エピローグ

1/1
前へ
/7ページ
次へ

 エピローグ

腕の中の少女は、満足そうな顔つきで目を閉じている。 そう見えるだけで、本心がどうかはわからない。でも、それを確認する術は彼には無かった。 これから先、この少女が彼に悪態を吐く事はもう無いし、彼もまた呆れて彼女に言葉を返すような未来は無いのだ。 「おやすみ、」 その短い四文字を言い終える前に、彼は視線を眠る少女に向けたまま、大粒の涙を零した。彼女の頬が涙に濡れていく。 表情は虚無であったが、涙の量が彼の激情が如何ほどのモノかをよく表していた。 「結局、君は僕が病院の先生って事は信じ続けてくれたね」 掠れ気味につぶやく姿は、誰かの支えでもない限り倒れてしまいそうな弱々しいものだった。 一体どういう意味なのか。恐らくいつもの彼女なら、ここで言葉を返していたはずである。 「ねえ、少しだけ話を聞いてよ」と。 彼は彼女を抱いたまま、その場に腰かけた。 「僕は君の、主治医として約10年、...いや、25年くらい付き添ってきた訳だけど、本当に医師として関わったのはほんの最近の事なんだよ。僕が医療免許を取ったのは本当に最近。2、3年前。君と喧嘩したあの一件の後なんだよ。」 彼はハハッと力なく笑いながら、応答のない彼女に伝え続けた。 「僕は、病院の先生に頼み込んで君のそばに居たいと、ずっと言い続けていたんだ。君の寿命の事を考えると、いつ死ぬかもわからないような人間だったからね。病院の先生は皆優しいね、よくわかってくれたよ。 _________________________僕が君の弟だって事も、知っていたからかな。」 波の音にかき消されてしまうような、声音で呟かれたその真実に。 彼女は耐え抜くことが出来ただろうか。 自分の生きる時間が、普通の人と明らかに違う事を知り。両親は共に死んでいる事を知り。その上で、慕ってきた先生という立場の人間が。自らの唯一の肉親である事を告げられて。 か細く小さな彼女は、平常を保てるのだろうか。否。 彼は否定的であった。医師でなくても、わかる事だった。人の心とは脆い。 脆く儚く、小さい衝撃でも傷を負う。 「だからあんな希望を持たせるような事を言ってしまった時は、本当に後悔した。君は、あの出来事がつい最近のように感じているだろうけど。もう何年も経っているんだよ、あれから。僕はあれがきっかけで医師になったんだ。君を知れるように。奇跡にすがるように。」 僕もまた、君と同じく医師という立場に希望を持った人間だったんだ。 という彼は、希望にすがりついた時の彼女の姿によく似ていた。そして、すぐに陰鬱とした表情に変わる。 それもまた、皮肉にも夢を諦めた時の彼女に瓜二つだった。 「君が知らないのも無理はない。弟が出来た事を伝えるのを両親は戸惑っていたからね。あ、僕は君の事を知っていたけどね。写真でしか、見たことがなかったけど。」 腕の中で、少女が先ほどより氷のように冷たくなっていく。知らないふりをするように、彼は話し続ける。沈黙したら、嫌でもわかってしまうからだ。 ギュ、ッと彼の腕に力がこもる。 「両親は最期まで君のことを心配していたよ。...この言い方だと他人行儀過ぎるかな。それは置いておくとしても、君の事をいつもいつも考えていた。でも、しっかり僕の事も育ててくれた。心身共にね。本当に尊敬できるよ、あの人たちは。凄いよね。」 応答はない。 「君はどっち似だろう。悪戯好きなのは父親似かな。笑った時、頬骨にえくぼが出来るのは母さん似だと思うんだけど。あ、僕は母親似だよ。」 応答があるわけない。 ハァ、と。息を吐く。 それが合図かのように、彼は言葉を紡ぐのをやめた。 もう分かっているのだ、これが後悔の念から来る独白である事を。 彼女も、両親の思いにも報いる事ができなかった自分。 彼女の死。両親の死。過ぎ行く日々。 彼にとっては、あまりにも重すぎる十字架だった。 また、涙がとめどなく溢れ出す。 死からは逃げられない事は、重々承知している。だが、この子を連れて行くには早過ぎたのだ。海を見る事を望み、只々生きたかった少女には酷というものだろう。 それでも、僕は生きていくのか。と。彼は思った。 答えは無い。見つかるはずもない。 だが彼は医師として、人間として彼女の人生と向き合った。 彼女をずっと見続けて来た。 そんな君に、顔向け出来ないような事は、出来ないだろう。 「_________________また、一緒に海を見に行こう」 彼は目を伏せたまま、彼女と共に車へと向かう。 手に残る彼女の重さを感じながら、彼は無言で歩みを進めた。 天には陽が昇り、彼の背を照らし続けていた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加