妻と子供

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妻と子供

「まこちゃん、唐揚げ落ちたよ」  妻の声で真人は我に返った。あわてて自分の左手に目を向ける。 「あ」  箸で挟んでいたはずの唐揚げが消えている。テーブル一面に目を走らせても見当たらない。足元を見ると、ベージュの絨毯に一口大の茶色い塊が落ちていた。毛足のないカーペットでよかった。真人は椅子に座ったまま床に手を伸ばして、唐揚げをつまみ上げた。ふーふーと息を吹きかけ、ぱくりとそれを口に入れる。 「あ、食べた」  今日子が呆れたように笑う。  彼女は向かい側の席で、真人が作ったカレーを食べている。   唐揚げは昨日の夕飯の残りだった。 「大丈夫。昼に掃除機かけたから」 「あ、そうなの? ありがとう。助かるわ」  微笑む今日子に笑い返したが、真人の心境は複雑だった。――だって家にいるのだ。仕事もせずに。  結局、『フォワード楢山』の案件は企画倒れに終わった。五味の立てた企画は社内プレゼンで一度は通ったが、それからすぐに会社の上層部が一新された関係で、新規ブランドの立ち上げ自体がなくなったらしい。バブル崩壊の煽りで、新しいことに予算を割けないのだろう。  不快に終わった飲み会からすでに三か月が経っている。その間にもらった仕事は、細々とした小遣い程度のものばかりだった。 「暗い顔してるねえ。しょうがないじゃない、不況なんだから」  今日子が腕を伸ばし、真人の頭を優しく撫でてくれる。それを素直に喜べない自分がいる。これは男のプライドというやつなのか。自分のプライドの高さなんて、今まで意識してこなかった。  もうすぐ三回目の結婚記念日が来る。それまでには手堅い仕事にありついて、今日子と智を連れて旅行にでも行きたいな、と真人は思っていた。 「近いうちにさ、智を連れて旅行にでも行かない? 一歳になれば、飛行機なんかも乗れるよな」 「そうだねえ。乗れるかもしれないけど、まだ早いんじゃない? 泣いたら周りに迷惑かけるだろうし。近場でいいよ。私も仕事、そんなに長く休めないし」  一瞬、面倒くさそうな顔をした今日子は、繕うようにして口角を上げた。仕事が忙しくて、旅行の計画を立てるのも億劫なのかもしれない。真人がすべて仕切ると言っても、彼女は素直に任せてくれるタイプではない。しっかり者で、男を頼ることもない。美容師の仕事を堅実にこなしていて店からも客からも良い評価を得ているようだ。真人の妻は、精神的にも経済的にも自立している。  真人は改めて妻の顔を見た。美味しそうにカレーを頬張る彼女は、三十歳の割に若々しく美しい。美容師という職業柄か、美意識が高いのかもしれない。肌や髪から放たれる艶、カサカサになったことがない唇、いつも塗っている黒いマスカラは、彼女の派手な顔立ちに似合っている。――自分には勿体ない女だ。 「じゃあ関東圏の、手ごろなところに行こう。僕が良い仕事取れたらさ」 「うん」  今日子の相槌に、智の泣き声が被さった。襖で仕切られた隣の部屋から、乳児特有の、甲高いのになよなよした声が聞こえてくる。 「あー泣いちゃった。ちょっと行ってくるね」  伸びた前髪を掻き上げ、ふーっと深呼吸のようなため息を吐いて、今日子が立ち上がる。のんびりとした歩調で寝室に入っていく妻を見送ったあと、真人も椅子から下りた。  つかの間の休息は終わった。もう二十一時を過ぎている。  スプーンの載った、所々カレーとご飯粒がこびりついた皿のなかに箸を放り込み、その上に自分が使った唐揚げ用の小皿を載せて両手で持つ。流し台に移動して、食器洗いを開始しようとしたときだった。家の電話が遠慮なく鳴り響いた。真人はあわてて、キッチンカウンターに置かれている電話の子機を掴んだ。呼び出し音で智が余計泣いたら大変だ。 「はい、佐田です」 「――佐田さん?」  自分と同年代ぐらいの、若い男の声が聞こえてきた。なんだか気怠そうな声音だ。すぐに誰だかわからない。まずは名乗れよ、とも思った。 「どちら様?」  少しぶっきらぼうに問うと、耳障りな咳払いが耳元でした。 「あー俺、日上だけど」 「えっ? ――日上、さん?」  意外すぎて、真人は素っ頓狂な声を出してしまった。あの最低な飲み会以降、会うことも話すこともなかった。これから先もないだろうと思っていた。 「そうだって。突然で驚いた?」 「そりゃあ、まあ――」  驚かないわけがない。 「フォワードの仕事の件ですか?」  頓挫したコラボ企画が復活したとか―― 少し期待して真人が聞くと、「違う」と即答される。 「おまえのキャラクターデザイン見せてもらった。――悪くなかった」  最後のほうは心なしか小さい声だった。でもしっかり聞こえた。  ――日上さんが、褒めた? 僕のことを?  真人は自分の耳を疑った。何も言えずにいると、若干苛立ったような声で「おい」と呼びかけられた。 「聞いてんの? せっかく褒めてやったのに、無反応かよ」  あんたこそ何様だよ? と思わなくもなかったが、褒められて嬉しい気持ちのほうが強かった。 「あ――ありがとうございます。日上さんに褒めてもらえるなんて、ちょっと信じられなくて」  焦りのせいで口調が早くなった。心臓がどくどくと音を立てていた。子機を握る手のひらも、汗ばんでいる。いや、手だけじゃない。額や首筋にも、じわりと汗が浮き出てきた。 「俺だって褒めるときは褒めるよ。フォワードの企画が潰れて、惜しいなと思ったんだ。おまえの作ったキャラクター、使ってみたい。俺の店の服に」
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