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「いらっしゃい。」 右手の厨房を囲うようにカウンターが並び、奥にはテーブル席がある。この雰囲気は好みだった。地元の旅館でよく見られる木目調のデザイン。白に近いほど明るいカウンター、黒に近いほど光を跳ね返す太い柱。しかし黒瀬が何よりも注目していたのは店主だった。 少し控えめな目にすらっと長い鼻筋、下唇は脂の乗ったとろのようにぷっくりとしている。左耳に艶やかな長い黒髪をかけ、ふっくらとした涙袋が浮かんでいた。ほんの少し眉をひそめ、どこか寂しそうな表情が色っぽい。黒瀬は息を飲んだ。これほどまでに妖艶という文字が似合う女性がいるのか。咄嗟に右端へ座り、隅から店全体を眺めた。 どうやらこの店は彼女1人で経営しているのだろう。対岸のカウンター、テーブル席にはくたびれたような男性が並んで酒を呷っている。どうやら常連のようだった。 「初めましてだね、学生さん?」 太く巻かれたおしぼりは薄く湯気を放っている。手に取って黒瀬は答えた。 「はい。3年前に上京してきたんですけど、まさかここに店があるなんて思いませんでした。」 「そうね、ここは常連さんばかりなの。」 「涼子ちゃん、生2つ。」 カウンターから声がかかり、涼子と呼ばれた店主は明るい返事でこちらに背を向けた。束ねた髪が靡いて香る女性の匂い。シャンプーや香水では作り出せない濃厚な肌の香りだ。思わず下腹部に熱が宿りそうになる。黒瀬は今夜を充実させるためにこれからの計画を立て始めた。色気のある店主を見ながら酒を飲み、数日前に購入したお気に入りのアダルトビデオを見て自慰行為に耽る。我ながら完璧な計画だ。 「何飲む?」 カウンターの奥に立つ彼女の肩越しに、火元責任者の名前があった。橘涼子、彼女の名前だろう。黒瀬はおしぼりで入念に手を拭きながら言った。 「生1つ。それと…。」 壁に貼られた短冊のようなメニューに目をやる。軽く流してから決めた。 「トマトとキュウリのナムル、長芋のステーキで。」 一言返事をして微笑んだ橘は、男性が一度は求める、熟れた女性だった。言葉や1つ1つの所作に隠しきれない色気がある。彼女にとっての当たり前が男性陣にとっては甘い蜜ということだ。購入したばかりのピースを手に取って封を切り、口に咥えて火をつけた。 常連といえど何も話さない客だっている。しかしここにいる男性たちは皆橘の蜜に集るかぶとむしのようだった。彼女の液体を啜れば不老不死を得ることができる、そんな必死さが見て取れる。8月の末、依然として太陽が光を散らしている中であのかぶとむし達はこの後どこに消えていくのだろうか。 「はい、生ね。」 白く濁ったジョッキに注がれた麦芽飲料は小さな黄金を弾けさせ、その上に柔らかな雲を乗せていた。たまらず縁から零さないように喉へ流し込む。ビールなどによく使われるのどごしという言葉は日本人独特の感覚らしい。海外では表すことのできない飲料の刺激がひどく冷たくて、目を瞑ってしまうほど美味かった。一度に半分まで飲み干し、静かに息を吐いた。飲酒は最上級の呼吸である。照りつける太陽の下で渋谷の人混みに揉まれていた自分の体に蓄積された疲労が浄化されていくようだった。 「いい飲みっぷりだね。はい、ナムルと長芋のステーキ。」 笑顔にも硬度があるのだと、黒瀬は知った。厨房からこちらを見て微笑む橘の表情はこの世の何よりも柔らかい。マシュマロを指でぐーっと圧縮していくように、気が抜けたようにも見えるふとした笑顔。何気なく放った矢がたまたま相手の急所に刺さる、そんな感覚だ。 (この店の常連になろう、ここはあまりにも良い。) まるで自分がアップグレードされたかのように思え、黒瀬はナムルを摘んだ。
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