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エピローグ
腕の中の少女は、満足そうな顔つきで目を閉じている。
そう見えるだけで、本心がどうかはわからない。でも、それを確認する術は彼には無かった。
これから先、この少女が彼に悪態を吐く事はもう無いし、彼もまた呆れて彼女に言葉を返すような未来は無いのだ。
「おやすみ、」
その短い四文字を言い終える前に、彼は視線を眠る少女に向けたまま、大粒の涙を零した。彼女の頬が涙に濡れていく。
表情は虚無であったが、涙の量が彼の激情が如何ほどのモノかをよく表していた。
「結局、君は僕が病院の先生って事は信じ続けてくれたね」
掠れ気味につぶやく姿は、誰かの支えでもない限り倒れてしまいそうな弱々しいものだった。
一体どういう意味なのか。恐らくいつもの彼女なら、ここで言葉を返していたはずである。
「ねえ、少しだけ話を聞いてよ」と。
彼は彼女を抱いたまま、その場に腰かけた。
「僕は君の、主治医として約10年、...いや、25年くらい付き添ってきた訳だけど、本当に医師として関わったのはほんの最近の事なんだよ。僕が医療免許を取ったのは本当に最近。2、3年前。君と喧嘩したあの一件の後なんだよ。」
彼はハハッと力なく笑いながら、応答のない彼女に伝え続けた。
「僕は、病院の先生に頼み込んで君のそばに居たいと、ずっと言い続けていたんだ。君の寿命の事を考えると、いつ死ぬかもわからないような人間だったからね。病院の先生は皆優しいね、よくわかってくれたよ。
_________________________僕が君の弟だって事も、知っていたからかな。」
波の音にかき消されてしまうような、声音で呟かれたその真実に。
彼女は耐え抜くことが出来ただろうか。
自分の生きる時間が、普通の人と明らかに違う事を知り。両親は共に死んでいる事を知り。その上で、慕ってきた先生という立場の人間が。自らの唯一の肉親である事を告げられて。
か細く小さな彼女は、平常を保てるのだろうか。否。
彼は否定的であった。医師でなくても、わかる事だった。人の心とは脆い。
脆く儚く、小さい衝撃でも傷を負う。
「だからあんな希望を持たせるような事を言ってしまった時は、本当に後悔した。君は、あの出来事がつい最近のように感じているだろうけど。もう何年も経っているんだよ、あれから。僕はあれがきっかけで医師になったんだ。君を知れるように。奇跡にすがるように。」
僕もまた、君と同じく医師という立場に希望を持った人間だったんだ。
という彼は、希望にすがりついた時の彼女の姿によく似ていた。そして、すぐに陰鬱とした表情に変わる。
それもまた、皮肉にも夢を諦めた時の彼女に瓜二つだった。
「君が知らないのも無理はない。弟が出来た事を伝えるのを両親は戸惑っていたからね。あ、僕は君の事を知っていたけどね。写真でしか、見たことがなかったけど。」
腕の中で、少女が先ほどより氷のように冷たくなっていく。知らないふりをするように、彼は話し続ける。沈黙したら、嫌でもわかってしまうからだ。
ギュ、ッと彼の腕に力がこもる。
「両親は最期まで君のことを心配していたよ。...この言い方だと他人行儀過ぎるかな。それは置いておくとしても、君の事をいつもいつも考えていた。でも、しっかり僕の事も育ててくれた。心身共にね。本当に尊敬できるよ、あの人たちは。凄いよね。」
応答はない。
「君はどっち似だろう。悪戯好きなのは父親似かな。笑った時、頬骨にえくぼが出来るのは母さん似だと思うんだけど。あ、僕は母親似だよ。」
応答があるわけない。
ハァ、と。息を吐く。
それが合図かのように、彼は言葉を紡ぐのをやめた。
もう分かっているのだ、これが後悔の念から来る独白である事を。
彼女も、両親の思いにも報いる事ができなかった自分。
彼女の死。両親の死。過ぎ行く日々。
彼にとっては、あまりにも重すぎる十字架だった。
また、涙がとめどなく溢れ出す。
死からは逃げられない事は、重々承知している。だが、この子を連れて行くには早過ぎたのだ。海を見る事を望み、只々生きたかった少女には酷というものだろう。
それでも、僕は生きていくのか。と。彼は思った。
答えは無い。見つかるはずもない。
だが彼は医師として、人間として彼女の人生と向き合った。
彼女をずっと見続けて来た。
そんな君に、顔向け出来ないような事は、出来ないだろう。
「_________________また、一緒に海を見に行こう」
彼は目を伏せたまま、彼女と共に車へと向かう。
手に残る彼女の重さを感じながら、彼は無言で歩みを進めた。
天には陽が昇り、彼の背を照らし続けていた。
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