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「ありがとうございました。」
白い浴衣に赤い花弁が描かれた浴衣が優雅だった。扉の向こうに頭を下げて2人きりの店内に静けさが宿る。残り20分で閉店となる、時刻は9時半を回っていた。
「私たちだけになっちゃったね。」
振り返って一度微笑んだ橘は、対岸に渡って男たちの残骸を片付けていた。明るい木のカウンターに皿やジョッキを置く。アルコールの勢いが強くなって黒瀬は言った。
「涼子さんって、このお店開いて長いんですか。」
「まぁね。旦那に先立たれてからはずっと1人。」
未亡人、というやつだろうか。何故かその単語だけで彼女がより色っぽく見えてしまうのだから、男は愚かな生き物である。橘は厨房に戻ると皿洗いを始めた。小さな耳にかかる黒髪が浴衣にかかっている。キュウリの浅漬けを口の中に放り込んでぱりぱりと咀嚼して、静けさに目を瞑った。水の流れていく音、低く唸る換気扇、全てが心地よく思える。
「ねぇ、名前聞いてなかったよね。」
何故声にも波があるのだろうか。ねっとりと、それでいてスローな彼女の言葉に目を開けて黒瀬は答えた。
「黒瀬幸太朗です。」
「いい名前だね。幸太朗くんはさ、彼女いないの。」
大人は年下の恋愛事情が気になるものなのだろうか。少し前に数ヶ月間の交際期間を経て別れた彼女を思い出す。
「少し前に別れました。なんか、難しいですよね。」
何本目か分からないピースを抜いて火をつける。爽やかな苦味が広がって煙を吐いた。
「恋愛はお家みたいなものよ。」
流し場で皿とジョッキを洗っていく橘が言った。どういうことだろうか。視線だけこちらに向け、軽く微笑んで続ける。少しだけ重力に負けたような下唇は赤く照っていた。
「顔が玄関なの。綺麗にしていたら開けたくなるし、不潔にしていたら開けたくないでしょう。恋愛において大切なのは顔か性格かなんて議論がよくあるけれど、リビングに入らないとそのお家が綺麗かどうかなんて分からないじゃない。だから顔という玄関を開けて、リビングが清潔かどうかを知るの。人によって様々よ。平屋、一軒家、マンション、部屋が多ければ多いほど探る時間は長くなるし、物だって多いわ。趣味の悪い置物、自分も好きなバンドのCD、何を見つけて残念がるかはその人次第ってこと。」
なるほど、と唸ってしまった。だとすると自分の玄関は整っているのだろうか。髭は剃って吹き出物こそないが、端正な顔立ちではない。立て付けが悪い扉ということだろうか。思わず黒瀬は言葉を漏らした。
「じゃあ涼子さんの玄関はすごく綺麗ですね。」
自分の口から飛び出した後、ようやく何を言ったかに気が付いた。慌てて顔を上げると、橘は依然として皿洗いに徹している。聞こえていなかったのなら一安心だった。背もたれに体重をかけて一息つく。煙を吐いて残ったレモンサワーを流し込んだ。
水道が締まる音がして、布巾で手を拭く橘がこちらに近付いてきた。涙袋が控えめな目を押し上げて、眉尻が下がっている。どこか切ない表情だった。
「私の中、気になる?」
鼻から定期的なリズムで煙が抜けていく。一体どういうことだろうか。彼女の丸い目に吸い寄せられてしまい、身動きが取れなくなる。少しして橘は笑った。白く長い指が口元を覆う。
「私ここの2階に住んでるの。少し上がっていかない?」
ゆっくりと微笑んで橘から視線が反らせなかった。気が付けば唾を飲んで頷いていたのは、その動きしか出来なかったからなのかもしれない。
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