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忘れ物のハンカチを届けに追いかけたのが、亮子さんじゃなくてオレでよかったと心から思った。
車に乗ってきた様子はなかったので、確実に捕まえるなら駅だと踏んで、先回りしていた。
黒い人たちの話し声がぼんやり聞こえてきたときの、何かひやりとした予感。
思わず駅前広場の花壇の裏に隠れ、息を殺した。
ぞろぞろと歩く黒い影が、解放感で緩み切った口元をほころばせているのが見えた。
ハンカチは、渡さずに帰った。
「X、おかえり。ごめんね走らせちゃって」
「いいよ別に。それよりさ、オレ、政治家になろうかな」
「……へ? 突然どうしたの」
国の偉い人たちと話して、影響された?――亮子さんは笑いながらエプロンを手に取る。夕食の用意を始めるのだ。
「オレさ、国の顔になってみせるよ」
「え? うん、さっき『なる』って決めたじゃん」
弾んだままの声で亮子さんは鼻歌を歌い始める。途中、「さっさと宿題しちゃいなよ~」という陽気な小言が織り交ぜられる。
オレは国の顔になるよ。
でもそれは、ただ満面の笑みで、物も言わず名前も明かされず、ワールドカップのスタジアムや国際会議の円卓を見守っているだけの存在じゃない。
本気でこの国のトップになってやろうって、思ったんだよ、亮子さん。
〈了〉
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