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「いや、それは社長にでもならないときつくないかな」
適当に言った言葉に返事があると、少なからず人間は驚きの声を上げて肩を震わせる。
案の定、私はベッドの上でひっくり返る事となった。
それに対し、笑う声。よく知る声に、私はため息をついた。
「勘弁してよね先生。女の子の部屋なんだから、ノックしてくれてもいいんじゃない?」
「なんだその言い草は。なんどもノックしただろう。返答がないから倒れてしまったのかと思ったんだよ。」
先生はムッとした表情で言った。
私は笑った。
「やだあ、このまま順調に生き抜いてみせるから安心してよ。」
「やめてくれよその物言い。医師としては、返事しづらいだろ」
片手で顔を覆う先生は少し呆れている様子。私は、あ。また笑えない事を言ってしまったか、と口を滑らせた自分に少しだけ反省した。今回は後悔もした。
先生は7人目の先生で、今のところ一番長く私と接している先生だ。
これまでの先生の中では、冗談も言えるしノリが軽いから話しやすい。
普段は勿論、しっかりとした医者だ。
歳は私の10くらい上の筈。なのだけれど、最近は疲れているのか随分老け込んだように見える。
「先生また老けた気がするんだけど、何?医療ミスでもしたの?」
「本当に君はどこで習ったのって思うくらい口が悪いなぁ。ミスなんかしないさ、命に対して間違いなんて絶対に侵せないよ。...なんて常に気が張ってるから老けてるのかもしれないね」
先生は少し困ったように、くしゃっとした笑顔を見せた。皺がよって、いつもの多少キリッとした顔が崩れている。よくわからないけど、この顔は好きだ。
常に張り詰めた空気をまとっている人の緩んだ姿を、その一瞬で垣間見る事が出来るからなのだろうか。
などと思っているうちに、またいつもの冷静な顔に戻ってしまった。少し残念な気持ちなる。...なんで残念なのかはよくわからない。
「私と10くらいしか変わらないのに、先生はもっともっと上の人みたいだね。」
「そりゃまぁ...医師としての仕事をしているからね。一番ふけこみやすい職業だと思...ってさっきから老けてるだの、上の人みたいだのと。君、僕のメンタルを打ち砕こうとしてるの?」
「まさか。そんな事ないよごめんなさい先生。でも私正直にモノを言う自分が結構好き」
「謝る気ゼロだないい加減にしろ」
眉間に皺を寄せる先生に対し、正反対に私は声を上げて笑った。
毎日決まった時間に現れる先生とのこのやり取りが私は好きだ。友達のように振る舞える。でもそれも、もうすぐ終わりを告げるわけで。なんだか、それは少し寂しいな、と思った。
「はー、どうしよう先生。いつくるかわからない終わりの時までにやりたい事見つけろって言われたところで、特にないんだよね私。」
「まぁね」
先生はそう言って、初めて私から視線を外した。
きっと憂いに満ちた瞳をしているのだろう。そんな顔をさせる為の言葉ではなかったのに。また私は変な事を言ってしまったのだろうか。
いや、違う。私にとっては変なことでは無いのだ。
これは死期がいつくるかもわからないような人間と、天寿を全うできる人間の価値観の差。
それ故に招いたこの謎の間に私と先生は溺れそうになっている。
可哀想な先生。私の一言に振り回されてしまっている。
否、私が振り回してしまっている。
「あ、えっとねー、じゃあそうだなー。」変に声が上ずる。慌てて言葉を繕っている自分がいる。すると先生が顔を上げて笑った。
「気を遣わせてしまった。ごめんね。うん、そうだなぁ。どうしたもんかな、何かしたいこととかはないの?」
いつもの調子に戻った姿を見て、ほっと胸をなでおろす。
それと同時に、私はまた思案に戻った。
「...したいこと。と言われても。」
この病室に見えない鎖で繋がれている状態の私としては、そんな欲求すら湧かない。いや、湧いた時代もあったけど、そんなもの等に捨て置いた感情だ。
人間は、死期が迫れば欲求に溢れかえるものでは無いらしい。
欲に駆られるからこそ、現状を打破しようと日々奮闘するのがヒトと聞いていたが、じゃあ私はなんなのだろう。
欲も無く、淡々と日々を送る私は、前述の通り生ける屍そのものでは無いのだろうか。
思考の果てに行き着いてしまった気がして、最早論破する自分を生成出来ない。
まさか、死期が迫ってこんな事を理解してしまうなんて。
いやまてよ、まだまだ期間あるから。
「だめだ先生。考えれば考えるほど、別のことに意識が向いてしまう。根暗だから根暗な事しか考えられない」
「まず根暗な人は自分を根暗とは言わない。...おっと、そろそろ時間だ。まぁ程々に考えてみなさい。」
そう言って、先生は踵を返す。
私的には、暇な時間を弄ぶ為にもう少しだけいてほしかったが、そうもいかない。
友人のように接してはいても、それ以前に医者と患者という関係がつきまとっている。
彼は医師としての腕は良い。その分、ここで時を潰すわけにはいかないのだ。
「そう、じゃあね先生。その小ジワ、ちゃんとケアしてよね」
「君も歯に絹着せた言い方ができると良いね、おやすみ」
お互い軽く悪態をつきながら、笑いあった。そして、病室には1人分の呼吸だけが残る。
人がいなくなった場所とは、どうしてこんなに寒く感じるのだろう。
空気が途端に冷たくなるのを肌で感じながら、私はベッドに深く潜り込んだ。
別に死ぬのは決まっているから、何とも思わないが私が嫌なのはこのまま死んでしまうの事だ。入院期間と共に、どんどん古くなって、埃が溜まるこの病室と共にゆったりと朽ちていくのは少々癪だ。
さっさと最期にやりたい事見つけないと。
焦って考えるべきでも無いような事も、時間制限が分かれば人は熱心に考える。
でも、私には制限が多すぎる。だからこそ、常識の範囲内で物事を考えなくてはならないのが、なかなかに苦しかった。
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