無花果

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無花果

 暦の上では秋だなんて言ってるけれど、まだまだ暑い八月の終わり。  イチヂクあります。  そんな貼り紙が酒屋さんの軒先に掲げられる。  どうして酒屋さんに無花果が売られているのか、私は知らない。求めに入ったことが無いからだ。  十年前のあの夏も、だから私は貼り紙を横目で見て通り過ぎた。  その頃の私は週末毎に実家に帰っていて、その貼り紙を見たのも片道百キロのドライブの途中だった。ハンドルを握る私の目に、まあまあ主張の激しい八文字が飛び込んでくる。 「無花果かあ」  私はちょっと考える。  無花果は父の好物だ。買って帰ったら喜ぶかもしれない。いつも途中で甘いものを買っていっていたけれど、今日は無花果にしてみようか。  けれど私の優柔不断の虫が騒ぎだす。  だって、父以外の誰も、無花果を食べない。 「まあいっか。次で」  私はいつも通りにお菓子を買って、実家に顔を出した。  往復で二百キロの道程の日帰り旅を毎週続けていたのは、父の具合が悪かったからだ。有り体に言えば、もう長くなかった。  抗癌剤の治療は思うように運ばなくて、父は少しずつ弱っていった。  山道を散歩していたのが、近所をぐるりと回るだけになり。庭先まで出るのがやっとになり。居間から立ち上がることも侭ならなくなる。  元々ひょろりとしていたけれど逞しかった父が、痩せて小さくなる。  そんななのに。  毎週そんな姿を見ていたくせに。  どうして私は次があるなんて思ったのだろうか。  折が良いのか悪いのか。居間のテレビで無花果が紹介された。 「美味そうだなあ。無花果食いたいな」  父がそう言うから、私は 「じゃあ来週買ってくるね」  と約束した。  だって父は生きてて。喋ってて。食べたいものだってあるし、私の約束に嬉しそうに笑う。  空気を読まないちょっと困った人だったけれど、何だかんだで私は父が好きだった。  次の週末、父は居間にいなかった。  病院の白いベッドの上で、私が買っていったグロリオサに目を細める。父は華やかなものが大好きだ。  もう、無花果は食べられない。  また来るよ、と言って別れる。  次の週も。  また次も。  また来るよ、が。  涙に濡れた日の夜更け。  母から電話が入った。  とても非常識な時間に。  八月の終わりになると酒屋さんの軒先に貼り紙が出る。  真っ白な紙に太いマジックで書いた大きな字。  だけど私がその引き戸を開けることはない。  だって。  父以外の誰も、無花果を食べない。
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