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海というものは、絵本の中でしか知らない。 どうやら、空より青くキラキラと輝いているらしい。 空を写しているという者もいれば、青い絵の具によって出来たモノだと言う者もいる。 私はそれが正しいのかはわからないが、一面が青いソレをいつか見てみたいモノだ、と昔から思っていた。 そして、なんと言っても海は全てが塩水らしく飲んだらしょっぱいらしい。 塩っぱい水。といえば、涙なわけで。でも、地球一面を囲う水たまりを人が作れるわけもないため、神さまの涙なのだろうか。と考えたこともある。 百聞は一見にしかずではあるが、私は何をどうしたってそれをこの目で見る事は出来ない。神様は、乗り越えられる試練しか与えないというが、それは妄信的な信者が宣う常套句。そもそも試練なんて与えないでくれ、生きてるだけで精一杯だ。というのが私の意見だ。 そんな卑屈な事を言っていても仕方がない。仕方がないという言葉をもう何度繰り返したかわからないそんな最期の夜。 意味もなく鬱々とした空気に飲み込まれてしまうどうしようもない夜の闇を、私は今突き進んでいる。 いやいや抽象的になり過ぎた。簡潔に述べよう。 私は、病院から抜け出した。というより、連れ出された。 時は1時間ほど前に遡る。 そう、丁度何度目かの看護師の見回りが終了した頃だった。 突然、病室のドアが勢いよく開き、 「海に行こう」 仲直り?話し合い?そんなものをかなぐり捨て、何の前触れもなく先生は言った。 いつぶりの一対一だったか、などと考える間も無かった。 今回はノックはなかった。無遠慮に足を踏みならし、私のベッドに近づき、手を取って突然こう言ったのだった。 その手は熱く、少し汗をかいており不快な気分になった。現在体温が低下し、氷のような私の肌には刺激が強い。むしろ痛いくらいだった。そんなこと御構い無しに先生は続ける 「この病室から抜け出そう」 「ついにど頭イかれたかアンタは」 容赦のないツッコミに、先生はほんの少し倒れかかる。いや、だっておかしいでしょう。 何を言ってるんだこの人は。何を言ってるんだこの人は。 まずい、動揺して同じことを繰り返してしまう。落ち着け、落ち着け。 この人がおかしな事を言うのは、別段珍しい事でもないし今に始まったことじゃないだろう。 だがしかし、今回はおかしさのレベルが段違いだった。 きっと、初めてシュネッケンを食べた人はこんな気持ちだったんだろうなと実感した。 いやそうじゃなくて。 「何言ってるの先生。ご機嫌取りも甚だしいよまじで」 「嘘を言ってると思うのかい、それこそ冗談だろ。」 「別に上手くはないからねそれ」 どこまでも真っ直ぐな瞳で、先生は私を見つめた。炎が宿ってるかのような熱い視線に、私は冷ややかな反応を示してみせた。 「先生、この間の事ならもういいよ。諦めてるから。寧ろ、私が求めた3つの内の2つは最期の最期に味あわせてくれたじゃない。もういいんだよ」 これは強がりでも何でもない。心の奥底から湧き出たとてもシンプルで正直な感想だった。それに、先生は先生なりに私を甘やかしてくれていたことをよくわかっていたし、寧ろ病院の先生としては、なるべく明るい気持ちを保とうと努めてくれたのだ。寧ろ感謝しているくらいだった。 すると先生は荒い息を整えながら、口を開いた。 「僕はバカだった。君に、夢を見せてしまった。希望を持たせておいて、...__あの日、君に真実を告げた。医者としても人としても、最悪の行動を取ってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。」 泣きそうな声だった。そこまで謝罪されるとこちらとしても何も返せなくなってしまう。 先生は続けた。 「だから僕は、今から夢を現実にしようと思うんだ。医者としては最悪だけど、せめて、人としては選ぶであろう感情論で君にぶつかりたいと思う。」 握られた手に力がこもる。駆け足になる心拍が伝わってくる。 そして私の瞳には、まぎれもなく真実を告げている人間の真剣な表情が写り込んだ。 なんだか私はそれをみて、ほんの少し心がざわついた。 「綺麗事はやめてよ、先生。確かに人は感情の生き物だけど、それでぶつかって良い事があった例は一度もないよ。」 力など入らない拳に、力が入る。弱々しくも、私は確かに彼の手を振りほどいた。 諦めがついた心に、指を入れて欲しくなど無かったのだ。 一度ならず、幾度となく破壊した感情に今更薬を塗ったところで何がどうなるわけでもない事を、この人は一番知ってるはずなのに。どうして。 「もういい加減にしてよ、私、死ぬんだよ」 先生の顔は見れなかった。 だけど私は断固としてその誘いに乗る事を断った。 差し出された手を、蹴り上げた。 夢を見るのは悲しい。悲しいのだ。 私は今まで冷め切っていた自分が、本当に思っていた感情を今知った。 諦めが良かったんじゃない。 悲しくなるのが、嫌だったのだ。 悲しみは暗くて、重くて、冷たくて、痛いから。 いつも心に蓋をして、鍵をかけていたんだ。 「もういいんだよ、先生」 言葉にはできたが、あまりの力の無さに消えてしまいそうな声量だった。 ...____それでも。 彼は私の手を再度握り返して、はっきりと言った。 眩しいくらいの思いを込めながら。 「よくない!少なくとも僕は君の夢を諦めたくない!」 などと言ってのけて、迅速に私が乗ったままのベッドを部屋から出したのだった。 ...ここでふと疑問になった事が1つ。 この人の手は、こんなに皺があっただろうか。 あんなに目尻にシワが刻まれていただろうか。 いや、そんなことは重要ではない。パニック状態ゆえにどうでもいい事を考えているのだと思う。気のせいであってほしい。 思えば、何度かの違和感はあったがここで追求することではないし、すべき時ではない。 残された時間が少ない中で、こんなモヤモヤと燻った違和感を心に留めるのは、あまり気分の良いことではないけど。 話を戻す。 まぁとはいえ、こんな経緯があり、現在私たちは深夜の高速道路を走っている。 橙色の電飾が一定区間に置かれ、私たちを上から見下ろしている。 闇の中で光るそれは何だか不穏で、未来を暗示しているように見えた。 トンネルの中をくぐり抜け灰色のコンクリートの壁に囲まれたハイウェイを、ひたすらに進んでいく。 沈黙に耐えきるのは慣れていたはずなのに、どこかバツが悪くて私は口を開いた。 「今頃大騒ぎじゃないの、病院は」この言葉に対し、先生は意地悪く笑いながら返答した。 「どうだろうね、でも案外皆の総意かもしれないよ。社会的に死んでも、道徳的には許される可能性だってなきにしも非、だろう。」 「自分がええかっこしいのヒーローになりたいだけじゃないの」 「そんな理由でこれまでの地位や名誉を捨てるような男に見えるかい。心外だな」 「残念だけど見える」 いつもの調子で悪態を付き合いながら、短い会話を繰り返す。 迷惑をかけずに、ひっそりと死んでいきたかった。これは本音だ。でも、外に出られたというこの喜びを隠すことなど私にはできなかった。 とことん自分の幼さを理解してしまう。 自分の幼稚な願いを、彼に任せっきりにしてしまう自分が悔しいがそうでもしない限りこの夢が叶えられる事はなかっただろう。 感謝していないわけがない。ただ、私は天性の天邪鬼な性格の持ち主なのでそれをなかなか素直にいえないのだ。 「...もうすぐ、夜が明ける。」 ふと、先生が前を向きながらぽろっと呟いた。 どんな顔をしているのか、わからない。 私はというと、最期の朝を迎える事への実感が無くて。 なんだが余命を宣告された2週間前と同じ心持ちで、その言葉を聞いていた。 「さぁ、急ごう。着く頃には素晴らしい景色が君を歓迎してくれるぜ」 明るい声音で、先生はアクセルを力強く踏んだ。 私はほんの少し眠くなってきて、そのままスピードに微睡んだ。
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