178人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
『子供のころ、風呂上がりに髪の毛を乾かしてもらうのが好きだった。指の腹が頭皮にあたる感触が気持ちよくて、何度もまぶたを擦った。たまに、絡まった毛髪を強引に指先で梳かれて、頭皮が引っ張られた。痛いと声をあげ、もうこれからは自分で乾かそうと思うのに、翌日の風呂上がりには、また、ドライヤーを母に手渡すのだ。濡れた髪のままで――』
続きを読もうとマウスをスクロールしたところで、部屋のドアをノックされた。
「ご飯、できたよ」
「今行く」
真人は反射的に答えた。少し名残惜しい気がしたが、ノートパソコンを閉じ、椅子から立ち上がる。今日の夕飯の当番は亮一だった。彼の作る料理はいつも美味しいし、ちょっとした工夫がある。
ドアを開けると、亮一がまだ立っていた。
「珍しいね。いつも呼ばなくても来るのに」
そういえばそうだ、と思う。真人はいつもお腹を空かせている。だから、当番じゃないときの朝、昼、夕方の食事が楽しみで、亮一が作り終える前にテーブルに座って、調理中の彼の姿を眺めるのが習慣になっている。
「亮一が小さいころって、ドライヤー、家にあった?」
「――なかったな。基本的には自然乾燥だった。夏は扇風機、冬はストーブで乾かしてた」
真人の、なんの脈絡もない突然の質問に、亮一は動じることなく答えてくる。こういうとき、付き合いの長さを実感する。出会ったころは、こうはいかなかった。
「僕も。ドライヤーなんて家になかった」
亮一の顔を、真人はじっと見た。毎日見ているのに、不思議と飽きない。額に入った目立つ皺、涙袋のたるみ、頬に点在する茶色いシミ――それらはすべて、真人といる間にできたものだ。
ふいに、亮一が右腕を上げ真人の頭を撫でた。よしよし、と泣く子供を慰めるかのように。
少しだけ自分より背の高い男に、真人はそっと体を寄せた。
最初のコメントを投稿しよう!