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私の人生は、はっきり言って細く、狭く、とても短く、そして浅いものだったように思える。勿論、多くは病のせいなのだけれど。
もしも、この病がなかったらどんな生活をしていただろうか。
そんな事を考えると、キリがない。
でも、こうして命について、またはある1つの景色や感情に対して、深く深く思考するような完成は持ち合わせていなかっただろう。
命は儚いとは、よく言ったものだと思う。
「_____これで最期か、先生」
まだ陽は登っていない。タイムリミットまではもう少し時間があるらしい。
さっきから引っ切り無しに先生の携帯が鳴り響いているけど、そんなの御構い無しで先生はずっと、空を見つめていた。どこか抜け殻のような、虚空のような瞳だった。
そんな瞳をするような人だったのか、とどこか意外な一面を見れた気がした。
私たちは高台の上にいる。
暗闇のせいもあって、私の見たい海は理想とは程遠い黒々としたものだから。と、先生は私の瞳にアイマスクを被せている。
黒々としていても良い、とは伝えたが先生の言い分としては「ここまでしたのだから、君が見たい景色を見れた方がいいだろう」との事だった。
そこまでいうなら、とアイマスクを着用した次第だ。
「あ、そういえばさ先生。母さんと父さんって元気?」
「...あぁ、元気だと思うよ」
目が見えないからなんともいえないけど、どことなく煮え切らない言い方だった。
何故だろう。さっきから胸がざわつく。
「病棟には電話とかないからさ。しかもあのフロア、私しかいないし。情報が入ってこないからわからないんだよね。」
「心配ないさ、大丈夫」
大丈夫。この人のこの言葉ほど安心するものはなかった。
はずなのに。
思えばおかしな話だろう。余命が宣告されたのに、会いにやってこない両親なんて。
家庭内暴力、ネグレスト。そんなものとは無縁の生活だった。
皺が増えた先生の顔。少し老けた看護師。
夜が明けるたびに、少し古臭くて埃の溜まる病室。
そもそも、10年で医師が7人も代わるモノなのか。
不安と猜疑心。散らばったピースがゆっくりと繋がっていく。
歯車は噛み合ったら止まれないのだ。
小さな疑問は、知らないうちに大きく育ちすぎて、目を反らせなくなってしまう。
「ねえ、せんせ。」
私は笑ってみせた。
笑ってるのかどうかは、わからないけど。
笑えてたらいいな。
「もしかしてさ、とっくに死んじゃってるのかな。皆。」
答えはなかった。
だが、それこそが答えである事を私は知っている。
だからと言って私はそれ以上は何を聞くつもりも無いし、問い詰めることもなかった。
只々、今までの違和感はそういう事だったのか。と理解できた。
その上、10年も入院しているのに一向に身長も体も、成長しない謎について合点がいったからだった。
______でももう、どうだっていいのだ。そういうことは。
死ぬ前に、なんとなくそこだけは自分なりに解明しておきたかったので、良かった。
これで、良いのだ。
すると妙に暖かくて、大きな手が優しく優しく私の右手を包んだ。
もう動かすことのできない手を。優しく優しく。
壊れ物を扱うかのような触り方だった。
「僕はまだいるから、」なんて掠れた声で言って。
少し裏返ったその声は、もしかしたら男泣きしている事の表れだったのかもしれない。
アイマスクをしているのが恐ろしく残念な気持ちになった。
この人が泣くことはない。いえなかったのも無理はない。
こんな重篤患者に、ましてや子供のような私に。
背負いきれるわけがなかったのだ。
毎日が死との隣り合わせ。そんな緊迫した毎日を過ごす私に、そんな残酷な真実を告げられるわけがない。
今まで両親のことを聞くたびに、どんな思いを抱きながら私に笑ってくれたのだろう。
なんて優しい嘘だろうか。
私より、先生や看護師さん達の方が辛かっただろう。その事を考えたら、涙なんて出なかった。
どこまでもお人好しな人たちだ。
私が老けただの、なんだの毒づいている間、どんな感情をかかえていたのか。
私に見せようともせず、今まで関わってくれていたのだと考えると、苦しみで張り裂けそうな自分がいた。
特にこの人は、おせっかいのハイエンドだ。
こんな救いようのない子供の為に、自らを犠牲にしながら、私を終着駅まで送り届けてくれるなんて。
「先生、ごめんね。ごめんね。」
無意識にそんな言葉が溢れ出て止まらない。何度も何度も繰り返す。
何度繰り返しても足りないから、ずっと言い続ける。
先生の手は震えていた。
ねえ先生。どんな気持ちで私と関わってきたの。どんな感情で私と向き合ってきたの。
辛かったでしょう、先生。
心の中で唱えるそれは、先生に対しての許しを乞う文そのものだった。
私のために、人生を捧げさせてしまったことへの後悔。
シワシワの手。よく見たら白髪が薄く混じった髪。ほんの少し丸くなった背中。
目が見えなくても、はっきりわかった。同時に、今までどんなに注意深く見ていなかったかを理解した。
「謝らないでくれ...___君を治せなかった僕の方こそ、謝るべきなんだ」
「これは治らないでしょ先生。そういうものでしょ。」
何を言おうとも先生は謝り続けるのだろう。
言い方がどんなに軽くても、言葉の重みは彼の背に傷を与えていく。
先生の嗚咽と、私の静かな呼吸が車内を包んだ。
幾分か経った頃、先生の体がピクリと反応した。
その理由は、目隠しをしていてもわかった。
一筋の光が、見えない瞳に差し込んだきたからだ。
遂に、その時がやってきたのだ。
「__________行こう」
重々しい口調で、先生は私の体を抱き上げそのまま外へ連れ出した。
体が衰弱しているせいか、気を抜けば一瞬で意識を手放しそうだった。
砂利を進む音。地面をする先生の靴の音。それに加えて、風の音と、塩っぱい匂い。大きな音。
何の音?と尋ねると、今にわかる、と先生は言った。
そして。歩みが止まる。
「目隠しを取ろう」
先生の手がほんの少しの躊躇いを含みながらも、アイマスクを取った。
真っ白でまばゆい光に、目がくらむ。
思わず目を瞑り、そしてゆっくりと、ゆっくりと開いていく。
神々しくきらめく陽の下に、それは広がっていた。
昔本で読んだ海というものが、あった。
「あ...______________」
ああ、大きな音とは、波の音のことだったのか。
今にわかるとはこういうことだったのかと、納得する。
青々とした風景に、白が混ざっている。あれが、波か。
ロールケーキのように弧を描いて、波打ち際に打ち上げられ、そして砂から名残惜しそうに消えていく。地平線が見える。果てがない。
名前しか知らないものたちが、頭の中でつながりあっていく。
「先生、これが、海なんだ、ね。」
「ああ。そうだよ、これが海だ」
唐突に視界が滲んだ。目をこすってもこすっても、滲んだまま。
これが涙だと気づくのに、数分を要した。
「海って、こんなに大きくて広いんだね」
「そうだよ、」
幼児のような感想にも、先生はしっかり耳を傾けてくれた。
絵だけでしか知り得なかった世界が、音を立てて動いている。
匂い感じることできる。音を聞くことができる。瞳で見ることができる。
好奇心が動かされ、五感が刺激され、感情に訴えかけてくる。
私は、必要な三原則を全て、今ここで満たしたのだった。
ああもう、世界はなんて美しいのか。
最期に気づくことができてよかった。
ちらりと、彼の顔を見てみる。目の下が真っ赤になっていた。
ずいぶん泣いていたのだろう、やはり目隠しはすべきではなかったかな、と再度後悔した。でももう、その後悔も無かったことになるのだ。
私は悟った。私は今から死んでいく。死んで、逝く。
奇跡のようなことが起こったって、これは漫画でも神話でもない。
私の物語は、人が死ぬし、素晴らしい天啓で寿命が延びたりはしない。
このまま死ねば、彼の背にはもっと重いものを背負わせてしまうことになる。
それでも彼は、ここまで私にしてくれた。
だったら言わなくてはならないことがある。
「..._______先生、」
自分でも、酷く弱々しい声だなと思うくらいの小さくて、か細い声が口からこぼれ落ちた。
呼びかけに対し、私を見る先生は、泣き笑いのような表情だった。
私は、とびっきりの笑顔を。一番最期の笑顔を、彼に向けた。
「ありがとう。」
灰色になる視界の中で、こちらこそ、という声と。
いつものように朗らかに微笑む先生が見えて。
私はそのまま、なんだか疲れたなぁと思いながら永い永い眠りについた。
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