出会い

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出会い

 真人が鼻を擦ろうが、目頭を押さえようが、頭にまとわりつく煙を手で払おうが、誰も喫煙を止めてくれようとはしない。仕方がない。理屈ではわかっていた。ここは煙草を吸うことを前提にした酒の席であり、吸うなと言う権利が真人にはない。せめて、こんなに狭い個室でなければ――真人はひっそりとため息をついた。座敷も壁もヤニでちゃばんでいて、ここはもう喫煙所でしかないのだと諦めの境地になる。  可動音がやけにうるさい冷房からは、冷たすぎる風が真人の頭皮を掠め、そのまま全身にしみ込んでしまいそうだ。 煙の向こう側で、愛想笑いを一時間以上続けている女をぼうっと眺めながら、隣の男の話に、時たま相槌を打つ。退屈だった。 「こら松田、気が利かねえなあ。グラスが空になってるじゃねえか」  口の悪い上司に「すみません」と答えながら、松田と呼ばれた女は笑顔を維持しつつ、隣で胡坐をかいている男――日上亮一のグラスにビールを注いだ。ラベルが下になってるじゃねえか、とまた女は怒られた。 「すみませんね、日上さん。この子はまだ、入社して三か月なんですよ。新卒だから気が利かなくて」  真人は、向かい側に並んで座っている三人を見ながら、「男女雇用機会均等法」と、心のなかで呟いた。七年前に制定され、六年前には施行されたというのに、まったくそれは功を成していない。いや、違うか。この程度のことを禁止する法律ではなかったはずだ。真人の思考は法律からすぐに離れた。それにしても――業界のことをたいしてしらない新卒の子が、お酌をするためだけに、この場にいる。煙草の煙を大量に吸っているであろう艶のある黒髪が、なんだか憐れに見えてきた。 「松田さん。今、ポケベル鳴りましたよ。電話しに行ったら?」  真人は助け舟を出していた。松田はあわてて、テーブルに置いてあったポケベルを手に取ったが、一拍置いて戸惑ったように眉を寄せ、真人をほうを見た。 「いいから行ってきなよ」 「あ……はい。ありがとうございます。日上さん、五味さん、ちょっと失礼します」  浅く頭を下げ、松田はそそくさと立ち上がり、格子の引き戸を開けて出て行った。  自分の皿に残っている刺身に、真人は箸をつけた。店員が運んできてから、一時間近く経っている。水分が飛んでいるカツオのたたきは、あまり旨そうに見えない。 「佐田さんは『パクパクマン』以外に、どんな仕事をなさってるんですか」  真人の存在を突然思い出したかのように、五味が全開の笑顔で話しかけてくる。さっきまでの松田に対する態度が、嘘のようだ。  カツオと箸を皿に置いて、五味に笑いかける。最近営業スマイルが板についてきたと、真人は自負している。 「テレビゲームのキャラデザインは、あまりやってないんです。PC98シリーズなら、『学園オゾン』とか……」  話の途中で、隣に座っていた男が興奮したような声をあげた。 「うわー『学園オゾン』って!」  目を輝かせて、真人の顔を見つめてくる。 「俺、かなりそのソフトで遊びましたよ。お世話になったっていうか! ヒロインが可愛いしエロいし」  まさかここまで『学園オゾン』に食いついてくる人がいるとは。真人は苦笑しながら、目が点になっている日上と五味に説明した。 「あ、『学園オゾン』は、その……はっきり言うと、アダルト系のゲームなんです。主人公の男の子が、周りにいる女の子をどんどん落としていって、エッチな事もするっていう――」  話しているうちに、真人は居た堪れない気分になってきた。 『パクパクマン』は、二年前に発売されて人気を博したゲームソフトだ。子供向けの愛らしいキャラクターを、真人が一から作り上げた。そのイメージと、『学園オゾン』はかけ離れている。 「パクパクマンで名をあげたのに、二年でずいぶん落ちぶれたんだな」  日上が一時間ぶりに、真人に対して声を発した。宴会開始時に名刺交換と自己紹介をしたきり、一度もしゃべっていなかった。  ――落ちぶれたって――ひどい言われ様。  日上の辛辣な一言に、返す言葉が見つからない。初対面で、正面きってこんなに遠慮なく言ってくる人間を、真人ははじめて見た。  あはは、と真人はとりあえず笑った。しかし声が掠れた。日上と目が合うのが嫌で、彼の口から吐き出される煙を目で追う。それは上昇するほど細切れになって、木目の天井でふわりと弾かれた。視線を自分の手元に移すと、彼がわざと真人の顔を見ているのがわかる。こちらの反応を窺っているような意地の悪い目つきだ。顔の輪郭を執拗に辿られているように感じて、落ち着かない気分になる。さっきまでは、こちらにぜんぜん興味がなさそうだったのに。視線が交わることなんて一度としてなかったのに。 「おまえ、プライドってもんがないのかよ」 「――『パクパクマン』が売れて、調子に乗っちゃったんですよね。独立してもやって行けるって勘違いした」  真人は他人事のように、自身のことを語った。  真人はもともと、ゲームソフトを製作する会社に勤めていた。社員数が十人にも満たない有限会社で、キャラクター造形、ゲームの背景イラストなど、真人がこなす仕事は多岐に渡っていた。誰もが真人のことを社畜と評するほどの激務をこなしていた。パクパクマンがヒットしたのに、手にした金は給料二か月分という少なさで、会社勤めに大いに不満を持ってしまった。自分に営業力がないと知ったのは、会社を辞めて数か月が経ったころだ。 「だから、どんな仕事でも引き受けるんだ?」  意地悪く笑う日上を、とうとう真人は睨みつけた。さっきから続く悪意丸出しの態度に、胃のむかつきが収まらなくなってくる。 「どんな仕事でも、僕は有難く引き受けますよ。仕事がないと食べていけないんだから。日上さんだってそうだろ? 結婚――してますよね?」  グラスを持つ日上の薬指には、指輪がしっかりと嵌っている。ファッションリングの類ではない。 「俺はちゃんと仕事を選ぶ」 「はっ、売れっ子は良いですね。そういうことがさらっと言えるんだから」  ふたりの間に不穏な空気が生まれた。五味も、真人の隣にいる男も傍観に徹している。もしかしたら面白がっているのかもしれない。 「すみません。僕、そろそろ帰ります。キャラクターのサンプルはこの中に入ってますので」  真人は隣の男にクリアケースを渡し、少し痺れた足の裏を軽く揉んでから立ち上がった。ここにきて、五味と隣の男が義務的に引き留めてくる。だが真人は、これ以上この部屋にいることが我慢できなくなっていた。三人の男たちが吐き出す煙も、不快で仕方ない。 「失礼します。ご馳走さまでした」 真人は五味に向かって会釈した。「またこちらから連絡しますよ」と言いながら、五味が会釈を返してくる。彼の隣にいる男が、嫌でも目に入ってくる。日上はもう真人に興味をなくしたように、下を向いて煙草を吸っていた。 真人が出口に向かって歩き出したときだった 「ただ今戻りましたっ」  引き戸が開く音と共に、松田のピチピチした声が室内に響いた。 「あれ? 佐田さん、もうお帰りですか?」  松田が引き戸の前で、きょとんとした顔をして首を傾げた。彼女は化粧直しをしてきたらしい。ぽってりとした唇に、きっちりとピンクの口紅が引かれている。 「ちょっと所用があるので、帰ります」  松田の肩近くにある格子に手を置くと、彼女はあわてて引き戸から退き、近くの壁に背中をくっつけた。 個室から、賑わいを見せる広いフロアに移っても、相変わらず煙草の煙と臭いが目や鼻を突きさしてくる。空調は個室のときよりは設定温度が高そうだが、それでも空気がひんやりとしている。ワイシャツ一枚の真人には寒く感じる。足早になってレジを通過し、店から外に出ようとしたとき、切羽詰まった声で名前を呼ばれた。松田の声だった。 「なに? 呼び止めて来いって五味さんに頼まれた?」  ドアの前で真人が振り返ると、松田の顔に朱が走った。 「いえ、違います。――さっきは、ありがとうございました。私のこと、助けてくれましたよね?」  松田が恥じらいと勇気を混ぜたような目で、瞬きもせずに真人の顔を見上げてくる。彼女の睫毛が、先ほどよりも長く黒々として見えるのは気のせいではないのだろう。 「この企画、通ると良いですね。一緒にお仕事させていただきたいです」  一気に言ったあと、松田は踵を返し、煙だらけの個室に走っていった。彼女の耳たぶが真っ赤に染まっていることを、真人は見逃さなかった。  肩にたくさん積もっていそうなヤニを手で払って、今度こそ店のドアを開けた。真人の気分に反し、真っ暗な夜空には鮮明な白い月が浮かんでいる。  ――参ったな。  自分がまずいことをしたのはわかっていた。やっとまともな仕事にありついた所だったのだ。『パクパクマン』の生みの親と、人気デザイナー日上によるコラボレーション企画。大手アパレル会社『フォワード楢山』が、新しい子供服レーベルを立ち上げるために集めたスタッフで、顔合わせの飲み会を行っていたのだ。  ――なんなんだよ、あいつは。  自分たちの仲違いで、この話が潰れるということはないだろう。あくまでも、ビジネスはビジネスだ。だが、無事に企画が通り新レーベルを誕生させることになれば、嫌でもまた日上と顔を合わせなければならなくなる。どちらに転んでも、憂鬱なことには間違いない。  真人が受けた日上の第一印象は「最悪」の一言に尽きた。
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