アパレル店員一日目

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アパレル店員一日目

 日上の店――D・Uの扉を開きながら、真人は「遅れてすみません!」と叫んでいた。  勢い余ってもう一度「すみません!」と叫ぶと、膝から力が抜けて、床にへたり込んだ。  腕時計を見る。十時十分になっている。手首に汗が一滴、二滴と落ちた。  ベビーシッターに智を預けたあとノンストップで走ってここまで来たが、十分も遅刻してしまった。ゼーハーと声に出して呼吸をしていると、足音が近づいてきて、止まった。  座ったまま顔を上げると、日上が立ったまま腕を伸ばしてくる。手を差し伸べるみたいに。親切すぎる態度に躊躇しつつも、右手を持ち上げようとしたとき、日上が言った。 「デザイン画出せ」  優しくも冷たくもない、事務的な声だった。  自分の勘違いにちょっと恥ずかしくなった。真人は慌てて背中のデイバッグを床に下ろして、中身を探る。クリアケースごと、昨晩描き上げたデザイン画を日上に差し出した。 「よし、約束通り十枚あるな」  満足そうに笑みを浮かべたのは束の間だった。彼はさっさとレジの方向に歩いていく。  真人は背後のドアに手をついて立ち上がった。まだ疲れていて頭がクラっとした。 「すみません、遅れて」  日上の後を追いながら言うと、「良いよ別に」と素っ気なく返される。 「智がぐずったか何かで遅れたんだろ?」 「はい、まあそうです……」  今朝はどうもついていなかった。離乳食を食べるペースがいつもより遅かったし、家を出ようとしたタイミングで、智がオムツの中にたっぷり排便した。ベビーシッターに預けるときも真人と別れるのを嫌がって大泣きした。必死に追い縋ってくる息子の姿に胸が痛んで、いないいないばあをしてあやしていたら、時間があっという間に過ぎてしまった。 「大変なのは分かってるから。何度も謝らなくて良い」  言いながら日上が振り返り、真人の首から足先まで視線を数回、往復させた。すぐにファッションチェックだと分かって冷や汗が出た。 「お前なあ、この店で働くってのにどうしてこうセンスのない服と組み合わせを……」  ため息まじりに言われ、真人は「すみません」としか返せなくなる。子育てをしていると汚れて困る服なんて着ていられないし、そもそも自分にはファッションセンスが微塵も備わっていないのだ。今日子と恋人だったときは、彼女に服のアドバイスをされて少しはお洒落にしていのだが。今は助言を受けることもない。 「まあこんなことだろうと思って、適当に服選んどいた。これ着て」  レジからすぐ近くにある試着室を指差しながら、日上がシャツとボトムを無造作に押し付けてくる。  彼の指示に従い、真人は試着室に入って着替えた。昨日と同じブルージーンズ、昨日と色違いのブルーのパーカーを脱ぎ捨て、日上から受け取った服を身につける。  白いVネックニットに、黒いコーデュロイのシャツ、細身の黒いパンツ――どれも自分では選ばないであろうコーディネイトだった。そもそも、こういう服がどこで売っているのかも知らない。  鏡に映る自分の姿にもピンと来ない。似合っているのかいないのか。少なくとも先ほどの服装よりよそ行きの印象を受ける。だらしない感じもなく清潔感がある。その程度の感想だった。  試着室のカーテンを開いた瞬間、腕組みをして立っている日上と対面する。  彼は一瞬目を見開いたあと、口角を上げて「悪くないな」と呟いた。 「そうですか?」  観察するような視線を注がれ、どうも居心地が悪い。 「靴はこれ履いて」  床に視線を落とすと、自分が脱いだ靴は消えていた。代わりに、カラフルなスニーカーが置かれている。ベースは焦げ茶色のスエードとメッシュ生地が使われているが、サイドの差し色と靴紐が黒、足の甲に当たる中央とアンクル部分が渋い臙脂色、踵がピンク色のシリコン素材と、パッチワークみたいな靴だった。多種多様な素材、色を使っているのに、不思議と調和が取れている。派手なのに品がある。  今まで靴に興味なんてなかったのに、じっとスニーカーを見つめた。すると、全体の面積を占めている焦げ茶色の部分が、翼を広げた鳥の形に見えてくる。  ――あ、なんかこれ、いい。  頭にパッと浮かぶ。パッチワークの空に飛び立つ鳥。  試着室の床に放っていたデイバッグを掴んで引き寄せ、中からスケッチブックとペンケースを取り出した。
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