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仕事のオファー
目当てのクレープ屋までノンストップで走り込み、列の最後尾に並んだ。といっても、幸いなことに真人の前には三人だけ。人気クレープ店でも、平日の昼前はそこまで混んでいない。すぐに真人の番になり、クレープを四つ頼んだ。いちごバナナクリームと、チョコバナナクリーム、チョコレートシナモン、バニラアイス入りチョコクリーム。もっと欲しかったが、片手に二つずつが限界だ。
左手のクレープにかぶりつきながら日上の店に戻ると、レジには日上じゃない男が立っていた。
真人は危うく、クレープを手から落としてしまいそうになる。慌てて溢れそうになったクリームを舌で舐めとり、レジの男に聞く。
「あの、日上さんはどこに」
「スタッフルームにいますよ」
可笑しそうに男が笑いながら、口元を指でトントンと叩く仕草をした。真人はよくわからなくて首を傾げた。
彼にドアを開けてもらって、スタッフルームに足を踏み入れる。まず視界に入って来たのは、ぎこちない動きで伝い歩きをする智の姿だった。
段ボールを縦に二箱、横に二箱並べただけの即席の正方形のテーブルに、智が小さい手を置いて、せっせと蟹歩きをしているのだ。
真人は思わずわが子に駆け寄ろうとして、両手がふさがっていることに気がついた。急いで左手に残ったクレープ一つを食べ、右手のクレープ二つを、重ねた状態にして同時に平らげる。
ようやく満腹になった。頭が働き始める。
「日上さん、ありがとうございます。息子を見て頂いて」
素直に礼を言って、頭を下げた。
日上はちゃんと智の後ろに立って、いつでもフォローできる体勢を維持してくれている。子育てに慣れていることが分かる。
「もう伝い歩きができるんだな。早い方だな」
日上が感心したように言う。彼の視線はずっと智に定まっている。
「そうですね。十か月の割には早いかも」
智との距離を縮めながら真人が答えると、日上が顔を上げた。
「ここまで動けると、面倒見るのが大変だろ」
智の頭を撫でながら、「どうすんの」と問うてくる。
「どうすんの――って」
「智の面倒を見てたら、仕事も儘ならないだろ。俺としては、お前にコンスタントにデザインをあげて欲しいんだよ。そうだな、一日に最低百件は」
「無理です」
真人はきっぱりと言った。考えるまでもない。無理なものは無理だった。
「服だけじゃなくてさ、バッグや靴下のワンポイントも考えて欲しいし」
真人の声が聞こえなかったらしい。日上がこれからの計画を意気揚々と語り続ける。
――勝手な人だなあ。
でも、腹が立ったりはしなかった。真人のデザインを認めてくれていることが分かるし、話しながらも智の動きに注意を払ってくれている。器用な人だ。自分ではこうはいかない。
智が伝い歩きをやめて、床に這い始めた。真人は智を抱き上げ、軽く揺すってやる。機嫌よく声を上げて笑ってくれる。
「ベビーシッターにでも預けたらどうだ?」
「それ、僕も考えたんですけど、家の近くでやってないんですよ」
なにより個人のベビーシッターは費用が高い。一才に満たない子供は特に。
「来年の四月からは、保育園に預ける予定です」
そうは言ったものの、確実に預けられる保証もない。入園の申し込みをしても、真人の仕事業態がネックで選考から漏れるかもしれない。
「奥さんに仕事をセーブしてもらえば? お前だって仕事してるんだし、負担がかかりすぎだろ」
日上が真っ当な指摘をしてくる。実は真人も、今日子にもっと子育てに参加してほしいと思っていた。美容師の仕事が肉体的にも精神的にも大変なのはわかっているが。
妻が通勤の日にしてくれる事といったら、おむつ替えと智の寝かしつけぐらいだ。しかも、智が夜中に泣き出しても、彼女は起きずに眠っている。真人は仕方なく、ぐずる智を抱っこしてあやすのだ。
真人が沈黙すると、日上があからさまな溜息を吐いた。
「お前らの夫婦関係なんでどうでも良いけど。パートナーにはちゃんと、自分の意見を伝えておいた方がいいぞ。鬱憤を溜めたままにしておくと、まともに喧嘩もできなくなる」
日上が真顔になって、真人に忠告してくる。
「でも、僕が不甲斐ないから。仕事もまともに取ってこれないし」
真人の収入は、妻よりもずっと少ない。こんな立場では、「仕事をセーブしてもっと智の面倒を見ろ」なんて言えやしない。
「だったら俺が雇ってやろうか。ここの店員として」
「へっ?」
素っ頓狂な声が出た。
――僕が服屋の店員?
未経験だし、日上とうまくやっていける自信がない。――でも雇ってもらえるのは有り難い。今より少しでも収入が上がるのなら。
「とりあえず一か月。服のことを知るにはもってこいだろ。俺の店の客層も把握できる。ずっと店に立つ必要はない。デザインが閃いたらこの部屋に籠ってくれて構わない」
好条件の申し出だ。つい二つ返事で承諾しそうになったが、とどまる。
「でも、智が」
毎日、智をここに連れてくるわけにもいかない。預ける場所を探さなければならなくなる。
「ベビーシッターの知り合いがいるから紹介する。俺も前に子供を預けたことがあるから、信用できる」
「有難いですけど――お金が」
高かったら、払うのが大変だ。
「もう今は引退している人だから、安くしてもらえるだろ。その人、ここの近所に住んでるから」
「じゃあ、ベビーシッターの部屋に智を預けるってことですか」
「そう。智の顔が見たくなったら、すぐに会いに行ける」
それは都合が良い。
真人には何の不満もなかった。自分にとって都合の良い話すぎて怖くなるぐらいだ。
「一か月、どっぷり仕事に浸かってみろ」
にやりと笑った日上が、真人の口元を見て更に笑った。
「ついてる、クリーム」
彼のひんやりとした人差し指が、真人の唇に触れてきた。
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