トイレ

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トイレ

 土屋定(つちや さだめ)はトイレの便座に座った状態のまま泣いていた。ここで泣いている分には誰にも気付かれることなく、慰められることもなく、「まあ、そんなこともあるさ。」という他人事満載な言葉を投げ掛けられることもなく、泣き顔を誰かに見られて、今まで築いてきた数々のプライドを薙ぎ倒されることもなく、思う存分に安全に泣くことができる。  支障があるとすれば、大声を出せないこと。しかし、泣く時はいつも啜り泣きである土屋定にとってみれば、これは大した支障ではなかった。目を赤くして、大声を出せない代わりに、涙をたくさん流すのが、土屋定の泣き方だ。  しかしながら、土屋定はよく泣くという性格ではない。むしろ、泣かない方である。もちろん、幼稚園児の頃などは時々泣いてはいたけれど、小学校から先、中学三年生である、今の今まで、泣いたのは一度しかなかった。  それは小学六年生の頃、体育の時間。その日の体育はハードル走だった。土屋定は特別足の速い児童ではなかったけれど、目立つほど足の遅い児童でもなかった。ごくごく普通の速さ、どちらかというと少し速いくらいのレベルに位置していた。そんな中途半端な速さを誇る土屋定にとってみれば、ハードル走なんて退屈な時間に他ならなかった。  「え~、表の通りに並んで下さい。」 と、体育の先生は皆の並び順が記載されたプリントを配った。  表をみると、四つの列に別れている。速い児童は速い児童同士でレーンが組まれ、遅い児童は遅い児童同士でレーンが組まれていることが容易に理解できる表であった。  土屋定は、自分の名前が表のどこに記載されているのかを探した。レーンは足の遅い児童たちから始まり、だんだんと足の速度は上がり、一番最後は一番速い児童たちが受け持つのが普通ではあるのだが、表に記載されていた土屋定という名前は、一番最後に書かれていた。しかも、それだけではない。一緒に走るライバルたちは三人とも足の速いことで人気の『女子たち』だった。残酷なことに、小学校の体育では男女ごちゃ混ぜなってハードル走を跳ぶのである。  体育の時間にハードル走をやることに退屈をおぼえている土屋定にとっては、特別速くもない自分が何故か最終レーンに選ばれたことも、そのライバルたちが皆して女子であることも、羞恥に値する感情にはならなかった。どうせなら早く終わって、仲のよい友達同士で固まっていたい、という思いがあるだけであった。
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