日上の店

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日上の店

 智をおんぶ紐で背負いながら、真人は電車を乗り継いで、日上の店がある原宿駅までやってきた。通勤ラッシュの時間帯を避けたため、座席には座れたものの、いつ智が泣き出すか気が気ではなく、距離は短くても精神的に疲れてしまった。こういうとき、マイカーがあればと思う。真人は最近免許を取ったばかりで、車を所有していなかった。  レトロな木造駅舎を出て、平日の竹下通りを歩く。いつも込んでいるイメージが強いが、今日は空いていた。といっても、もちろん無人のわけがない。制服を着た学生が案外多い。学校をサボってここにきているのかもしれない。カジュアルな恰好をした大人の姿も店や道で散見する。  十か月の智は、だいぶ体重が増えていた。背中と肩にそれ相当の負荷がかかる。眠っているから余計重い。手の中に余裕で収まるふわふわのあんよを、手で包みこんだ。やわらかい。履かせているガーゼ生地の靴下は、今日子の母親が贈ってくれたもので、赤い車のイラストが描かれている。  十月のさらさらした風を頬に感じながら、真人は目的の場所へと急いだ。  ガラス張りの広い喫茶店を通り過ぎる。客がひとりも座っていないようで、ウェイトレスがレジ前で欠伸をしていた。ランチ前の時間帯だから空いているのだろう。この通りのほとんどが、ファッション系の小売店だ。若者向けのレディース、メンズの洋服店、全国でチェーン展開している靴屋、帽子や鞄が並んだ若者でも手が届くようなB級ブランドショップ――その合間に、写真がずらっと張られているアイドルグッズ専門店や、テレビでよく紹介されている人気のクレープ屋が立っている。レジ前でオーダーしている若い女の子の後ろ姿が目に入る。 「智、良い匂いだね」  背中で静かに眠っている息子に、声をかけた。クレープ生地と生クリームの甘い匂いが店から漂ってくる。つい買って食べたくなるが、のんびりしている時間はなかった。  クレープ屋を通り過ぎ、竹下通りから脇道に逸れた場所に、日上の店があるはずだった。  真人はジーンズのポケットにしまっていたメモを取り出し、日上の店の名前と、住所の確認をする。  細い小路に入ってすぐの、三階建ての茶色いビルを見上げた。ここの二階だ。ずいぶん地味な建物で、目立つ看板もない。向かい側にある芸能人のショップのほうが大きな顔のイラストまで飾ってあって目を引く。 ビルの外階段は、錆びの目立つらせん階段だった。念のため智のお尻を押さえながら、右手で手すりを握って一段一段慎重に上っていく。  二階に着くと、全開になった黒い観音扉が目に入ってくる。そのドアの店名「DU」と黒字で書かれた白い紙が貼られていた。   思っていたよりずっと、小規模でこぢんまりとした佇まいだった。店内に足を踏み入れ、大き目の声を出す。 「こんにちは! 佐田です!」  店内は、床も壁も天井も、すべて打ちっぱなしのコンクリートだった。広さは結構ある。ざっと見てニ十坪あるかないか。スチール製の洋服ラックが室内に均等に置かれている。ハンガーに架かった黒いジャケット、ワイシャツが目を引いた。 「お、来たか。こっちこっち」  室内の奥のほうに、レジの置かれたカウンターが見える。そこに日上はいた。真人に向かって手招きをしている。フレンドリーな彼の態度に、真人はほっとした。 「お久しぶりです」  真人は会釈をしてから、レジカウンターへ向かった。 「素敵なお店ですね」  日上の正面に立ち、真人は彼の目を見て言った。お世辞ではなく本当にお洒落な内装だと思った。  だが日上は嬉しそうな顔をせずに、呆れたように冷めた笑みを浮かべた。 「なにその恰好。ダサい」 「え?」  真人は自分の体に視線を巡らせた。上はグリーンのパーカー、下はノーブランドのブルージーンズ。どちらも数年前に自分で買った物だった。 「スーパーで買ったんだろ。そんなひどいデザインの服、よく見つけたな。服に興味がないんだろ」  思い切り着ている服にダメ出しをされる。 現役の服飾デザイナーに言われては、怒る気にもならない。彼の言う通り、真人は服に頓着しない性質だった。動きやすくて、汚れても良いと思える服が好きだった。智が生まれてからはとくにその傾向が強くなった。 「顔は良いのにな。モテるだろう? ――男に」 「は?」  ――男に、って。  体中の熱が一気に顔に集まった。何か言い返したいのに声が出ない。 確かに男にもモテていた時期があったが、素直にそれを肯定したくない。 「その目は天然?」 「――え?」  ――天然って?  さっきから「は」とか「え」とか、言葉の切れ端しか口から出てこない。自分が馬鹿になった気分になる。  胃がむかついてきた。落ち着け、と自分に言い聞かせ、背中に負ぶっている智の尻を撫でた。 「日上さんって――リアクションに困るようなことばっかり言いますね」  変な冗談ばっかり――と笑って見せようとしたが、失敗に終わる。 「おまえの頭の回転が悪いんだろ」  これまた辛辣なダメ出し。  ――この人、僕のことが嫌いなのかな。  昨晩の電話では、イラストを褒めてくれたはずなのに。  日上がレジカウンターの仕切り戸から出てきて、真人の背中に回り込んだ。智のことを見ている。 「可愛いな」  初めて日上が目を細めて笑った。いつもの嫌味混じりの表情がなりを潜める。 「名前は?」 「サトシって言います。才智の智です」 「良い名前だな」  日上の手が智の頭をゆっくりと撫でた。 「可愛いな、本当に。睫毛が長いし――ホッペもふわふわだな」  もう一度褒められ、真人の顔から力が抜けた。 「ありがとうございます」  自分のことを褒められるよりも、何十倍も嬉しい。 「ベビー服も作ろうかな。この子、モデルにしてさ」  智の頬をツンツンと押して、茶色みのある髪の毛を軽く梳いた。  日上は子供好きな男なのかもしれない。 智に対しては惜しむことなく笑顔を向けていた。自分には一度として微笑みかけてくれることがないのに。 「さっさと持ってきたデザイン画出せよ」  ちょっとぼんやりしていただけなのに、日上がきつい目を向けて急かしてくる。 真人は斜め掛けバッグからクリアファイルを取り出した。中にはA4のラフ画が十枚入っている。メンズ用のポロシャツやTシャツに使えそうな手書きのロゴ、一色使いの抽象的なマーク、デフォルメした動物のイラスト。どれも子供っぽくならないように試行錯誤を繰り返した。色付けはパステルで。 真人は緊張しながら日上に手渡した。 「ふーん、使えそうなやつも何個かあるな。さすが」 ラフ画に目を通した日上が、満足げに口角を上げ、真人に初めて好意的な笑みを浮かべた。 「気に入った。もっと描けよ」 「え? もっとですか?」 「そうだ。俺が飽きるまでな。お前にとって損はないだろ?」 「そりゃ、そうですけど……」  それでは彼と、仕事で長い付き合いになる、ということか?  真人は少し戸惑った。日上との仕事は面白そうだし魅力的だと思うが、彼とは性格が合わない。絶望的に。 「報酬については、今度改めて話そう。著作権の話も」 「はあ」  さっさと話を進めてしまう日上に、真人はついていけない。急展開すぎる。 「なんだその、とぼけた顔は。ほんと頭の回転が悪いな」  日上が呆れ顔になる。 「智はいつもどうしてるんだ。毎日お前が面倒を見てるのか。今日はたまたまか」 「あ――僕がいつも見てます。妻は仕事で、火曜日しか休みがないから」 「はあ? そうなの? じゃあまともに仕事の時間なんてとれないじゃん。このデザイン、いつ描いたんだ?」  今度はイライラしたように腕を組む。忙しい人だ。 「夜です。智が寝たあとに」 「だからか。お前の目の下、隈ができてる」  そういっていきなり日上が、真人の下瞼に指で触れてきた。 「あんまりそういうこと言わないでくれます? 寝不足だったこと思い出しちゃうんですけど」  話しながら欠伸がでそうになる。寝不足を自覚したら急に眠くなった。瞼が重くなる。智の体重が倍になったかと思うぐらい重くなった。 「おい、ここで寝るなよお前」  よろめいた真人の体を、日上が慌てて支えてくれる。両肩に彼の指が食い込む。 「一睡もしてないのか」 「はあ」  昨晩はラフ画を描くのに夢中になり、気が付いたら朝になっていた。そのまま寝ないで、自分と今日子の朝食、智の離乳食を作ったのだ。その後全部屋(といっても、居間と寝室しかないが)の掃除をしてから、ここに来た。 「おい、体重かけるんじゃねえよ、重い」  またイライラしたような声で日上が言う。 「日上さん、どうしよう。眠い」  自分の眠そうな声を聞いていると、余計眠くなるという悪循環。 「お前バカなのか」  そうかも、バカなのかも――と声になったかは分からない。口がふにゃふにゃしている。 「バカなんだな」   質問から断言に変わった日上の口調は、いたく真面目だ。盛大な彼のため息が、ぐだぐだになった思考に溶けていく。
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