ブルーモーメントの散歩

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そんな自問自答を繰り返してる内に、眠りについたらしい。 目を覚ましたのは朝5時を過ぎた頃だった。 段々と霞んだ視界が輪郭を表すと、うつり込んだ世界は青みがかっていた。 「…ブルーモーメント」 朝焼けからほんの数十分間。世界が青く染まる時間がある。それをブルーモーメントという。僕はこの時間帯が好きで、早朝にも関わらず、しょっちゅう自転車を走らせた。 でも今日はそんな気分じゃないし、むしろ何故起きてしまったのかという苛立ちの方が優っていた。が、ふと思い出す。 そういえば。あいつと一緒に走ったことがあったっけ。 早起きが苦手な癖にこの時間に起きてきて、散歩に同行してくる事が多々あった。 モヤっとした気持ちを抱えたまま、僕はベッドから這い出た。 こんな事を思い出してしまったら、終わらない内に、ブルーモーメントの散歩に行くしか選択肢など無かったのだ。 部屋を出て、静かにリビングに向かい自転車の鍵を取りに行こうとすると、ソファーに母が座っていた。 おはようと、声をかけると「どこか行くの?」と首を傾げた。 気晴らしの散歩。と告げると、母は困ったように笑った。 「…アンタとあの子、よく散歩してたもんね。この時間。」 なんだ。知っていたのか。そう思うと思春期の僕には少し恥ずかしいモノがあった。 気づかないと思ってたの?と母は続ける。 やはり母親とは、敏感な生き物なのだろう。 なんでも筒抜けだ。 「笑い声が聞こえて、朝方に窓の外見るとね。アンタは仏頂面だったけど、あの子はよーく笑ってたのよ。」 良い子だったよね。本当に、残念。と、そう言って複雑そうな表情を浮かべると少しだけ沈黙したのちに、「いってらっしゃい。」と席を立った。 母は母なりに、彼女の死を思い詰めているようだった。それほどに、彼女という存在は濃いものだったのだろう。 僕は早速、鍵を手に外へと飛び出した。 キーを差し込んで、ストッパーを静かに蹴り上げる。慣れたものだ。そうしている内に、いつもなら彼女が「やぁ。」と現れて、僕よりも先に自転車に乗り上げるのだ。 いつもなら。 道路に出る。 そして片足をペダルに乗せて、もう片方の足で加速する為に地面を蹴り上げる。 ほんの少し加速して、丁度良いタイミングで乗り上げた。 朝の冷たい空気が肌に刺さる。どこまでも青い景色の中に、僕は溶けていく。 「気持ちいいよなー、」 僕は語りかけた。それは習慣だったから。完全になる無意識の中で、僕は話題を振ったのだ。 もうそこにはいない筈の、彼女に。 問いに返ってきたのは、沈黙だった。 2度3度漕いだ後に、僕は思わず声を漏らした。 漏らさずにはいられない現実がそこにはあった。言葉にならない嗚咽が、喉から勢いよく飛び出る。 軽い。 ペダルの、なんて軽い、事。 そりゃそうだ。今漕いでいる自転車に跨るのは、僕1人分の重さ。60kg。普段なら、ここにもう1人分の体重があるはずなのだ。 ぼくの足に、もっと負担が。かかるはずなのに。 身軽な僕は、どんどんスピードをあげていく。誰もいない道路を駆け抜ける。 それが、彼女を置き去りにしていくようで、心が苦しかった。 でもきっと、彼女は僕が速度を緩める事を許しはしない。真っ青な世界を、駆け抜けるのが好きな彼女は、そんな事をしたらきっと怒るに違いないのだ。 僕らの住む住宅街から、ある程度の離れた場所まで来ると、彼女は僕の肩に手を置いて立ち上がる。それから身を乗り出して、「気持ちいいねー!」と聞き慣れた声で叫ぶのだ。 あの手の感触も。重さも。声も。 今はもう無い。これから先、永遠に失われた。 神は彼女を天に誘い、仏は彼女を迎えた。 彼女とのブルーモーメントは、もう二度とやってこないのだ。 気付いたら僕は、だらだらと涙を流し、鼻水を垂らし、赤子のように泣き喚いていた。 僕は、実感してしまったのだ。彼女が永い眠りについた事を。 そうしている内に青の魔法は解けていく。全ては有限だ。 自然も。それから、命も。 待ってくれ、まだ、まだ終わらないでくれ。と、そんな惨めたらしく懇願する僕を置いてけぼりにして、いつも通りの橙の朝焼けが音もなくやってくる。 まるで、何事もなかったかのように。時は進んでいく。 彼女を置いて、世界は進んでいく。 だから僕は、その陽が追いつけないように。加速する。加速する。 無我夢中で、足を動かす。 でもそんなのは、天に唾を吐くのと等しい行いだった。 見る見るうちに僕の視界からは青色が消えていく。 彼女と共に、青は陽に灼けていくのだ。 呼吸の仕方を忘れて、過呼吸のような症状が出始めた。 そんなことに構う事なく、ぼくは口を開いた。 「待って。待って、待ってくれ、まだ、言ってない。ぼくは。 _________ぼくはまだ、彼女にさようならを伝えていないんだ」 僕はあの日、その場から逃げてしまった。 彼女の姿を見る最期の日に、目を背けるように逃げてしまった。 後悔は先に立たず。その通りだ。 僕の発した言葉は、嗚咽に塗れてこんなに綺麗な日本語にはなっていない。 手負いの獣の唸り声のようなものだろう。それでも僕は、空に向かって叫んだ。奇跡は起こらない。ここは現実だ。時が止まることは無いし。アイツが現れるわけでも無い。天から名も知らぬ神お告げが聞こえることもない。どこまでも、果てしない虚無が広がるだけだ。 ふと目眩がして、視界が反転する。 一瞬体が浮いて、スローモーションのような時が流れた。 瞳に映り込んだ空は、青と橙が混ざったような幻想的なもので、美しいなぁと見惚れてた。そう思った瞬間には、僕の体は地面に投げ出されていた。 硬いアスファルトに打ちつけられて、僕の意識は混濁としていた。 脳を揺らされたせいか、焦点が全く合わない。心臓がとんでもない速さで脈を打つ。それに呼応するように、呼吸も荒い。 でもそんなことより僕は彼女への思いでいっぱいで、押し寄せる彼女との生活の波に溺れかけていた。 僕は泣き続けた。喉が枯れるまで。 もう訪れない、ブルーモーメントを嘆いたのだった。
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