを工事した時に死んだ作業員の怨念だ、と捲し立てるのを、ただただ見ているしかなかった。  そのうち、そんな肝試し風情の馬鹿な輩もとんと姿を見せなくなった。  その辺りからだろうか、俺が定点観測的に見ていた山の風景が、一気に変わっていったのは。  まずはあっという間に俺の対岸側の崖が整地され、無味乾燥な平たい土の丘が現れた。人々を俺へと導く陰鬱とした峠道の一部からや安普請の橋が生えてきて、その対岸の砂の丘へ接続される。その橋の上を、砂埃を巻き上げて砂利を満載したトラックや重機を積載したトレーラーが危なげもなく渡っていく。丘の上に次々と到着する大量の車から出てきたのは、俺を作った時のようなごついおっちゃんたちだ。一様に緑色のヘルメットを頭に頂く連中は、紙を広げて何やら話し合っている。  俺には何が起こっているのかさっぱりわからなかった。だけど、嫌な予感だけは確かに感じた。  そしてその予感は現実のものになった。  彼らがやってきてから数日後、俺や古い峠道を抱く深い谷の表面から針葉樹が根こそぎはぎ取られ、今やV字型の谷の形がすっかりと確認することができる。そのV字型の斜面部分の中程を連結する形で、何やら巨大な構造物が徐々に姿を見せ始める。そのデカブツは、俺から見える限り谷の底まで隙間なく建造されている。  俺は気づいた。もしや、これがダム、というやつなのか、と。  噂には聞いたことがあった。人間というのは水が無いと生きていけない動物だ。だが、夏の日照りが酷い年などは、町で暮らす人々の間で水不足が起こることがある。また土砂降りが起こると地盤の脆いところが崩壊し、土砂となって下流まで流れていき、人間を何人も殺すことがあるのだそうだ。  そこで、人間たちは町から少し離れた谷にダムというものを作る。ここで水を貯めておき、いざとなったらこれを飲み水に使ったりするのだ。  しかし、ただの谷を水で埋めるのだから、当然水に浸かる部分のものは水中に没することになる。人間たちも一部では移住を余儀なくされたりすることもあると聞く。だが、俺たちのようなトンネルや道路、線路などは、とっとと山の上の方に新しい付け替え道路を作り、山々が地表から地下水を滲ませるのに任せて廃棄するというのが相場らしい。  俺は脂汗が出てくる心地がした。これでは、間違いなく俺は何百万トンもの水の下に下敷きになる。あのダムが完成したら、俺は人々の記憶から、完全に消え去ることになる。  憎悪が無かったと言えば嘘になる。これまで物言わず人間様に仕えてきたというのに、最後がこんな形というのはあまりにも惨すぎる。もしも俺が転生して何かの神様にでもなったら、その力を行使して人間を全て根絶やしにしてやろう。そういう怒りを覚えたのは確かだ。  だが、それよりも俺は悲しみの方が先に立った。  何だかんだで、俺はこの谷や山が好きだった。どの季節でもそれぞれの彩りで俺の眼を楽しませた。時折山鳥がやってきては俺に何かをさえずった。それは俺にとって無上の幸福だった。  あれだけ憎んでいた人間たちにもう会えないと思うと、それはそれで悲しいものがあった。俺の下を嬉しそうな顔をした家族連れが車で通り抜けていく風景も、今となっては楽しい思い出だ。  今となっては、すべてが懐かしい。    そして、今はもう目の前には立派な大堰堤が築かれている。遥か上空には、現代土木技術の賜物とも言える豪奢な付け替え道路が走っている。  あとは、ただただ谷川が流れるに任せ、この谷に水を埋めるばかりだ。  ある日、谷に不穏なサイレンが鳴り響く。  そのサイレンは、このダムの本格運用を開始するものだ。  谷川はあっという間に水で溢れ、旧道はその高低差に則った順序で、それぞれ水に没していく。  そして、次は俺の番。  足元から腰、そして俺の名が記された銘板が、物言わぬ水によって浸されていく。俺が最後に見た風景は、俺が知っているあの谷ではなかった。  もうあの谷はどこにもない。これから生きていく誰もが思い出すこともない。  それをしみじみと感じた直後、俺はあっけなく死んだ。
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